第37話 花火のあと
地区大会前日。
夕方の空は、まだ少し明るかった。
オーシャンプラザ前の広場に、人が集まり始めていた。
昨日とは違う人の流れだった。浴衣の人。家族連れ。折りたたみ椅子を抱えた人。
広場の端の野外ステージは、今日は使われていない。
凪は屋根の下に立っていた。
セトグランの方へ、人が少しずつ流れていく。
夏の匂いがした。潮よりも、屋台の油と、湿ったアスファルトの匂いが強かった。
結が最初に来た。
「人、多いね」
「昨日と違う」
「昨日は踊りじゃけんね。今日は花火じゃし」
結が、広場に続く人の流れを目で追った。
少しして、花と澪と陽が来た。
花の肩が、昨日より少しだけ下りていた。澪はいつもの歩き方だった。
陽は屋台の並ぶ方を見ていた。
「陽、もう見とる」
結の口の端が、少し上がった。
「見とるだけ」
「買わんの?」
「あとで」
陽はそのまま、空を仰いだ。
「最初の一発、見たいけん」
花が少し目を丸くした。
「花火も好きなん?」
「音が好き」
それだけ言って、陽は黙った。
一年生たちも来た。
渚は手ぶらだった。
芽衣が水のボトルを持っている。
遥香は小さな手提げバッグを両手で持ち、人の流れを見ていた。
「渚、何も持ってないじゃん」
芽衣の目が、渚の手元で止まった。
「これから買うんよ」
「安心した」
「何に安心したん」
「いつも通りだったけえ」
渚は少しだけ口を尖らせた。
遥香が、人の流れをひとつひとつ目で辿っていた。
「昨日とは、違いますね」
「どう違う?」
「昨日は、町が動いていました。今日は、みんな空を待っている感じがします」
結の肩が、少し揺れた。
「遥香、言い方かっこいい」
遥香は手提げバッグの紐を握り直した。
「そういうつもりでは」
「褒めとるんよ」
「行くぞ」
八人で歩き出した。
オーシャンプラザを背にして、セトグラン沿いの道を進んだ。
駐車場には、いつもより多くの車が停まっていた。
店の前で、誰かが飲み物を買っている。
子供が風船を持って走り、すぐに親に呼び止められた。
空は少しずつ暗くなっていく。
建物の窓に、夕方の青が残っていた。
人は道路沿いに広がり、橋の方へ、河口の方へ、少しずつ散っていく。
凪はその中を歩いた。
明日から因島へ行く。
地区大会が始まる。
負けたら終わる。
でも、町は普通に夏だった。
屋台に並ぶ人がいて、子供が笑っていて、誰かがビニール袋を揺らして歩いている。
渚が隣で、屋台の列を見ていた。
「明日って、ほんまに地区大会なんよね」
芽衣がペットボトルを少し持ち直した。
「分かっとるんじゃけど」
渚は少し笑った。
「町が普通すぎて」
遥香の足が、少しだけゆっくりになった。
「止まらないんですね」
「止まらんよ」
花は前を向いたままだった。
「うちらが勝っても負けても、花火は上がるし、屋台は片付くし、明日は来る」
澪が、足を止めずに空へ目を上げた。
「じゃけん、勝つんじゃろ」
それ以上、誰も続けなかった。
焼きそばの匂い。
たこ焼きの匂い。
甘いシロップの匂い。
昨日と似ている。
でも、音が違った。
太鼓ではなく、人のざわめきが低く続いている。
みんな、同じ方の空を待っていた。
河口の方が開けて見える場所で、澪が足を止めた。
「ここで見るか」
人は多かった。
それでも、空は広い。
陽が屋台のはしまきを見ていた。
渚が屋台の列へ向かった。
陽が無言でその後ろについた。
二人は結局、はしまきと唐揚げを買って戻ってきた。
渚が唐揚げを、陽がはしまきを持っていた。
「結局買っとる」
結が陽と渚を交互に見た。
「始まる前に」
陽の視線は、はしまきに落ちていた。
「うちも」
渚が唐揚げの箱を持ち上げた。
花が笑った。
「似とるね、そこ」
夜が濃くなっていく。
人の声が少しずつ小さくなった。
遠くのスピーカーから、開幕を知らせる声が聞こえる。
子供を抱き上げる人がいた。
誰かがスマホを空へ向けた。
空が、一瞬だけ静かになった。
光が上がった。
大きな一発だった。
白い光が開き、少し遅れて音が来る。
胸の奥が揺れた。
遥香の肩が小さく跳ねた。
「大丈夫?」
凪が遥香の方へ少し体を向けた。
「大丈夫です。音が、思ったより体に来ました」
「分かる」
花は空を見上げていた。
「腹に来るよね」
「お腹空いたのかと思った」
渚が唐揚げの箱に目をやった。
芽衣のペットボトルを持つ手が、少し揺れた。
「今の流れで?」
「いや、ちょっとだけ」
渚は空を見上げたまま笑った。
次の光が、低いところで横へ走った。
河口の方が青く光る。建物の壁が、一瞬だけ明るくなった。
