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潮球  作者: カミツキ
2年目の海

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36/101

第36話 やっさ、また

練習終わり。


 港の空気が、去年と同じ匂いになっていた。

 潮の匂いに、太鼓の音が混じっている。


 駅前の方から、やっさのリズムが届いていた。

 笛。太鼓。人の声。

 音だけで、町の温度が少し上がっている。


 花が法被を肩にかけた。


「今年は最初から入るけんね」


 凪は渡された法被を見た。

 去年は、気づいたら列の端にいた。

 今年は、最初から着ることになっていた。


 結が袖を通しながら、少し笑った。


「去年より準備されとる」


「逃がさんけん」


 花が結の帯を直した。


 陽は黙って法被を着ていた。

 動きに迷いがない。


「陽、慣れとるね」


 陽の肩が、少しだけ下りた。


 澪も法被を着ていた。

 いつもの練習着とは違う。けれど、背筋はいつもと同じだった。


「行くぞ」



三原駅裏。


 踊りの待機列は、駅前の屋台通りから少し外れた場所に作られていた。

 三原駅の周りは、人が多かった。


 ステージの方から司会の声が流れ、太鼓の音がその奥で鳴っている。

 浴衣の人。法被の人。屋台の前に並ぶ人。

 子供たちの列が先に通る準備をしていた。


 凪は花の町内会の列の端に並んだ。

 花は前の方で、町内の人に何度も声をかけられている。


「花ちゃん、今年も頼むけんね」


「任せて」


 花の声が明るかった。

 その横顔は、試合前とは少し違っていた。


 列が動くまでの間、凪は沿道を見ていた。



三原駅前。


 屋台の前に、一年生たちがいた。


 渚がはしまきを持っている。

 芽衣は水のペットボトルを持って、渚の横に立っていた。

 遥香は屋台の品書きをひとつひとつ見ている。


 その隣に、あかりと美咲がいた。


 渚が何かを指差した。

 あかりが少し首を傾ける。

 美咲は屋台の焼き台をじっと見ていた。


 遥香が小さく頭を下げた。


「加茂さん、これ何ですか」


 あかりが袋を受け取りながら、遥香の方を見た。


「あかりでいい」


 遥香の手が少し止まった。


「あかりさん」


「うん」


 渚が横でにやっとした。


「じゃあ美咲も美咲でいいよね」


 美咲は焼き台から目を離さなかった。


「いい」


「よし。美咲、これ食べる?」


「半分なら」


 芽衣が水を飲みながら、口元だけで笑っていた。

 町の音が、その間を普通に流れていた。



待機列の前で、太鼓が強くなった。


 踊りの列が動き始める。


「凪、手ぇ上げるんよ」


 花の声が前から飛んだ。


 凪は腕を上げた。

 去年より、体が覚えている。


「やっさ、やっさ」


 声が揃う。

 足が進む。

 腕が動く。


 去年みたいに、足は迷わなかった。

 太鼓が鳴る前から、体が少しだけ覚えていた。


 リズムに入ると、体が勝手に流れを拾っていく。

 潮とは違う。

 でも、似ていた。


 横を見ると、陽の動きがきれいだった。


 手の高さ。

 足の運び。

 間の取り方。


 結が目を丸くした。


「陽、上手いじゃん」


「祭りは好きじゃけ」


 陽の声は、太鼓の音の中でもいつも通り短かった。


 花が前から振り返った。


「ほんま上手いじゃん!」


 陽は少しだけ視線を逸らした。

 それでも、足はずれなかった。



駅前から商店街へ向かう通りには、人が並んでいた。


 沿道には人が並んでいた。

 手を叩く子供。

 スマホを向ける人。

 屋台の煙。

 ソースの匂い。


 その中に、一年生たちがいた。


 渚がはしまきを食べながら、列を見ている。

 遥香は目で踊りを追っている。

 あかりは腕の動きを真剣に見ていた。

 美咲は足の運びを見ている。

 芽衣だけが、少し笑っていた。


 花の目が、その五人を見つけた。


「そこ!」


 声が飛んだ。


 渚の肩が跳ねた。


「見とるだけなら入れるけん!」


 遥香が固まった。

 あかりが美咲を見た。

 美咲は足元を見た。


 芽衣が小さく笑った。


「ほらね」


「本当に巻き込まれるんですか」


 遥香の声が、列の音に少し消えた。


 花が手招きした。


「入って! 後ろ空いとる!」


 町内会の人が、脇に積んでいた予備の法被を差し出した。

 花がそれをまとめて受け取り、五人へ押しつけた。


 渚が最初に入った。

 何も考えていないみたいに、すぐ隣の人の動きを真似する。


 芽衣は自然に列へ入った。

 踊り方を知っていた。手の高さも、足の出し方も迷わない。


 遥香は一歩遅れた。

 それでも、芽衣の後ろにつく。


 あかりは真面目に腕を上げた。

 力が入りすぎている。


 美咲は最初、踊らなかった。

 前の人の手と足を見て、二拍遅れて動き始めた。

 次の小節には、一拍遅れになっていた。


 渚はもう笑っていた。


「いけるじゃん!」


「いけてるんですか」


 遥香の手が少し低い。


 芽衣が横から、手首の向きを直した。


「こっち」


「はい」


「あ、今のいい」


 あかりは真剣な顔のまま足を出した。

