表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮球  作者: カミツキ
2年目の海

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/90

第35話 水面

朝練は、五日目になっていた。


 駅構内のコンビニで買うものは、だいたい同じだった。

 五日目の朝も、港はまだ静かだった。


 ベンチの横に、白い練習用の潮核が四つ並んでいる。

 芽衣がボールバッグの口を閉めた。渚は最後のから揚げを口にし、水を飲んだ。


 遥香はノートを開かなかった。


 先に、水面を見た。


 港の端。

 戻る波。

 右。


 昨日より、少し早く見えた。


「もう一回やろ」


 渚が水面へ戻ろうとしたとき、護岸の上に影が増えた。


 西条付属のジャージだった。


 先頭にいた鏡山透が、片手を上げた。

 その後ろに、加茂あかりと西高屋美咲が並んでいる。


「朝からやっとるね」


 渚の目が丸くなった。


「鏡山さん?」


「地区大会出場、おめでとう」


 鏡山は護岸の上から、三人の方を見た。

 渚の弁当。芽衣のボールバッグ。遥香のノート。

 それから、水面に浮いた白い潮核。


「一年だけ?」


「そうです」


 遥香がノートを閉じた。


「先輩たちは?」


「まだ来てません」


 芽衣が水面から上がりながら、ゴーグルを外した。


 鏡山は加茂と西高屋を振り返った。


「ちょうどええね」


 加茂がすでにゴーグルを手に取っていた。

 西高屋は水面に残った潮核の動きを目で追っていた。


「何するんですか」


 渚の声が、少し明るくなる。


 鏡山はボールバッグを見た。


「三対三。潮核二つで、少しだけやらん?」


 加茂がすぐにゴーグルをつけた。

 西高屋は靴紐を結び直している。


 渚は芽衣を見た。

 芽衣は短く頷いた。


 遥香は水面を見た。

 さっきより、少し波が増えている。


「やります」


 鏡山が少し笑った。


「うちは水面。あかりと美咲が下」


「こっちは?」


 渚が水を蹴った。


 芽衣がボールバッグから白い潮核を二つ取り出した。


「渚さん、芽衣ちゃんが水中。私が水面です」


 遥香の声は、少し細かった。


 朝の港に、白い潮核が二つ浮かんだ。


 試合用より小さい。

 でも、流れに乗ると、勝手に距離を作る。


 鏡山が水面に残った。

 あかりと美咲が水中へ入る。


 渚と芽衣も入った。


 遥香は水面に残った。

 ノートは閉じたまま、足元に置いている。



試合開始の笛はなかった。


 鏡山の手が、すっと下がった。


 始まった。


 渚が先に動いた。


 早かった。

 白い潮核へ一直線に向かう。


 美咲がその横へ入った。

 泳ぎは派手ではない。けれど、渚の進みたい場所に先に体がある。


 渚が潮核を拾った。

 ゼッケンが赤く光る。


「美咲、出口だけ」


 鏡山の声が水面から落ちた。


 美咲の指が、渚のゼッケンに触れた。


 三秒タッチ。


 渚は前へ出ようとした。

 でも、美咲の体が流れを切っている。

 右へ行けば右にいる。左へずらせば、左の出口が狭い。


 一秒。


 芽衣が外から回った。

 あかりがその前に入る。


 二秒。


 渚が潮核を浅く流した。

 手から離れた白い球が、朝の流れに乗って横へ逃げる。


 三秒になる前だった。


 美咲の手が離れた。

 潮核は芽衣の前へは来なかった。少しだけ遠い。


 あかりが先に動いた。


 白い潮核を拾う。

 ゼッケンが青く光った。


 芽衣が構えた。


 渚は一度、水面へ向かっていた。

 息継ぎ。

 顔を出す、その一瞬。


「今」


 鏡山の声は小さかった。


 上から、影が落ちた。


 鏡山だった。


 水面にいた鏡山が、あかりの後ろへ降りてきた。

 水音は小さかった。

 でも、三原の二人の間が、一瞬だけ止まった。


 渚の目が動く。


 芽衣。

 息。

 数。


 鏡山はそのまま、水中を走るみたいに前へ出た。


 水面から、遥香も動いていた。


「芽衣さん、後ろ……」


 声が遅れた。

 一拍遅れて、さらにもう一拍遅れて、水中へ入る。


 遅い。


 その数秒の間に、あかりと美咲が芽衣を挟んだ。


 芽衣は下がらなかった。

 あかりの進路に体を入れる。

 美咲が逆の潮核へ向かう。


 芽衣の目が動く。

 あかり。

 美咲。

 潮核。

 鏡山。


 多い。


 美咲が水面へ上がった。

 息が切れていた。

 けれど、十分だった。


 芽衣も息が苦しくなっている。

 それでも、下がれない。


 あかりが潮核を持ったまま、ゴールゾーンへ向かう。

 芽衣が前に入った。


 触れた。


 三秒タッチ。


 一秒。


 芽衣の手は、あかりのゼッケンにある。

 でも視線は、別の白い潮核へ動いた。


 潮流に乗って、もう一つの潮核が鏡山の前に来ていた。


 二秒。


 芽衣の手は離れない。

 でも足が、少し浮いた。


 あかりの肩が入ってきた。


