第31話 終わらなかった夜
高架下を電車が通るたび、店の奥まで低い音が響いた。
外はもう暗かった。店の中には、鉄板の熱と湿った空気が残っていた。
八人は座敷にいた。
鞆の浦から三原へ戻ってきて、誰もまっすぐ帰ろうとはしなかった。
石庭に入って、靴を脱いで、座って、それでも全員のスマホは机の上に出ていた。
鉄板の上で、石庭焼きが湯気を上げていた。
イカの卵焼きが、肉と野菜の上にかぶさっている。
誰も箸を持たなかった。
渚だけが、少しずつ限界に近づいていた。
「食べてもいいですか」
花がスマホを見たまま、渚の皿を押した。
「待てるん?」
「待てません」
渚は割り箸を割った。
その横で、陽も静かに箸を持っていた。誰にも聞かず、イカの卵焼きを一つ取る。
「陽先輩、食べてます」
結衣が小さく指差した。
陽は味噌汁を飲んだ。
「冷める」
「それはそうじゃけど」
結がスマホを伏せたり、また表にしたりしていた。画面はまだ変わらない。
澪はスマホに触れなかった。机の端に置いたまま、湯飲みを両手で包んでいた。
凪は机の上を見た。
ポン酢の小鉢に、刻みねぎが沈んでいた。
鉄板の湯気が、少しだけ白く揺れる。
頭上を電車が通った。
高架の音が、少し長く残った。
鞆の浦の岸壁が、まだ足の裏に残っていた。
流れが折れる場所。
花の指先。
ブザー。
渚の声。
店主が鉄板の向こうで皿を並べた。
「今日はよう食べる日なんか」
「結果次第じゃね」
花がやっとスマホから目を離した。
「結果出たら、もっと食べるかもしれん」
「なんぼでも作っちゃるけんね」
結が少し笑った。すぐにスマホを見た。
通知音が鳴った。
ひとつではなかった。机の上で、八人分のスマホがほとんど同時に震えた。
鉄板の音だけが残った。
澪がスマホを取った。
全員がそれぞれ画面を開いた。
【地区予選 最終結果】
1位 尾道高校
2位 三原中央高校
その下に、忠海中央の名前があった。
勝ち数は同じだった。
得失点差。
それだけだった。
花の箸が止まった。
結が画面を何度も見直していた。陽は箸を持ったまま、動かなかった。
結衣が息を吸った。遥香は両手でスマホを持っていた。渚の箸から、野菜が少しだけ皿に落ちた。
「二位」
花の声が小さかった。
澪が画面を伏せた。
「地区大会じゃ」
その瞬間、渚が立ち上がりかけて座卓に膝をぶつけた。
「痛っ」
結が吹き出した。
「立つなら立つって言いんさい」
「だって、地区大会ですよ!」
結衣がスマホを胸に抱いた。
「本当に……行けるんですね」
遥香はまだ画面を見ていた。
通知の下に、次の案内が出ていた。
【地区大会】
日程:8月10日開幕
形式:トーナメント
宿泊地:因島
会場:瀬戸内海道沿い各区画
決勝:厳島沖
「因島」
遥香が画面を読んだ。
「ホテルあるんですか」
「選手用じゃろ」
結が焼けた野菜を取り分けた。
「負けたら終わりかー」
澪が頷いた。
「次は引き分けがない」
花が焼けた肉を一口食べた。少し熱かったのか、口を開けたまま手で扇いだ。
「熱っ」
「今それ?」
「うるさい」
花はもう一口食べた。
店の外を電車が通った。高架の音が、少し長く残った。
凪はスマホを伏せた。
三原中央高校。二位。
文字は簡単だった。
けれど、その下に忠海中央の名前があるだけで、鞆の浦の海がまた戻ってきた。
勝ってはいない。
それでも、ここにいる。
渚が肉を食べ始めた。止まらなかった。陽もイカの卵焼きをもう一つ取った。
「陽先輩、さっき食べてましたよね」
