第24話 尾道水道、再び
地区予選四試合目の朝、八人は三原駅から電車に乗り、去年と同じ線路を尾道へ向かった。窓の外へ顔を向けた芽衣が、海が近づくにつれて身体を窓側へ寄せていく。
「海が近づいてきました」
「尾道はすぐ海じゃけんね」
結が窓に額をつけた。
「駅を出たら目の前が水道」
遥香が首を伸ばした。
「太平洋より狭いのに、なんか迫力がありますね」
渚が窓の外を見ていた。
「流れ、速そうですね。三原と全然違う」
澪が凪を見た。
「去年来たときより、読める気がするか」
「少しだけ。でも分からない部分の方が多い」
尾道駅を出ると、駅前の向こうに水道が開け、潮の匂いが一気に近くなった。すぐ対岸には向島が横たわり、その間を渡船が一艘横切っていく。
「狭い」
遥香が立ち止まった。
「でも流れがある。波もないのに、水面が動いてる」
「島と島の間じゃけん、流れが集まるんよ」
結が遥香の隣に並んだ。
「太平洋は広いけん、逃げ場がある感じなんじゃろ。ここは狭いぶん、流れがぶつかるんよね」
「狭いのに複雑ってことですか」
遥香が水面を見る横で、渚はもう水道の流れへ身体を向けていた。
去年はばらばらに動いて見えた水面が、今年は泡の折れる場所ごとに何本かの境目へ分かれて見えた。
「凪先輩、顔が違いますよ」
渚が凪を見ていた。
「去年来たとき、怖い顔してたって澪先輩から聞きました」
「余計なこと言うな」
澪が渚の頭を軽く叩いた。
「すみません」
渚が笑った。笑い声が消えると、水道の音だけが残った。
港沿いを進んだ先では、尾道水道の一角が浮標で区切られ、その両端の水中に白いゴール枠が沈んでいた。細い水道の向こうには向島が横たわり、競技区画の外を渡船がゆっくり横切っていく。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.8m
特記:岸寄りに反流・潮目あり
競技水域の向こうでは、尾道の五人が青いゼッケンを着けて並んでいた。去年、潮目をいくつ越えても一度も止まらなかった向島颯が、その列から一歩前へ出る。
「澪。今年も来たんじゃね」
「来たよ」
「去年より強くなっとる?」
「試合で確かめればええじゃろ」
颯は声を上げて笑い、そのまま列へ戻った。
開始の笛が鳴ると、凪、澪、花、陽が海へ入り、結は水面近くに残った。尾道は、今年も潮目で止まらなかった。
凪が息継ぎに顔を出した瞬間、結の声が飛んでくる。
「右……違う、下!」
息を吸い直して潜ると、颯のゼッケンはもう青く光り、その横では花が右手を胸元のゼッケンへ残したままついていた。颯が一段深く沈むと花も身体を沈めたが、潮目を横切った水に肩を流され、胸元に残していた手が離れた。
青い光は消えず、颯はそのまま一段下へ沈みながらゴール側へ抜けていった。少し遅れてブザーが鳴った。
凪が水面へ顔を出すと、岸の得点板は1対0に変わっていた。
次の潮核を追いながら、凪は颯の動きを見た。潮目へ入っても身体は止まらず、泡の向きが変わるところで角度だけが変わった。
変わる瞬間なら、次の出口を絞れる。
凪は先に水を蹴り、颯が抜けるはずの場所へ入った。
来ない。
去年はいなかった一年が、凪の待った出口ではなく、その一つ外側へ先に入っていた。さっきまで水道を追っていた視線が、今は凪へ向いている。
見られている。
背中の奥が冷えた。
その一年が横から流れてきた潮核へ先に入り、ゼッケンを青く光らせた。陽が外側へ入り、澪も内から逃げ道を塞ぐと、花の右手が胸元のゼッケンへ届く。
一秒。
尾道の選手が外へ身体を捻り、花の肩まで潮目に引かれたが、右手は残る。
二秒。
今度は深い層へ沈んでも花がついていき、そのまま三秒。
青い光が消え、浮き始めた潮核へ凪が手を伸ばしたが、横から入った尾道の別の選手の腕が先に届いた。ゼッケンが青く点き、そのまま凪の横を抜けてゴール側へ沈んだ。
ブザーが鳴り、凪が水面へ戻ると得点板は2対0に変わっていた。
残る二つではどちらもゴールまで届かず、第一ピリオド終了の笛が鳴ると、五人は岸側の待機位置へ戻った。
「読めてるか」
澪が凪を見た。
「少しだけ。でも、私が入る場所を先に取られてる」
澪が水道ではなく、競技水域の向こうにいる一年を見た。
「潮じゃない。凪を見とるんか」
渡船の波が、潮目で小さく割れた。
「渚を入れる」
花が澪を見た。
「うち?」
澪は短く頷いた。
花は競技水域の向こうにいる颯と、さっきの一年を順に見た。ゴーグルの端へ指をかけたまま、一度止まった。
「分かった」
花はゴーグルを外すと、渚の胸を拳で軽く叩いた。
「行け。流されても止まんな」
五分後、第二ピリオドが始まり、渚が海へ入ると、右へ蹴るたびに腰が左へ流れ、二掻きごとに身体を返すことになった。
尾道はすぐに動き、今度は颯ではなく別の選手が潮核へ向かった。
速い。
澪が追い、凪も潮目へ入ったが、流れが重なるところで二人の軌道がずれた。陽がサインを出しても渚は一拍遅れ、その間に尾道の選手が潮核を拾って青く光る。
澪が胸元のゼッケンへ手を残してついていったが、二秒を越えたところで相手が身体を深く沈め、澪の指が外れた。
青い光がゴール側へ沈み、ブザーが鳴った。凪が水面へ戻ると、岸の得点板は3対0に変わっていた。
次の潮核を拾った颯が動くと、澪が右へ出て、凪は左から回り込んだ。潮目へ入ったところで、颯の肩がわずかに外へ向く。
そこだった。
凪が出口へ先に入り、正面へ身体を置くと、颯は触れられる前に潮核を流した。尾道の選手が拾ったが、陽がすぐ横まで距離を詰める。
陽の手が胸元へ伸びる前に、その選手は潮核を右へ流した。
その先で渚も動いた。さっきまで腰を横へ流されていたのに、そこでは蹴り直さなくても身体の向きが変わらなかった。
渚が水面へ顔を出したところで、凪も息継ぎに上がった。
「渚! 右!」
結の声が飛ぶと、渚は右へ身体を返した。流れてきた潮核へそのまま入り、拾った瞬間にゼッケンが赤く光る。
尾道の選手がすぐ距離を詰めてきた。
渚が潮核を深い層へ離すと、今度は沈みきらず、浮きすぎもしない高さで凪の手元へ流れてきた。
凪が受け取ってゴール側へ身体を返した瞬間、右から来た尾道の選手の手が胸元のゼッケンへ触れた。
一秒。
凪は身体を一段沈めたが、相手も同じ角度で潜り、指が残る。
二秒。
深さを変えても外れない。今度は身体を浮かせて肩を返したが、相手の腕もついてきた。
三秒。
赤い光が消え、潮核が手を離れた。
残る二つでも得点は動かず、第二ピリオド終了の笛が鳴った。
渚が水面に上がってきた。
「複合流、少し分かりました」
岸の得点板は3対0のままだった。
それでも、尾道水道の中で渚の赤は一度だけ光った。
凪は、その場所を見ていた。




