第33話 瀬戸内を見に
雨が上がった翌日。
港の空は白く霞んでいた。
練習前の集合まで、まだ少し時間があった。
三原港のベンチに、渚と結衣と遥香が座っていた。
フェリーが一隻、ゆっくりと岸壁を離れていった。
海面には、昨日の雨の名残みたいな鈍い色が残っていた。
「瀬戸内って、どこまで続いてるんでしょう」
渚がペットボトルの蓋を開ける手を止めた。
「急に?」
「三原から見える海は、島で区切られてるじゃないですか」
遥香は遠くの島影を見たままだった。
「地区大会は、因島とか伯方島とか大三島とか、いろんな場所でやるんですよね。一度、瀬戸内をちゃんと見ておきたいです」
「ちゃんと?」
「一望したいです」
「一望」
「はい」
「よし」
渚がベンチを蹴るように立った。
「明日、駅集合」
「どこへ行くんですか」
「一望できるところ」
遥香は小さく瞬きをして、渚を見た。
結衣はもうスマホで時刻表を調べていた。
翌朝。
三原駅の改札前に、三人が集まった。
渚は小さなリュックを背負い、結衣はいつものように身軽だった。
遥香だけ、少し大きめの鞄を持っていた。
「何入ってるんですか」
渚が遥香の鞄を一度持ち上げようとして、やめた。
「水筒とタオルと酔い止めと、あと念のため着替えです」
「遠征じゃん」
「遠征ではないんですか」
「遠足」
改札で渚がICカードをタッチし、遥香がスマホをかざす横で、結衣だけが切符を取り出した。
「岡山方面で合っとる?」
結衣が切符を裏返した。
渚が横から覗き込んで、そのまま背筋を伸ばした。
「合っとる」
窓の外を、三原の町が流れていく。
港が遠ざかり、工場の煙突が見え、やがて線路の向こうに山が近づいた。
福山を越えると、車窓の色が変わった。
山が増え、海が遠くなった。
結衣が膝の上で手を組んでいた。渚は駅に止まるたび、外の看板を読んでいた。
「岡山って、思ったより遠いんじゃね」
「瀬戸内を一望するけえ仕方ない」
渚は窓の外を向いたままだった。
「近場で済ませたくないんよ」
「なんで?」
「気分」
結衣が前を向いたまま、口の端だけ動いた。
岡山で電車とバスを乗り継いだ。
バスが坂を上っていくにつれ、窓の外で海が見えたり隠れたりした。
遥香の手が、窓ガラスに触れた。
遠くに、大きな橋が見えた。
白い線みたいに、海の上へ伸びていた。
「あれですか」
「瀬戸大橋」
結衣が橋の方へ少し身を乗り出した。
遥香が窓に手をついたとき、バスは坂を上りきっていた。
停留所でドアが開くと、風が一気に入ってくる。
入口は、思っていたよりずっと高い坂の上にあった。
駐車場の向こうに、海が広がっている。
島がいくつも浮かんでいて、その間を白い橋が渡っていた。
遥香は立ち止まった。
「見えます」
「じゃろ」
渚が胸を張った。
「一望です」
結衣が園内の方を見た。
「でも、入るんじゃね」
「せっかく来たんじゃし」
渚はすでにチケット売り場へ向かっていた。
園内は、夏休み前の平日で人が多すぎるわけではなかった。
どこかから音楽が聞こえてくる。売店の前には、ぬいぐるみが並んでいた。
遥香は海の方を見ていた。
「ここからでも十分見えます」
「もっと見えるところがあるんよ」
渚が顎でレールを示した。
「もっと?」
結衣が首を傾けて、レールを目で辿った。
空に、自転車みたいな乗り物があった。
レールが高いところを通っている。
遥香も見上げた。
しばらく動かなかった。
「……あれですか」
「空中サイクル」
渚が首を伸ばしてレールを追った。
遥香の視線が、上で止まった。
「名前がもう高いですね」
結衣がレールの先を目で追った。
乗り場に着いた。
下から見ると、レールはそれほど高くなかった。
でも階段を上がるたび、景色が少しずつ低くなっていく。
遥香の手が、手すりを握った。
「大丈夫?」
渚が肩越しに振り向いた。
「大丈夫です」