陽は皿を見た。
「まだある」
結衣が少し笑った。遥香も、画面から目を離した。
肉と野菜の甘い匂いが、ポン酢の匂いに混じった。
石庭を出ると、高架下の空気は少し涼しかった。
八人で店の前に立った。駅の方から人の声が流れてくる。港へ向かう道には、街灯が点いていた。
澪が二年生の方を見た。
「来々軒行くぞ」
花が目を丸くした。
「今食べたばっかじゃろ」
「行くぞ」
結が笑った。
「澪、今日だけ胃袋おかしいん?」
陽は少し考えた。
「餃子なら入る」
「陽はいつもじゃん」
渚が手を上げた。
「うちらは?」
澪は一年生を見た。
「今日は一年は一年で行け」
「え、置いていかれるんですか」
渚の声が少し高くなった。
遥香が渚の袖を引いた。
「毛利行きませんか」
渚がすぐに顔を上げた。
「お好み焼き?」
「はい」
「まだ食べるん!?」
結衣が驚いた。
遥香が少しだけ背筋を伸ばした。
「今日はまだ大丈夫です」
渚はもう頷いていた。
「お好み焼きもいいねー」
「渚も!?」
「地区大会じゃけん」
石庭の暖簾が、後ろで揺れた。
二年生と一年生は、高架下で別れた。
来々軒の明かりは、いつも通りだった。
暖簾の赤が、夜の通りに浮いている。店の中から、スープの匂いが漏れていた。石庭で食べたばかりなのに、その匂いは別だった。
花が扉を開けた。
「また来たんか」
店主が奥から顔を出した。
「今日は特別じゃけ」
「いつも特別言うとる」
カウンターと小さなテーブル。五人で座るには、少し狭かった。けれどその狭さが、来々軒だった。
澪、凪、花、結、陽。
去年は、ここに五人しかいなかった。
花がメニューを見た。
「今日はチャーシュー麺」
「急に豪華」
結が水を配った。
「地区大会じゃけん」
陽が壁の短冊を見た。
「餃子」
ラーメンが来るまで、誰も地区大会の話をしなかった。
厨房の中で湯切りの音がした。器が並ぶ。湯気が上がる。カウンターの端で、古いテレビが小さな音でニュースを流していた。
ラーメンが置かれた。
花はすぐに箸を取った。結はレンゲを持ったまま、少しだけ器を見ていた。
陽は餃子を待っていた。凪は湯気の向こうの澪を見た。
澪は麺を一口すすった。
「間に合ったな」
花の箸が止まった。
結がレンゲを置いた。
陽の餃子が来た。陽は一つ取って、皿を花の方へ押した。
澪は器を見たままだった。
「お前らと、ここまで来られてよかった」
店の外を、自転車のベルが鳴って通り過ぎた。
花が下を向いた。チャーシューを一枚、麺の下へ沈める。
「まだ終わってないじゃろ」
「終わってない」
澪が水を飲んだ。
「じゃけん、行く」
凪はレンゲを持った。
スープの表面に、店の明かりが揺れていた。
去年の春、五人で始まったときは足りないものばかりだった。人数も、経験も、海の読み方も。
今は八人いる。
地区大会へ行く。
花が顔を上げた。
「厳島まで行くよ」
結が頷いた。
「ホテル、何持っていくんじゃろ」
「そこ?」
「大事じゃろ」
陽が餃子を食べた。
「歯ブラシ」
「それは持っていけ」
花が笑った。結も笑った。
澪は少しだけ目を細めた。続きを言わなかった。
ラーメンの湯気が、五人の間に上がっていた。
ネオンの中にあるお好み焼き屋、毛利は、夜でも少し賑やかだった。
鉄板付きのテーブルに、渚、結衣、遥香が座った。
店員が器を三つ置いていく。キャベツ、生地、卵。
遥香が三つの器を自分の前に引き寄せた。
「私がやります」
遥香がスプーンを持った。
結衣が少し身を乗り出した。
