第34話 朝の港
三原駅前。
朝の駅前は、まだ少し静かだった。
遥香が改札前に着くと、足元にボールバッグが見えた。
芽衣はもう来ていた。
遥香は小さな手提げバッグを持ち直した。
少しして、渚が走ってきた。息は切れていなかった。
三人で駅構内のコンビニに入った。
自動ドアが開くと、冷房の空気が流れてきた。
店内BGMが小さく流れている。
レジ横から、コーヒーの匂いがした。
渚は弁当の棚へ向かい、一つ取った。
そのままレジへ向かい、レジ横のから揚げを二つ追加した。
芽衣は水を取り、梅と高菜のおにぎりを一つずつ選んだ。
遥香は駅弁の棚の前で少し止まった。
緑茶を一本取り、駅弁を抱えるように持った。
会計を終えて、三人は店を出た。
駅前の道路は、少しずつ人が増えていた。
通勤の自転車が一台、横を抜けていく。
バス停には、まだ眠そうな顔の人が何人か立っていた。
渚はから揚げの袋を開けた。
歩きながら、一つ目を食べ始める。
芽衣はコンビニ袋を片手に持ったまま、信号を見ていた。
遥香は駅弁の袋を両手で持っていた。
崩れないように、少しだけ体から離している。
信号が変わった。
三人は港の方へ歩き出した。
三原駅の音が後ろへ下がっていく。
代わりに、フェリー乗り場の方からエンジンの低い音が届いてきた。
渚は二つ目のから揚げを取り出した。
芽衣の視線が、渚の手元で止まった。
「もう二つ目」
「朝練前じゃけん」
渚はそのまま食べた。
遥香は少しだけ袋を持ち直した。
「練習前ですよね」
「じゃけん食べるんよ」
芽衣はそれ以上何も足さなかった。
港に着いた。
港の匂いが近づいてきた。
雨上がりの道が、朝の光を薄く返していた。
フェリー乗り場の前を抜けると、練習区画の端に出た。
まだ人は少なかった。
岸壁の向こうで、フェリーが白い煙を少しだけ吐いている。
海面は静かで、昨日より色が薄かった。
芽衣は袋から水を出した。
遥香は駅弁の袋を、崩れないようにベンチの端へ置いた。
「まず走る」
芽衣が水のキャップを閉めた。
「海じゃないん?」
「走る」
「朝から厳しい」
「渚が速いけん」
渚の口の端が、少し上がった。
三人は荷物をベンチに置いて、港沿いを走り出した。
三人で港沿いを走った。
渚が先に出た。足音が軽い。
芽衣はその後ろについた。速くはない。でも、離れない。
遥香は少し遅れた。
「遥香、大丈夫?」
渚が肩越しに振り向いた。
「大丈夫です」
息は少し上がっていた。
でも、遥香の目は港の端を見ていた。
係留された船。
波が岸壁に当たって、戻ってくる場所。
フェリーが動いたあとの水の乱れ。
走り終わったとき、渚はまだ余裕があった。
芽衣は膝に手を置かなかった。
遥香だけが、小さく息を乱していた。
「次」
芽衣がボールバッグを開けた。
中には、白い練習用の潮核が四つ入っていた。
試合用より少し小さい。表面に、細い傷がいくつもついている。
「四つ持ってきたん?」
渚が一つ持ち上げた。
「本番もそうじゃん」
芽衣は一つだけ、水面へ置いた。
白い潮核が、朝の流れに乗って離れていく。
「まず一つ」
渚の顔が明るくなった。
「やっと海じゃ」
「遊ぶんじゃないけえね」
「分かっとるって」
渚は靴を脱いだ。早かった。
芽衣もゴーグルをつける。
遥香は水面に残った。
遥香は手提げバッグからノートを出し、駅弁の袋の上に置いた。
ページの端に、港の形が簡単に描いてあった。
「私は水面から見ます。渚さんと芽衣さんは、水中で動いてください」
「さん、いらんよ」
芽衣がゴーグルを直した。
遥香の手が、一瞬だけ止まった。
「……めい」
「うん」
渚がにやっとした。
「うちは?」
「渚さん」
「なんで」
「まだ慣れていません」
「うちも呼び捨てでいいのに」
遥香はノートを閉じた。
「そのうち」
渚は少しだけ口を尖らせて、それから水に入った。
芽衣も続いた。
白い潮核はゆっくり動いていた。
朝の流れに乗って、岸壁から少し離れる。
渚が先に潜り、白い潮核へ迷わず向かった。
少し遅れて芽衣が入り、渚の外側へ回って止める位置を探している。
白い球。
渚の位置。
芽衣の位置。
岸壁に当たって戻る波。
分かった。
「左です」
渚はもう左にいた。
白い潮核を拾って、水面に上がった。
「今の合ってた?」
「合ってた」
芽衣も水面に出た。
「でも遅い」
「はい。遅いです」
