第33話 瀬戸内を見に
雨が上がった翌日、三原港の空は白く霞んでいた。練習前の集合までまだ時間があり、渚と芽衣と遥香は港のベンチに並んで座っていた。
岸壁からフェリーが一隻ゆっくり離れていき、その向こうでは、昨日の雨を残したような鈍い色の海が島影まで続いていた。
「瀬戸内って、どこまで続いてるんでしょう」
渚がペットボトルの蓋を開ける手を止めた。
「急に?」
遥香は遠くの島影へ目を戻した。
「三原から見える海は、島で区切られてるじゃないですか。地区大会は、因島とか伯方島とか大三島とか、いろんな場所でやるんですよね。一度、瀬戸内をちゃんと見ておきたいです」
「ちゃんと?」
「一望したいです」
渚がペットボトルをベンチへ置いて立ち上がった。
「よし。来週、駅集合」
「どこへ行くんですか」
渚がベンチの前で振り返った。
「岡山」
遥香が渚を見上げる横で、芽衣はスマホを出して三原からの時刻を調べ始めた。
翌週の朝、三人は三原駅の改札前に集まった。
渚が遥香の鞄の持ち手へ手を掛け、重さを確かめるように持ち上げた。
「何入っとるん」
「水筒とタオルと酔い止めと、あと念のため着替えです」
「遠征じゃん」
「遠征ではないんですか」
「遠足」
改札で渚がICカードをタッチし、遥香がスマホをかざす横で、芽衣は取り出した切符を裏返した。
「岡山方面で合っとる?」
渚が横から覗き込んだ。
「合っとる」
電車が三原を離れるにつれ、窓の外では港が遠ざかり、工場の煙突の向こうから山が近づいてきた。福山を越えるころには海も遠くなり、車窓には山の色が増えていた。
芽衣が膝の上で手を組んでいた。渚は駅に止まるたび、外の看板を読んでいた。
「岡山って、思ったより遠いんじゃね」
渚はポケットからグミを出して一つ口へ放り込んだ。
「瀬戸内を一望するけえ仕方ない。近場で済ませたくないんよ」
「なんで?」
「んー、気分」
渚は窓の外を向いたままだった。ふざけた声だったのに、視線だけは遠い。
その答えに、芽衣は何も言わず口元を緩めた。
岡山で電車とバスを乗り継いだ。
バスが坂を上っていくにつれ、窓の外で海が見えたり隠れたりした。
窓ガラスへ手をついた遥香の先に、海の上を白い線のように渡る大きな橋が見えた。
「あれですか」
芽衣も窓へ身を寄せた。
「瀬戸大橋」
バスが坂を上りきって停留所へ着くと、開いたドアから風が一気に入ってきた。入口は、思っていたよりずっと高い坂の上にあった。
駐車場の向こうに海が開け、遥香は足を止めた。
「見えます」
隣で渚が胸を張った。
「じゃろ」
遥香は島と島を渡る白い橋まで目で追った。
「一望です」
振り返ると芽衣がチケット売り場の方を見た。
「でも、入るんじゃね」
「せっかく来たんじゃし」
チケットを買って園内へ入っても、遥香は海から目を離せなかった。
「ここからでも十分見えます」
「もっと見えるところがあるんよ」
渚が顎でレールを示した。
「もっと?」
渚が示した先を見上げると、高いレールの上を自転車のような乗り物が走っていた。遥香はそのまま足を止めた。
「えっと、あれですか」
渚も首を伸ばしてレールの先を追った。
「空中サイクル」
遥香の視線はレールの上で止まった。
「名前がもう高いですね」
乗り場まで来たときにはレールはそれほど高く見えなかったが、階段を上がるたび地面の景色が低くなり、遥香は手すりを握った。
「大丈夫?」
渚が肩越しに振り向いた。
「大丈夫です」
声が細く出た。
渚と芽衣が先に乗った。
遥香の前で、次の車両が止まった。
「え」
「後ろからの方が一望できるよ。遥香、ちょうどええじゃん」
渚の口が、にやっと動いた。
遥香は笑わなかった。
係員に案内されてペダルに足を置くと、安全バーが下りた。