声が少しだけ細かった。
渚と結衣が先に乗った。
遥香の前で、次の車両が止まった。
「え」
「後ろからの方が見えるけん。遥香が一番一望できるよ」
渚の口が、にやっと動いた。
遥香は笑わなかった。
係員に案内されてペダルに足を置くと、安全バーが下りた。
動き出すとレールの下に木や斜面が見え、その向こうに海が広がっていく。
瀬戸大橋が、正面に伸びている。
遥香の手が、ハンドルから離れなかった。
「遥香ー!見える?」
前の渚が振り返ろうとした。
「前見て」
結衣の声が隣から飛んだ。
「はい」
渚の背中が、しぶしぶ前を向いた。
風が来た。金属レールが細く鳴った。
足元のレールが、空に浮いているみたいだった。
右にも左にも海がある。島がある。白い橋がある。
遥香は見た。
見えすぎていた。
「綺麗じゃろ」
渚の声が前から飛んできた。
遥香は小さく息を吸った。
「これは」
声が消えた。
「これは、ちょっと無理です」
前の席で、渚の背中が何かを言いかけて止まった。
「止まらんで」
結衣の声が前から飛んだ。
「止まってません」
「遅いよ」
「これ以上は無理です」
「後ろ来とるよ」
遥香がペダルを踏んで少し進んだが、またすぐに止まりかけた。
「遥香、海見て!」
「見えています」
「橋きれい!」
「見えています」
「じゃあ大丈夫じゃん」
「大丈夫ではありません」
結衣が前で淡々と漕いでいた。
「結衣さんは怖くないんですか」
「怖い」
「そうなんですか」
「止まった方が怖い」
目の端が、光っていた。
風がもう一度吹いた。
遥香はハンドルを握り直した。
瀬戸内は、広かった。
でも、今はそれどころではなかった。
降りたあと、近くのベンチに座った遥香へ、渚が自動販売機で水を買ってきた。
「はい」
「ありがとうございます」
遥香は両手で受け取った。キャップを開けるまでに少し時間がかかる横で、結衣が隣に座った。
「一望できたね」
「できました」
遥香は水を飲んだ。
「二度目は?」
「今日はいいです」
「今日は」
「今日はです」
渚がベンチの前に立ったまま、海の方を見た。
「でも、すごかったじゃろ」
遥香も少しだけ顔を上げた。
瀬戸大橋が、海の上に白く伸びていた。
その下を、船が一隻通っていく。
「広いですね」
遥香が、ほうっと小さく息を吐いた。
「ほんと、良い景色じゃね」
渚が海の方へ顎を向けた。
「怖かったですけど」
「それはごめん」
渚が後頭部に手をやった。
遥香が、渚の方へ少し体を向けた。
「でも、来てよかったです」
結衣がベンチの背にもたれた。
「練習しとらんよね」
「しとるよ」
渚が足を組み直した。
「何の練習なん?」
「瀬戸内を見る練習」
「それは練習なんですか」
「多分」
遥香が小さく笑った。
帰りのバスは、行きより静かだった。渚はシートに頭を預けていた。
結衣がスマホで乗り換えを確認している横で、遥香は窓の外を見ていた。
海が遠ざかっていく。
瀬戸大橋は少しずつ見えなくなった。
それでも、白い橋の線だけが目の奥に残っていた。
乗り換えた電車の車窓には、夕方の光が差していた。
シートの背に体を預けると、一日分の疲れが足から上がってくる。
岡山の町が過ぎ、福山を過ぎ、少しずつ三原へ戻っていく。
遥香は窓に映った自分の顔を見た。
「海が広いのは分かりました」
「それ大事なん?」
渚が首を傾けた。
「多分」
「三原と繋がっていると、分かったので」
結衣が膝の上で手を組み直した。
「地区大会、いろんな島でやるんよね」
「はい」
「じゃあ、見といてよかったかも」
渚が伸びをする横で、遥香は少し考えた。
「次はどこ一望する?」
「しばらく低いところでお願いします」
「低い一望?」
「低い一望です」
電車が三原へ向かっていた。
窓の外に、見慣れた島影が戻ってきた。
同じ瀬戸内だった。
でも、少しだけ広くなっていた。




