第42話 変わる、潮
伯方島沖の朝は、風がなかった。
水面が平らに見えた。
けれど、平らなのは表面だけだった。
遠くに、橋の線が見える。
白い橋桁の下を、船がゆっくり動いていた。
凪は岸壁にしゃがんで、水に指を入れた。
速い。
生口島の区画とは、別の水だった。
指先を少し動かすだけで、持っていかれる。
引っ張られるというより、最初から決まった道に乗せられる感じがした。
渚が、水面の端を見ていた。
「なんか変な感じがする」
「流れ?」
「分からん。でも、なんか変」
渚は、水面から目を離さなかった。
国際広の選手たちが、水際に並んだ。
体格は大きくない。
声も大きくない。
でも、立つ場所に迷いがなかった。
水を見ているのに、足元が浮いていない。
水際で待つ姿勢が、もう試合の形になっていた。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:12:00
方向:東→西 秒速0.7m
特記:来島海峡の影響・流れ変動あり
転流予定:13:10頃
花がボードの特記欄に指を向けた。
「転流って何なん」
澪がゴーグルを持った。
「流れが逆になる」
「逆?」
「予定通りなら、試合にはほとんど関係ない」
花が水面を見た。
「予定通りなら?」
澪は答えなかった。
国際広の選手たちも、ボードを見ていた。
誰も騒がない。
ただ、ひとりが水面にしゃがみ、指先を入れた。
その指が、すぐに上がった。
試合開始の笛が鳴った。
凪が潮核へ向かった。
先に拾う。
ゼッケンが赤く光る。
右へ流した。
そこに、国際広の手があった。
待っていた。
ゼッケンに指が触れる。
一秒。
凪は前へ出た。
左へ。
また、そこにいた。
二秒。
どこへ動いても、先にいる。
潮に乗って来たのではない。
凪が動く先を、最初から半分だけ閉じていた。
三秒の手前で、凪は手を放した。
潮核が流れる。
国際広の青いゼッケンが、それを拾った。
次のプレーも同じだった。
陽が動く。
深く潜る。
方向を変える。
国際広の体が、また先にある。
遥香が水面に顔を出した。
その一瞬に、結の声が飛ぶ。
「芽衣、右残して!」
芽衣が潜る。
でも、その角度も閉じられていた。
流れを読んでいるのではない。
凪たちの動きを、読んでいた。
青い光が、ゴールゾーンに沈んだ。
スコア:三原中央 0-国際広 1
第1ピリオド終了の笛が鳴った。
第2ピリオド。
陽が前へ出た。
最初の一歩は速かった。
でも、一拍遅かった。
深く潜る。
方向を変える。
空いているはずの場所が、もう狭かった。
陽が二度、三度と仕掛けた。
届かない。
三度目。
陽の腕が伸びた瞬間、指先だけが足りなかった。
昨日なら、届いていたかもしれない。
凪は水中から、国際広の動きを見ていた。
国際広は、動いた後に来るのではなかった。
動く前に、場所を狭くしていた。
待っている時間が短い。
こちらは、一拍ずつ遅くなっていた。
芽衣が前に出た。
潮核を持った国際広の選手に体を入れる。
ゼッケンに触れた。
一秒。
芽衣の足が揺れた。
二秒。
踏ん張る足が、昨日より少しだけ浮いていた。
三秒。
青い光が消える。
芽衣の手は離れなかった。
けれど、その横を、別の青いゼッケンが抜けていた。
凪は潮核を拾った。
深く沈める。
読んだ方向は合っていた。
でも、深さが半分だけ足りなかった。
疲れた腕は、思ったより先まで届かない。
花が止めた。
一人止めた。
もう一人の青いゼッケンが、その隙にゴールゾーンへ向かっていた。
沈んだのは、赤ではなかった。
青い光。
スコア:三原中央 0-国際広 2
第2ピリオド終了。
凪は水面に顔を出した。
これで負けたら、終わり。
誰かが言ったわけではなかった。
でも、水の中にいる間、ずっとそこにあった。
第3ピリオド。
渚はベンチで、水面を見ていた。
さっきより、変だった。
何が変なのか分からない。
けれど、水面の光の揺れ方が、少しだけ違う気がした。
同じ向きに流れているはずなのに、端だけが遅い。
遅いのに、止まっていない。
試合の中では、花が踏ん張っていた。
二人来る。
花が前に出る。
押される。
下がらない。
一秒前ならもう少し楽に入れた場所に、体が重かった。
それでも、下がらなかった。
三秒タッチ。
一秒。
二秒。
三秒。
青い光が消える。
凪が動いた。
潮核を探す。
足の裏が、流れを確かめる。
読めている。
でも、体が追いつくのが遅い。