 美咲の足が、少しだけ揃った。


「次、右」


 誰に向けた声でもなかった。

 でも遥香が反応して、右へ足を出した。


 凪は列の中で、それを見ていた。


 去年、花に引っ張られて入った自分がいた。

 今年は、その列の中に一年生たちがいる。

 西条の二人もいる。


 太鼓が鳴る。

 町が進む。

 列が少しずつ、商店街へ入っていく。


 そのとき、花の動きが一瞬だけ変わった。


 凪も、そこを見た。


 沿道の一角に、折りたたみ椅子があった。


 去年と同じ場所だった。


 花のおばあちゃんが座っている。

 でも、椅子が、去年より低い位置に見えた。

 背中が、少し丸くなっていた。


 花が列を外れた。

 走り寄った。


「ばあちゃん!また来てくれたん!」


 おばあちゃんが花を見た。

 目を細めた。


「花が踊るんじゃろ。見んといけんじゃろ」


 花が一瞬だけ、泣きそうな顔をした。

 すぐ戻した。


「見といてや。うちの踊り」


「見とるよ。ずっと見とる」


 花が列に戻った。


 背筋が、さっきより伸びていた。


 太鼓のリズムが続く。


「やっさ、やっさ」


 花の声が、少しだけ強くなった。

 周りの声も、それに重なる。


 凪は腕を上げた。


 花が前で踊っている。

 陽が横で、何も言わずに踊っている。

 結が楽しそうに笑っている。

 澪が少し後ろで、全体を見ながら足を運んでいる。


 一年生たちは、まだばらばらだった。


 渚は勢いで踊る。

 芽衣は知っている動きで支える。

 遥香は一拍遅れて、それでもついてくる。


 あかりは真面目すぎて肩が上がる。

 美咲はずれを修正しながら、少しずつ形を揃えていく。


 ばらばらなのに、列は進んだ。


 太鼓は止まらなかった。


 商店街を抜ける頃には、遥香の手も少し上がっていた。

 あかりの肩から力が抜けていた。

 美咲は、もう前の人を見なくても足が出ていた。


 渚が息を切らしながら笑った。


「これ、意外と疲れる」


「泳いだ後じゃけん」


 芽衣の声が平らだった。


「踊り、難しいです」


 遥香は額の汗を手で押さえた。


 あかりが頷いた。


「でも、嫌いじゃない」


 美咲は法被の袖を少し直した。


「足が合うと気持ちいい」


 結がそれを聞いて、にやっとした。


「来年も来る?」


 美咲の手が止まった。


「来年?」


「うん」


 あかりが少しだけ駅前の方を見た。

 太鼓の音が、まだ続いている。


「試合で来る」


 芽衣が水を飲んだ。


「祭りは?」


 あかりは少し考えた。


「予定が合えば」


 渚が笑った。


「それ来るやつじゃん」


 美咲は何も足さなかった。

 でも、法被の袖をもう一度きれいに直した。



祭りが終わる頃。


 駅前の灯りが水面の方まで届いている。


 港へ向かう道に、人の流れが続いていた。

 屋台の片付けの音。

 まだ残っている太鼓の響き。

 潮の匂い。


 法被を返したあと、凪たちは港沿いを歩いた。


 去年も、ここを歩いた。

 でも人数が違った。

 声の数も、足音の数も違う。


 花は少しだけ静かだった。

 おばあちゃんのことは、誰も触れなかった。


 澪が港の方を見たまま歩いている。

 その横を、陽が同じ速度で歩いていた。


「陽、ほんま踊り上手かったね」


 結がまだその話をしていた。


「好きじゃけ」


「祭りが?」


「うん」


 陽はそれ以上、何も足さなかった。


 渚が屋台の袋を覗き込んだ。


「まだ食べられる」


「まだ?」


 遥香が目を丸くした。


「踊ったけん」


「その理屈、今日二回目です」


 あかりが少し笑った。

 美咲は袋の中のはしまきを見ていた。


「一口なら」


 渚がすぐ袋を開けた。


 港に夜風が来た。

 水面に祭りの灯りが揺れている。


 凪はその光を見た。


 去年と同じ祭りだった。

 でも、同じではなかった。


 祭りの音の中にいても、水面の揺れだけは目に入った。


 花が不意に立ち止まった。


「来々軒、寄っていこ」


 結の歩みが、一瞬だけ遅れた。


「今日も?」


「今日じゃけん」


 澪が少しだけ目を細めた。

 凪も頷いた。


 渚があかりと美咲を見た。


「西条組も行く?」


 あかりはスマホで時間を見た。

 美咲も同じ画面を覗き込む。


「今日は帰る」


 あかりがスマホをしまった。


「また来る」


 美咲が短く頷いた。


「祭りで?」


 芽衣の声に、あかりの口元が少しだけ動いた。


「試合で」


 少し置いて、もう一度。


「祭りでも」


 渚が手を上げた。


「じゃあ来年」


 あかりと美咲が駅の方へ歩いていく。

 遥香が小さく手を振った。

 美咲も少しだけ手を上げた。


 太鼓の音は、もう遠かった。


 来々軒の暖簾が見えてきた。


 店の中から、出汁の匂いが漏れている。


 花が引き戸に手をかけた。


「ばあちゃんにも、明日話す」


 誰も何も言わなかった。

 ただ、花の後ろに続いた。


 引き戸が開いた。

 いつもの店の音がした。


 花が暖簾をくぐりながら言った。


「明日は花火大会じゃけんね」

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