遥香がボールバッグから二つ目の潮核を取り出し、水面へ置いた。
白い球が二つ、別々の速さで離れていく。
一つは岸壁の方へ。もう一つは港の端へ。
「二つ」
芽衣が潜った。
渚も続いた。
遥香は二つを追った。
片方が速く、もう片方は遅れている。
「右です」
芽衣が右へ入り、渚が左へ回る。
芽衣は一つ目を止めた。
そのまま、もう一つの位置にも体を残していた。
水面に上がった芽衣の息は、まだ乱れていなかった。
「二つならいける」
渚が白い潮核を抱えて浮いた。
「じゃあ勝てるじゃん」
芽衣がボールバッグへ目を落とした。
「まだ二つ」
遥香が残りの二つを取り出した。
白い潮核が四つ、水面に並んだ。
少しだけ揺れて、それぞれ違う方向へ離れていく。
四つ。
朝の港が、広くなった。
渚が先に動いた。
一つ目へ向かう。
芽衣が二つ目へ入った。
けれど三つ目が、芽衣の背中側を抜けていく。
四つ目は、港の端で止まりかけていた。
遥香は全部を見ようとした。
白い球が四つ。
渚。
芽衣。
岸壁。
戻る波。
声が出なかった。
渚が一つ拾った。
芽衣がもう一つに触れた。
その間に、三つ目が離れた。
四つ目は、流れに押されて向きを変えた。
芽衣の足が止まった。
「多い」
渚が水面に浮いたまま、何も言わなかった。
遥香の指が、ノートの端を押さえていた。
「見えてはいます」
でも、次が出なかった。
四つ全部が、水面にあった。
芽衣が水を払った。
「二つなら追えるんよ」
渚が潮核を一つ投げずに、水面へ戻した。
「四つだと?」
「次を見失う」
遥香の目が、港の端へ向いた。
フェリーの小さな波が、岸壁に当たって戻ってくる。そこだけ、水面の色が少し違っていた。
「全部見ません」
遥香は四つの潮核を見た。
それから、港の端だけに目を戻した。
「一つ捨てます」
もう一度。
四つの白い潮核を流した。
渚が潜り、芽衣が外へ回る。
遥香は全部を見なかった。
港の端だけを見る。
一つ目は捨てた。
二つ目も捨てた。
三つ目が、戻る波に押された。
「まだです」
渚の体が、水中でわずかに揺れた。
波が岸壁に当たって、戻ってくる。
四つ目の向きが変わった。
「今、右」
渚が動き、芽衣も続いた。
二人の手が、同じ流れに入った。
白い潮核が跳ねるように浮いた。
渚の指先が触れた。芽衣の手も、そのすぐ横にあった。
拾えたわけではなかった。
でも、二人は同じ場所にいた。
遥香の肩から、少し力が抜けた。
「今の」
渚が水面に上がった。
「合ったよね」
芽衣も息を吐いた。
「少し」
「少しかあ」
「少しでいいです」
遥香はノートを開いた。
でも、何も書かなかった。
そのとき、護岸の上から声が落ちてきた。
「朝から何しとるん」
三人が同時に振り返った。
結が立っていた。
手には、駅前のコンビニ袋があった。
渚が水面から半身を起こした。
「なんでここに」
結は袋を少し持ち上げた。
「パン買いに行ったら、三人が港の方歩いとったけえ」
「内緒の朝練だったんですけど」
遥香がノートを閉じた。
結の表情が、少しだけ緩んだ。
「港で?」
渚が水面から顔だけ出していた。
「場所ミスった」
「うん」
結は遥香の隣でしゃがんだ。
コンビニ袋からパンを一つ出した。
「見とっていい?」
芽衣が水面で、少し体を沈めた。
遥香は少しだけ背筋を伸ばした。
もう一度、四つの潮核を流した。
今度は、最初から港の端だけを見た。
水面が戻る。
白い潮核が少し遅れる。
「右」
渚が先に体を傾け、芽衣が外を切った。
渚と芽衣の軌跡が、重なった。
白い潮核が、渚の前へ来た。
渚が拾った。
芽衣がすぐ横にいた。
もし相手がいれば、止められる位置だった。
結がパンをかじった。
「さっきより早い」
遥香はペンを持ったまま、動かなかった。
「全部見ようとしたら遅れるけんね」
結は海の方を見たままだった。
「うちは、たまに捨てる」
遥香の手が、ノートの端を一度だけ押さえた。
渚が白い潮核を抱えたまま、水面に浮いていた。
「もう一回やろ」
芽衣が水を払った。
「先に食べたら」
渚の弁当が、ベンチの上でそのまま残っていた。
「忘れとった」
朝のフェリーが、短く汽笛を鳴らした。
渚がベンチへ走り、弁当の蓋を開けた。
芽衣は水を飲んだ。
遥香の駅弁は、まだ袋の中で崩れていなかった。
遥香はノートの端に、小さく一行だけ書いた。
港の端。
戻る波。
右。