 芽衣は踏ん張ろうとした。

 視線が戻る。遅い。


 あかりが体を押し込む。


 三秒の前。


 青い光が、ゴールゾーンに沈んだ。


 西条付属、一点。


 同じ瞬間。


 鏡山の前へ来ていた潮核が、わずかにずれた。


 遥香が入っていた。

 触れたわけではない。

 ただ、通り道に体があった。


 白い潮核の軌道が狭くなる。


 渚が掴んだ。


 美咲は水面に上がったばかりだった。

 あかりはゴールゾーンの方にいる。

 鏡山は水中に入った直後で、まだ戻りきっていない。


 誰もいない。


 完全なフリー。


 渚が泳いだ。


 速い。

 でも、さっき息継ぎをしたばかりではない。

 肺の奥が足りていない。


 それでも進む。


 遥香が水面に上がった。

 声を出そうとして、止まった。


 水中に、声は届かない。


 渚の背中が遠くなる。


 美咲が水面からもう一度潜った。

 速くない。

 でも、角度がよかった。


 ゴールゾーンの手前。


 美咲の指が、渚のゼッケンに触れた。


 三秒タッチ。


 一秒。


 渚の腕が伸びる。

 潮核はまだ手の中にある。


 肺が焼ける。

 水が重い。

 足が沈む。


 二秒。


 美咲の指が離れない。


 ゴールゾーンは、もう目の前だった。

 ほんの数センチ。


 渚の顔が歪んだ。


 三秒の前。


 渚の手が、潮核を沈めた。


 赤い光。


 水面に、短いブザーが響いた。


 三原中央、一点。


 そこで終わった。



模擬戦終了後。


 渚が水面に上がって、大きく息を吸った。

 芽衣も水面に浮かんだまま、肩で息をしている。

 遥香はゴーグルを外して、鏡山を見た。


 あかりが水面で髪を払った。

 美咲はしばらく水に浮いたまま、何も動かなかった。


 鏡山だけが、息を整えるのが早かった。


「同点じゃね」


 渚が水面に仰向けになった。


「疲れた」


「朝から食べすぎ」


 芽衣が水を払った。


「じゃけ動けたんじゃん」


 遥香は水面に立ったまま、鏡山の方へ向いた。


「さっき、どうしてあのタイミングで入ったんですか」


 鏡山はゴーグルを額に上げた。


「息」


「息、ですか」


「水面から見えるんは、潮核だけじゃないよ」


 鏡山があかりの方へ少し体を向けた。あかりはまだ呼吸を整えている。

 美咲は水面で深く息を吸っていた。


「誰が、いつ息しに上がるか。そこも見える」


 遥香の指が、ノートのない空中で止まった。


「渚さんが上がるのを、待っていたんですか」


「たぶん、上がると思っただけ」


 鏡山は水面を指で軽く叩いた。


「水中は、どれだけ強くても息がいる。そこは全員同じじゃけん」


 潮核。

 人。

 流れ。

 息。


 芽衣が水から上がった。

 手のひらを見ている。


「二つでも、見失う」


 あかりが岸に上がりながら、芽衣を見た。


「うちも押すしかなかった」


 芽衣は顔を上げた。


「押された」


「押した」


 少しだけ、二人の目が合った。


 渚がベンチの方へ歩いた。

 濡れた髪から、水が落ちている。


「疲れた。ご飯行こ」


 渚は西条付属の二人を見た。


「加茂さんたちも行かん?」


 あかりの視線が、一瞬だけ美咲の肩に止まった。

 美咲も同じように鏡山を見た。


 鏡山は荷物を肩にかけた。


「うちはこの後、予定あるけん。一年だけで行ってきんさい」


「え、鏡山先輩は」


「大丈夫」


 鏡山はあかりの肩を軽く叩いた。


「食べてきんさい」


 渚の顔が明るくなった。


「毛利行こ」


 遥香が手提げバッグを持ち上げた。

 駅弁はまだ残っていた。


「私、駅弁が」


 渚の視線が、駅弁の袋で止まる。


「持って行けばいいじゃん」


「お好み焼き屋に駅弁を持って入るのは、違う気がします」


 芽衣が水を飲んだ。


「あとで食べたら」


 遥香は少しだけ駅弁の袋を見た。

 それから、手提げバッグの中へそっと入れた。


「あとで食べます」


 朝の港に、フェリーのエンジン音が戻ってきた。


 五人の一年生が、駅の方へ歩き出した。



 毛利の鉄板は、昼前から熱くなっていた。


 暖簾をくぐると、ソースの匂いが一気に来た。

 鉄板の上で、キャベツが小さく音を立てている。


 渚は迷わず奥へ入った。

 芽衣は水のグラスを五つ取った。

 遥香は少し遅れて席につく。


 あかりと美咲は、店の中を少し見ていた。


 美咲の視線が、壁のメニューから鉄板へ移る。

 あかりは席に着く前に、荷物を足元へ寄せた。


「うち、元就公」


 渚はメニューを見ていなかった。


「うちは、元春公」


 芽衣もすぐ続いた。


 遥香はメニューを見て少し迷った。

 

「私は、隆景公でお願いします」


 あかりは鉄板を見たまま、背筋を伸ばしていた。


「同じので」


 美咲はメニューを見ていなかった。


「元就公でトッピングに辛子明太子とチーズ」


 遥香は目を丸くして美咲を見た。


 生地の器が、五つ並んでいる。

 遥香が手を伸ばし、ヘラを取ろうとした。


「私が焼きます」

 