「音が、あとから来ますね」
遥香の声が、空に向いていた。
澪が少しだけ目を向けた。
「見えてからじゃ遅いやつじゃな」
遥香の目が、次の光を待った。
「でも、見えないと怖いです」
「怖くても見るんじゃろ」
「はい」
また一発、上がった。
今度は静かだった。
開いて、消えて、少し待つ。
凪はその間が好きだった。
花火が開く。
消える。
暗くなる。
次を待つ。
試合の合間に似ていた。
次に動く前の、一瞬の静けさ。
花が隣で空を見上げていた。
「ばあちゃん、見とるかな」
小さな声だった。
凪は何も言わなかった。
花も、それ以上言わなかった。
金色の光が、ゆっくり落ちてきた。
「見とるか」
花の口元が、少しだけ笑った。
風が来た。
火薬の匂い。
屋台の油の匂い。
夏の夜の匂い。
渚が唐揚げの紙箱を芽衣に差し出した。
「食べる?」
「今?」
「今」
芽衣は一つ取った。
「明日、胃もたれしたら渚のせい」
「一個で?」
「可能性はある」
遥香も一つ取った。
少し迷ってから、口に入れる。
「熱いです」
「花火見ながら食べる唐揚げ、うまいじゃろ」
「はい」
遥香は小さく頷いた。
花火が続いた。
赤。
緑。
白。
人の顔が、一瞬ずつ明るくなる。
結の目も、花の横顔も、澪の頬も、光るたびに違って見えた。
中盤から、音が増えた。
連続して上がる。
右から左へ、左から右へ。
目で追っているうちに、別の光が開く。
「目が足りん」
渚が空を仰いだ。
「分かります」
「見すぎると遅れる」
芽衣の目は空に向いたままだった。
渚の口が、すぐ開いた。
「花火も潮球になるじゃん」
「明日本番じゃけ」
芽衣は唐揚げの紙箱を渚へ返した。
「何見ても、そっちに行く」
澪は腕を組んで見ていた。
でも、口元は少しだけ緩んでいる。
「澪さん」
凪が呼ぶと、澪は目だけ向けた。
「明日からですね」
「そうじゃな」
澪は空へ目を戻した。
「でも、今は見とけ」
凪の目が、澪の見ている空へ動いた。
光が上がる。
開く。
消える。
明日が近づいている。
でも、今はまだ夜だった。
少しして、花火の間が長くなった。
人の声が戻ってくる。
誰かが「次、最後かな」と言った。
子供が眠そうに親の肩へ顔を預けていた。
芽衣が水のボトルを握った。
「終わったら、明日ですね」
「そうじゃね」
「花火、終わってほしいような、終わってほしくないような」
芽衣は水のボトルのラベルを指でなぞった。
「終わったら、次が来るけんね」
でも、芽衣はすぐには返さなかった。
最後は、金色だった。
下から上へ、太い光が吹き上がる。
その上で、大きな花火が続けて開いた。
音が重なる。
胸の奥まで響く。
誰も喋らなかった。
金色のしだれが、夜空からゆっくり降りてくる。
細い光の線が、長く残る。
消えそうで、消えない。
凪は息を忘れていた。
指先は、まだ少し冷たかった。
でも、空から目を離さなかった。
最後の音が鳴った。
空が真昼みたいに明るくなった。
そして、暗くなった。
しばらく、誰も動かなかった。
遅れて、拍手が起きた。
歓声が広がる。
人の流れが、少しずつ帰り道へ向かい始めた。
渚が深く息を吐いた。
「終わった」
遥香の手が、手提げバッグの紐を離した。
「終わりました」
拍手が、少しずつ遠くなっていた。
凪は空を見た。
花火が終わった。
祭りも、終わっていく。
明日からは、負けたら戻れない試合が始まる。
花が伸びをした。
「帰ろ」
帰り道、人の流れに混じって、みんなで歩いた。
駅へ向かう人。
屋台の片付けを横目に歩く人。
夜の道には、花火の余韻が残っていた。
耳の奥に、まだ低い音が残っている。
少しずつ、人数が減っていった。
結と遥香と渚が先に曲がる。
澪と陽が、駅の方へ向かった。
凪も歩き出した。
花と芽衣だけが、少し後ろに残った。
「花先輩、八幡宮寄っていいですか」
花が芽衣を見た。
「今から?」
「花火、終わったので」
花は夜の道へ目を向けた。
八幡宮の石段は、暗がりの中に沈んでいた。
「終わったら、次が来るけんね」
「はい」
芽衣は少しだけ俯いた。
「なんか、行っとかないと落ち着かなくて」
「行くか」
二人は石段を上った。
夜の八幡宮は静かだった。
芽衣が手を合わせた。
長かった。
花も隣に立って、手を合わせた。
何を祈ったか、どちらも言わなかった。
石段を下りてくる頃には、夜風が少し冷えていた。
「明日、絶対勝ちます」
芽衣の声が、石段の途中で止まった。
花が振り返った。
「明日だけ?」
芽衣は一段だけ足を止めた。
「地区大会、勝ちます」
花が少し笑った。
「そうじゃ」