「遥香、ほんまにできるん」
「できます」
遥香は器の中を混ぜ始めた。
「まーるく、まーるく、作りましょ」
小さな声だった。
渚が油を塗る手を止めた。
「なんで知っとるん?」
遥香の手が一瞬だけ止まった。
「前に、結先輩が歌っていました」
「ふーん」
渚が少し笑った。
「二人で来たん?」
「部活のあとです」
「ふーん」
「本当に部活のあとです」
結衣が笑った。
遥香は鉄板に生地を落とした。
丸く広げようとして、少し楕円になった。
「まーるく」
「楕円じゃん」
「まだ途中です」
渚が手を出しかけた。結衣が止めた。
「触ったら崩れる」
「でも気になる」
「我慢」
鉄板の上で、キャベツが焼ける匂いがした。店の奥から、別のテーブルの笑い声が聞こえた。ネオンの通路を、買い物帰りの人が何人も通っていく。
遥香はひっくり返すタイミングを見ていた。
結衣がスマホを開いた。地区大会の通知がまだ表示されている。
「8月10日」
渚が頷いた。
「夏休み、ほぼ練習じゃね」
「嫌ですか」
「全然」
渚は鉄板を見たままだった。
「出たいです」
結衣がスマホを伏せた。
「うちも」
遥香がお好み焼きにヘラを差し込んだ。少し崩れかけた。でも、なんとか返った。
三人が同時に息を吐いた。
「成功です」
「ちょっと欠けとる」
「成功です」
遥香はもう一枚に生地を落とした。
結衣が水を一口飲んだ。
「朝、練習しませんか」
渚が顔を上げた。
「朝?」
「先輩たちに内緒で」
鉄板の端で、生地が少し焦げた。
「遥香、端」
「はい」
遥香が慌ててヘラを入れた。
「内緒って、すぐバレそう」
「でも、ちょっとは驚かせたいです」
遥香はヘラを持ったまま、二人を見た。
「何しますか」
「走る」
結衣がすぐに出した。
「海入る」
渚もすぐに出した。
遥香は少し考えた。
「見る練習もしたいです」
「見る練習?」
「水面から。あと、因島の海も見ておきたいです」
鉄板の上で、ソースの匂いが少し濃くなった。
遥香が慌ててヘラを入れた。
渚が笑った。結衣も笑った。
ソースを塗る。青のりをかける。かつお節が熱で揺れた。
渚は箸を取った。
渚と遥香の分は、皿に移された。
結衣の分だけ、鉄板の上に残った。
結衣はヘラで端を切った。
皿を添える。
遥香だけが、マヨネーズを少しだけかけた。
白い線が、ソースの上に細く残った。
三人で手を合わせた。
「いただきます」
結衣は切った一口を、そのままヘラで口へ運んだ。
渚が一口食べて、すぐに頷いた。
「おいしい」
結衣も頷いた。
「遥香、上手い」
遥香は少しだけ目を伏せた。
「丸くはないです」
「まだ言うん」
渚が笑った。
店の外で、誰かが笑いながら通り過ぎた。
鉄板はまだ熱かった。三枚目の生地が、静かに焼けていた。
夜の三原駅前は、昼より少し広く見えた。
来々軒から出た二年生と、毛利から出た一年生が、駅前の噴水の近くで合流した。
渚が手を振った。
「お好み焼き食べました」
花が目を丸くした。
「うちらラーメン食べた」
「食べすぎじゃないですか」
「渚に言われたくないわ」
陽は黙っていた。手には来々軒の餃子の包みがあった。
結がそれを見た。
「持ち帰りまでしとる」
「明日」
「明日なんじゃ」
澪が駅の上の空を見た。
湿った夜だった。雨は降っていない。けれど、遠くの街灯が少し滲んでいた。
凪はスマホをもう一度見た。
三原中央高校。二位。
その文字は、まだ画面に残っていた。
誰もそれを声にはしなかった。
噴水の水が、小さく落ち続けていた。