 遥香が一つ目に手を伸ばしたところで、美咲の手が先に動いた。


「うちに任せて」


 遥香の手が止まった。


「できますか」


 美咲は頷いた。


 生地が鉄板に落ちる。

 ヘラの先で、丸く広がった。


 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。


 美咲の手つきは、試合中より落ち着いていた。

 縁を整え、火の通りを見て、少し待つ。

 裏返すタイミングだけが、やけに正確だった。


 渚が水を飲む手を止めた。


「うま」


 芽衣も鉄板を見ていた。


「慣れてる」


「お好み焼きは、ちゃんと焼きたい」


 美咲は四枚目を返した。

 加茂が少し笑った。


「美咲、これだけはうるさいんよ」


「これだけじゃない」


 美咲は五枚目の端を整えた。


 焼き上がったお好み焼きに、ソースを塗る。

 青のりをかける。

 かつお節が熱で揺れた。


 遥香がヘラを持った。


「切りますね」


 また、美咲の手が出た。


「うちに任せて」


 遥香はヘラを渡した。


 美咲は一枚目の前に立った。

 ヘラを縦に入れる。


 サクッ。

 サクッ。


 お好み焼きが、きれいに三つに分かれた。


「毛利は、これ」


 渚が吹き出した。


「詳しいじゃん」


 芽衣の口元も少し動いた。

 あかりは慣れた顔で水を飲んでいた。


「作ってくれてありがとう」


 遥香が小さく頭を下げた。


 美咲は少しだけ目を逸らした。


「食べよ」


 渚は箸を取った。


 芽衣はヘラで端を切った。

 皿を添えながら、そのままヘラで口へ運んだ。


 遥香だけが、マヨネーズを少しだけかけた。

 白い線が、ソースの上に細く残った。


 美咲のヘラが止まった。


 遥香の皿を見る。

 白い線を見る。

 それから、鉄板を見る。


 あかりが横で小さく咳をした。


 美咲は一度だけ瞬きをして、自分のお好み焼きを切り始めた。


 サクッ。

 サクッ。


 切り口は、さっきと同じくらい真っ直ぐだった。


 遥香がマヨネーズを片手に声をかけた。


 「西高屋さんも、マヨネーズ使いますか」


「邪道」


 あかりが横で水を飲んだ。


「美咲、自分のにはかけんだけじゃけ」


 美咲は一度だけ瞬きをした。


「人それぞれ」


 遥香は小さく頷いて、マヨネーズを自分の皿の横に置いた。


 昼の店内に、鉄板の音が続いていた。

 渚が半分ほど食べたところで、顔を上げた。


「明日、やっさ祭りあるんよ」


 遥香の箸が止まった。


「やっさ祭り」


「駅前で踊るやつ。見に行かん?」


 芽衣がヘラを置いた。


「行く」


「早い」


「明日、練習休みだし」


 遥香は少し考えていた。


「私、まだ見たことがありません」


「じゃあ行こう」


 渚はあかりと美咲を見た。


「二人も来る?」


 あかりの体が、少しだけ美咲の方へ傾いた。

 美咲はお好み焼きを一口飲み込んでから、頷いた。


「行ってみたい」


「うちも」


 あかりは水をもう一口飲んだ。


「踊るん?」


「たぶん巻き込まれる」


 芽衣の声が平らだった。


 遥香の手が、少し止まる。


「巻き込まれるんですか」


「三原なんで」


 渚が笑った。


「それって理由になっていますか」


「なっとる」



三原港近くの小料理屋。


 店の外を、自転車が一台通っていった。