動き出すとレールの下に木や斜面が見え、その向こうには海が広がっていた。瀬戸大橋も正面へ長く伸びていた。
遥香の手が、ハンドルから離れなかった。
「遥香ー! 見える?」
前の渚が振り返ろうとすると、その隣から芽衣の声が飛んだ。
「前見て」
「はい」
渚はしぶしぶ前を向き直した。
風が来た。金属レールが細く鳴った。
足元のレールは空に浮いているようで、右を見ても左を見ても海が開け、その中にいくつもの島と白い橋が伸びていた。島陰の外では海の色が濃くなり、船が残した白い跡も途中で細く曲がっていた。
一望したかった。
「綺麗じゃろ」
渚の声が前から飛んできた。
けれど、見えすぎる。
遥香は小さく息を吸った。
「これは」
声が消えた。
「これは、ちょっと無理です」
前の渚が肩越しに振り返りかけた。
前から芽衣の声が飛んだ。
「止まらんで」
「止まってません」
「遅いよ」
「これ以上は無理です」
渚が肩越しに後ろを見た。
「後ろ来とるよ」
遥香はペダルを踏み込んで進んだが、また足が止まりかけた。
前から渚が声を張った。
「遥香、海見て!」
「見えています」
「橋きれい!」
「見えています」
「じゃあ大丈夫じゃん」
「大丈夫ではありません」
前の芽衣は一定の速さでペダルを踏み続けていた。
「芽衣さんは怖くないんですか」
「怖い」
「そうなんですか」
「止まった方が怖い」
それでも、芽衣の足は止まらなかった。
風がもう一度吹いた。
遥香はハンドルを握り直した。
瀬戸内は、広かった。
でも、今はそれどころではなかった。
降りたあと、近くのベンチに座った遥香へ、渚が自動販売機で水を買ってきた。
「はい」
「ありがとうございます」
遥香は水を両手で受け取り、キャップへ指を掛けたが、なかなか力が入らなかった。その間に芽衣が隣へ座った。
「一望できたね」
「できました」
遥香は水を飲んだ。
「二回目は?」
「今日はいいです」
「今日は?」
「今日は、です」
渚がベンチの前に立ったまま、海の方を見た。
「でも、すごかったじゃろ」
遥香は顔を上げた。海の上には瀬戸大橋が白く伸び、その下を船が一隻通っている。ようやく息を吐いた。
「広いですね」
渚も海へ顔を向けた。
「ほんと、良い景色じゃね」
「怖かったですけど」
渚が後頭部に手をやった。
「それはごめん」
遥香は渚の方へ身体を向けた。
「でも、来てよかったです」
芽衣がベンチの背にもたれ、二人を見た。
「練習しとらんよね」
渚は足を組み直した。
「しとるよ」
「何の練習なん?」
「瀬戸内を見る練習」
遥香は渚を見た。
「それは練習なんですか」
「多分」
遥香が小さく笑った。
帰りのバスでは渚がシートへ頭を預け、芽衣がスマホで乗り換えを確認する横で、遥香は窓の外を見ていた。坂を下るにつれて海が遠ざかり、瀬戸大橋も少しずつ見えなくなっていったが、白い橋の線だけはまだ目の奥に残っていた。
乗り換えた電車の車窓には、夕方の光が差していた。
シートの背に体を預けると、一日分の疲れが足から上がってくる。
岡山を離れ、福山を過ぎ、電車は少しずつ三原へ戻っていった。
遥香は窓に映った自分の顔を見た。
「海が広いのは分かりました」
渚が首を傾けた。
「それ大事なん?」
「多分。三原と繋がっていると分かったので」
芽衣も窓の外へ目を向けた。
「地区大会、いろんな島でやるんよね」
「はい」
「じゃあ、見といてよかったかも」
渚が大きく伸びをしてから、遥香へ顔を向けた。
「次はどこにする?」
「しばらく低いところでお願いします」
「低い一望?」
「低い一望です」
電車が三原へ近づくと、窓の外に見慣れた島影が戻ってきた。見慣れたはずなのに、その向こうが朝より遠く見えた。




