第38話 因島へ
早朝の三原港は、まだ人が少なかった。
待合所の前に、八人分の荷物が集まってきた。
ボールバッグ。スポーツバッグ。大きなリュック。
渚だけが、コンビニの袋を手に持っていた。
フェリー乗り場の方から、船の低いエンジン音が聞こえていた。
海はまだ、朝の色をしていた。
芽衣の目が、渚の手元で止まった。
「もう食べとるん」
「まだ朝ご飯じゃし」
「船の中で?」
遥香がジャケットのポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
広げた紙には、因島の地図と、しまなみ海道の全体図が並んでいた。
「備えてきました」
渚が首を伸ばして覗き込んだ。
「船で行くのに橋の地図もあるん?」
「位置関係を見たかったので」
澪が乗船券をまとめて持った。
「行くぞ」
八人が船へ向かった。
船が三原港を離れると、潮の匂いが全部を塗り替えた。
夏の朝の風が首筋に当たり、船底から低い水音が続いていた。
渚が手すりに両腕をのせた。
凪は水面を見ていた。
島の間で、流れが何度も折れている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
因島大橋が近づいてきた。
遥香の手が、手提げバッグの紐を離した。
「因島大橋って聞くだけで、遠くまで来た感じがします」
渚が顔を上げた。
「高いけんね、橋」
遥香は橋の桁の線を、下から一本ずつ目で辿っていた。
「大きい橋があるのに、渡らないんですか」
「船の方が早いけん」
渚がデッキの前に出た。港が近づいていた。
島に着くと、送迎バスが待っていた。
フロントガラスに「地区大会参加者」の紙が貼ってある。
すでに他校の選手が乗り込んでいた。
渚がバスの外観を見た。
「ほんまに大会っぽい」
「地区大会ですから」
遥香がバスに乗り込んだ。
バスは港を出た。
窓の外で、港のコンクリートが後ろへ流れていく。
係留された小さな船が揺れていた。ロープが水面を叩いて、低い音がした。
道はすぐに島の内側へ入った。
家の壁が近い。坂が多い。
カーブのたびに、渚のコンビニ袋が膝の上でかさりと鳴った。
しばらく走ると、また海が見えた。
マストの並んだ港が近づいてくる。
「ここ?」
渚が窓に額を近づけた。
「たぶん、因島マリンセンターです」
遥香が地図を畳んだ。
バスがゆっくり止まった。
因島マリンセンター。
潮球選手用の宿泊棟は、海のすぐそばにあった。
施設の廊下に、見慣れないジャージが並んでいた。
宮島高校の選手たちが、端に荷物を置いていた。声がない。荷物の置き場も、立つ位置も、決まっていた。
少し遅れて、国際広の選手たちが入ってきた。体格が一回り大きく、廊下が少し狭くなった気がした。
渚の足が、一歩だけ後ろへ下がった。
「強そう」
遥香が手提げバッグの紐を握り直した。芽衣がボールバッグの口を一度確かめた。
花がフロントへ向かいながら、他校の選手と目が合うたびに軽く頷いていた。
一年生三人が少し後ろに固まっていた。
花が振り返って、三人を見た。口角が少し上がっていた。
夕方、食堂に八人が集まった。
澪のスマホが鳴った。
全員の視線が、澪の手元に集まった。
【地区大会1回戦】
三原中央高校 vs 庄原北高校
会場:生口島沖 区画B
集合時刻:11:00
渚がスマホの画面を覗き込んだ。
「庄原北ってどんなとこですか」
「内陸じゃ。海なし」
花が椅子の背にもたれた。
澪がトーナメント表全体を開いた。
凪は表を辿った。
1回戦。
2回戦。
3回戦のところで、手が止まった。
澪を見た。
澪はすでに、そこを見ていた。
「まず庄原北じゃ」
澪が表の1回戦へ指を戻した。
その日の夜。
八人は部屋に集まった。
誰かのスポーツバッグが、壁際に開いたままだった。渚のグミの袋が、机の端に置かれている。
澪がホワイトボードにマーカーを走らせた。
凪 澪 芽衣 遥香 結
ホワイトボードに、五人の名前が並んだ。
渚の視線が、遥香の名前で止まった。
「遥香、水面じゃないんですか」
遥香の目が、自分の名前から動かなかった。
澪の目が、芽衣を一度だけ捉えた。
「芽衣と繋がれる。水中で一拍遅れん」
遥香が芽衣の方を向いた。
芽衣は、もう遥香を見ていた。
「頼む」
澪の声で、二人が頷いた。
澪がホワイトボードのキャップを閉めた。
「去年も生口島だった。でも区画が違う」
澪が地図の端を叩いた。
「こっちは島影が少ない」
渚が少し前に出た。
「同じ島でも違うんですか」
凪は地図ではなく、窓の外を見た。
暗い海は見えないのに、音だけが少し違った。
「海は、場所で変わる」
渚の首が、少し傾いた。
「それって、区画Aより楽なんですか」
凪が一度だけ花の方へ向いた。
「流れがまっすぐな分、相手も迷わず来る」
「じゃあどっちも難しいじゃないですか」
渚の口が、少しだけ開いたまま残った。
誰も返さなかった。
花は何も言わなかった。
ホワイトボードの文字を、ただ見ていた。
「明日、生口島沖」
澪がペンを置いた。
翌朝。
施設の玄関に八人が集まった。
渚がポケットからグミを出した。芽衣がそれを見て、何も言わなかった。
遥香はリュックのチャックを一度確かめてから、肩にかけ直した。
花が先に外へ出た。
朝の因島の空気が、昨日より少しだけ塩辛かった。
フェリーに乗っている時間は短かった。
生口島が近づくにつれて、海の色が変わった。因島でも三原でもない水の色。
島影が複数重なって、流れが細かく分断されているのが、水面の揺れ方で分かった。
会場に着いた。
集合と受付が終わるころには、日差しが少し高くなっていた。
庄原北の選手たちは、すでに水際に整列していた。
体格がいい。肩幅が広い。
水際に立っても、足元を見ていた。
波ではなく、足場を確認している目だった。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.3m
特記:島影少、流れ比較的均一
凪は水際にしゃがんだ。
指先が海に触れた。
冷たさは、まだ少し残っていた。
その近くを、流れが素直に抜けていった。
「行くぞ」
澪が水際へ向かった。
花と陽と渚がベンチ側へ下がった。
花は振り返らなかった。
試合開始の笛が鳴った。
遥香が、水に入った。