国際広は止まらなかった。
精度が、疲れていなかった。
もう一つの潮核が流れた。
凪が追う。
あと少しだった。
あと半拍早ければ、届いた。
届かなかった。
青い光が、沈んだ。
スコア:三原中央 0-国際広 3
第3ピリオド終了。
渚は、水面の端をもう一度見た。
インターバル。
陽の肩が大きく動いていた。
芽衣は、その場に手をついていた。
澪が水面を見た。
それから、陽の前に立った。
「陽、渚と替われ」
陽が一度だけ頷いた。
澪は、芽衣を見た。
「芽衣、うちと替われ」
芽衣が顔を上げた。
何かを言いかけて、息だけが出た。
澪はもう水際へ歩いていた。
渚が岸壁の端に膝をつき、指先だけを水に入れた。
一秒だけ、目を閉じる。
それから立った。
第4ピリオドの笛が鳴った。
最初の十秒は、いつもと同じだった。
国際広が動く。
凪が対応する。
澪が位置を取る。
渚の足が、水の中で一拍だけ遅れた。
水が、変わった。
さっきまで右へ走っていた流れが、向きを失っていた。
水面が、一瞬だけ平らになる。
それから、逆から来た。
転流だった。
十三時過ぎのはずだった。
凪の頭の中で、数字が崩れた。
国際広の選手が、一拍止まった。
計算が、追いつかない。
凪も止まった。
新しい流れが来ていた。
でも、向きがまだ読めない。
速さも分からない。
足の裏が、新しい情報を探していた。
渚の体が、先に動いていた。
考えていなかった。
水の変わった向きが、体に届いた。
そっちだ。
潮核が、渚の前に来た。
ゼッケンが赤く光る。
国際広の選手が動こうとした。
けれど、どこへ向かえばいいか、まだ決まっていなかった。
渚が潮核を沈めた。
澪の方へ。
澪が受け取る。
そのまま、ゴールゾーンへ向かった。
赤い光が沈んだ。
スコア:三原中央 1-国際広 3
渚は、すぐに次の潮核へ向かった。
転流が続いている。
国際広の修正は早かった。
でも、流れの方がまだ揺れていた。
一手早く動こうとすると、一手ずれる。
渚は修正していなかった。
体が、流れに沿っていた。
新しい流れの端を、渚が抜ける。
ゼッケンが赤く光る。
沈めた。
澪が前へ出る。
赤い光。
スコア:三原中央 2-国際広 3
国際広の選手が水面に顔を出した。
何かを確認する。
その一瞬に、結の声が飛んだ。
「凪、右捨てて!」
凪は潜った。
右の潮核へは行かなかった。
国際広の二人が、凪の動きを追う。
凪は潮核に触れないまま、流れの端を横切った。
その逆から、渚が来ていた。
ゼッケンが赤く光る。
誰もいなかった。
渚の手が、潮核を沈めた。
赤い光。
スコア:三原中央 3-国際広 3
凪の足の裏に、何かが届いた。
流れが、固まり始めていた。
転流が終わって、新しい向きに落ち着いていく。
読める。
潮核が、流れの先に見えた。
国際広の選手も動こうとしている。
修正は、もう始まっていた。
でも一拍早く、凪の手が届いた。
ゼッケンが赤く光る。
凪がゴールゾーンへ向かう。
国際広の体が追ってくる。
でも、流れの向きはもう決まっていた。
誰も、間に合わなかった。
赤い光が、沈んだ。
スコア:三原中央 4-国際広 3
会場のボードから、最後の潮核表示が消えた。
残りは、なかった。
四つ目が沈んだ時点で、第4ピリオドは終わる。
試合終了の笛が鳴った。
時間は、残っていた。
岸壁に上がった渚が、水から指を出した。
「終わった」
遥香がその隣に腰を下ろして、リュックを引き寄せた。
「終わりましたね」
少し遅れて、凪が渚の横で岸壁に手をついた。
「さっきの違和感、何だったの」
渚は、自分の指先を見ていた。
「変わる気がしたんです。どこで変わるかは、分からんかったけど」
「転流だった」
「凪さんは、読めたんですか」
凪は水面を見た。
「途中から、読めなくなった」
渚が水を飲んだ。
「うちは読めんけど、変なのは分かります」
凪は水面を見た。
伯方島の水面に、新しい流れが走り始めていた。
宿泊棟の部屋に戻ると、誰も喋らなかった。
花がベッドに倒れた。
芽衣がその隣に横になった。
渚がジャージのまま丸まった。
遥香がリュックをおろす前に目を閉じた。
陽は、すでに動かなかった。
電気が消えた。
夜の部屋に、寝息だけが残った。
しばらくして、澪のスマホが光った。
誰も起きなかった。
画面に、通知が届いていた。
【地区大会3回戦】
三原中央高校 vs 宮島高校
会場:大三島沖 区画B
集合時刻:13:00
部屋は、暗いままだった。