 夏の昼の光が、暖簾の端を少しだけ白くした。


 カウンターには、二人だけが並んでいた。


 澪と鏡山だった。


 店の奥で、出汁の匂いがしている。

 昼を少し過ぎた時間で、客は少ない。

 カウンターの上に、小鉢が二つ置かれていた。


 鏡山が箸で小鉢の端を寄せた。


「一年、思ったより動けとったよ」


 澪は湯飲みを持ったまま、前を向いていた。


「荒いじゃろ」


「荒い。でも、この前より強い」


 澪の指が、湯飲みの縁で止まった。


「結から聞いたんよ。一年が朝からやっとるって」


 鏡山は小鉢を一口食べた。


「だから、うちら?」


「うちらが行くと、固くなるじゃろ」


「西条なら固くならんと?」


「たぶん」


 鏡山は少し笑った。


「なにそれ」


 澪は水を飲んだ。


「渚は初めて見た」


「どうじゃった」


「速い。危ないくらい」


 鏡山は少しだけ笑った。


「でも、あれは伸びる」


 澪は湯飲みを置いた。


「遥香と芽衣は」


「芽衣ちゃんは、まだこれからじゃね」


小鉢の端を、箸で少し寄せた。


「遥香ちゃんは、化けるかも」


 店の奥で、鍋の蓋が小さく鳴った。


「水面から見るものが増えれば、たぶん一気に変わる。潮核だけじゃなくて、人の息まで見始めたら」


 澪の肩が、ほんの少し落ちた。


 鏡山はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


「心配しすぎじゃない?」


「三年じゃけん」


「それ、理由になるん?」


「なる」


 しばらく、店の音だけがあった。


「卒業したらどうするん」


 鏡山は小鉢をもう一口食べた。


「首都圏、行くつもりじゃった」


 澪の湯飲みを持つ手が、一度止まった。


「じゃった?」


「潮球、まだやりたいんよね」


 鏡山の視線が、カウンターの木目に落ちた。


「西条で始めたの、遅すぎた。やっと海に行く理由が増えたのに、ここで終わるのは、ちょっと違う」


 澪はしばらく前を向いていた。


「うちは、卒業したら三原で働くつもりじゃ」


「決めとるん?」


「たぶん」


 澪は湯飲みを両手で包んだ。


「社会人の潮球グループ、作ろうと思っとる」


 鏡山の箸が止まった。


「三原で?」


「うん」


「へえ」


 鏡山は少し笑った。


「良かったら、一緒にやらんか」


 店の奥から、焼き魚の匂いが流れてきた。


 鏡山はすぐには返事をしなかった。

 箸を置いて、水を一口飲む。


「目標は?」


「社会人部門で、地区大会に行く」


 鏡山がグラスを置いた。


「そんな目標なら、やらない」


 澪が少しだけ眉を動かした。


「やるなら、瀬戸内制覇くらい目指して」


 外を通る車の音が、少しだけ入ってきた。


 澪が笑った。


 澪の肩が、少し揺れた。


「ああ」


 湯飲みを置く音がした。


「瀬戸内制覇。目指そう」


 鏡山も笑った。


「なら、考える」


「考えるんか」


「まだ、やり残したことあるけん」


 鏡山は箸を持ち直した。


「まずは地区大会、頑張ってね」


 澪は頷いた。


 店の外では、昼の三原が少しずつ暑くなっていた。

 駅前の方から、太鼓の音がかすかに届いてくる。


 やっさ祭りの練習だった。


 澪はその音を聞いて、少しだけ目を細めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