第22話 風の日の海
地区予選三試合目を翌日に控えた練習帰り、結と遥香はショッピングモール『ネオン』のお好み焼き屋『毛利』に寄っていた。二人の前では鉄板が熱を持ち、遥香の器にはキャベツと生地と生卵だけが入っている。
「そばが、ないです」
「そりゃそうじゃろ。ここ、自分で混ぜて焼く店じゃけえ。遥香、あんまりテレビ見ん?」
「何の話ですか?」
結は答える代わりにスプーンを持ち、器の中でカチャカチャと生地を混ぜた。
「こうやってかき混ぜて、まーるく、まーるく、作りましょう」
結が小さな声で歌いながら、生地を鉄板に落とした。ジュッと高い音が弾けた。
丸い生地が鉄板の上で焼け始めたところで、テーブルの端に置いた結のスマホが震え、潮球運営委員会アプリの通知が画面に浮かんだ。結はスプーンを置いた。
【試合会場】
三原中央高校 vs 竹原第一高校
会場:佐木島沖 区画C
集合時刻:12:00
※強風注意報発令中
「佐木島じゃけど、強風注意報が出とるね」
「海、どれくらい変わりますか?」
遥香は自分のスマホで天気予報アプリを開いた。
「わからん。最悪、試合荒れるかもね」
鉄板の上で、生地の焦げる匂いがした。
* * *
翌朝、佐木島へ向かうフェリーに乗ると、波にぶつかるたび船体が低い音を立てて軋んだ。凪がデッキへ出ると、先にいた渚の髪が風に押されていた。
「つよ」
隣では芽衣の髪が横へ流れ、二人ともそのまま水面へ目を向けた。船尾から伸びる白い航跡は、まっすぐ残らず途中から横へ崩れ、その脇では泡だけが別の向きへ流れていた。
浅いところの潮核も、流れだけでは読めないかもしれない。
遥香がデッキの端に立って、水面をじっと見ていた。
「太平洋の風と全然違います。方向がころころ変わる」
結が風を睨んだ。
「島と島の間で風が跳ね返る」
佐木島沖では、浮標で囲まれた競技区画の両端に白いゴール枠が沈んでいた。北側の浮標は波に合わせて上下し、張ったロープまで何度も水面へ沈んでいる。
凪が水面へ手を入れると、波が手首まで打ち上がった。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.4m
特記:強風による波浪あり
潮核の軌道が風の影響を受ける可能性
水面視界:不良
結がボードを見た。
「水面視界不良か」
澪が遥香を見た。
「いつも以上に大きく叫んでくれ。届かんかったとしても、叫び続けろ」
遥香は頷いた。
竹原第一の五人が向かい側に並んでいた。
去年より、体格がいい。
花が相手選手を見た。
「冬以来じゃね。合宿では勝ったけど、今日は海じゃ」
開始の笛が鳴ると、凪、澪、花、陽が海へ入り、遥香だけが水面近くに残った。
横から来た水に脚を取られた瞬間、凪の呼吸が一拍浅くなった。それでも、さっき船の上から見た航跡と同じ向きに水が抜けていることの方が気になった。
凪が顔を沈めた途端、水面で砕けた光が白く揺れ、数メートル先にいる陽の腕まで波の影へ紛れた。水そのものは東から西へ身体を押しているのに、その上では風が波頭を反対へ崩し、浅いところを漂う潮核も波に押されるたび軌道をずらしている。
息継ぎに顔を出すと、横から来た波が頬へ当たった。
「凪、右――!」
遥香の声も途中を風に削られ、最後だけが届く。息を吸い直して潜ったころには、右にいた竹原第一の選手が潮核との距離を詰めていた。
凪も追ったが、次の波が横から肩へ当たり、身体が半身外へ流される。竹原第一の選手は腰を落としたまま向きを変えず、一掻きするたびにこちらとの差を広げ、先に潮核を拾うとゼッケンが青く光った。
波を受けても軸は崩れず、そのままゴール側へ進んでいく。花が横から入っても速度は落ちず、二人の身体が深い方へ沈み、白い波の下へ輪郭が消れた直後、ブザーが鳴る。
凪が水面へ戻ると、岸の得点板は1対0に変わっていた。
次の潮核へ向かう途中、強い風がもう一度水面を叩き、北側の浮標ロープが横へ倒れると、白い泡も一斉に西へ走った。けれどしばらくするとロープの張りが戻り、その瞬間だけ波も低くなってから、また風が強くなった。
残る三つでは互いにゴールまで届かなかった。凪も二度、息継ぎに顔を出したところへ波をかぶり、そのたびに位置を取り直すことになった。
1対0のまま第一ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルに入ると、花が濡れた髪を後ろへ払った。
「流れだけ見ても駄目じゃね。浅いとこ、波に持ってかれる」
凪は返事をせず、海を見た。さっき横へ倒れていた北側の浮標ロープは、今はほとんど真っすぐ張っている。
澪がその視線を追った。
「何か見えたか」
「強く吹いたあと、一回だけ波が落ちます」
「どれくらいで?」
「まだ分かりません。次でもう一回見ます」
澪が海へ目を戻した。
「分かった。次は無理に取りに行くな。凪が見るまで守る」
第二ピリオドが始まっても、三原中央は無理に前へ出なかった。
凪は潮核だけでなく、息継ぎに上がるたび北側の浮標を見た。強い風が吹き抜けるとロープが大きく傾き、水面の泡が横へ崩れる。そのまま頭の中で秒数を測ると、三十秒ほどで張りが戻って波が一度だけ低くなった。
凪が数えている間にも、竹原第一は止まらない。中央の潮核を拾った選手がゼッケンが青く光り、波を正面から受けながらゴール側へ進んできた。
花が左から追いつき、右手を相手の胸元のゼッケンへ伸ばして触れた。竹原第一の選手が身体を沈めると、花も一緒に潜り、そのまま横へ逃がさない。
一秒。
相手が強く水を掻き、花の身体ごと前へ引いた。花も足を蹴ってついていくが、横から返ってきた波の力が二人の肩の間へ入り、花の右腕を外側へ押した。
二秒。
花は身体を寄せ直したが、次の波で肩が半身流され、ゼッケンに残していた指が三秒になる前に離れた。その一拍で竹原第一の選手が前へ出た。
花も追ったが、ゴール側へ沈んだ青い光は白い波の下へ紛れ、少し遅れてブザーが鳴った。凪が息継ぎに上がると、岸の得点板は2対0に変わっていた。
残る三つでは三原中央も深追いしなかった。凪は一度潮核を追いかけかけたが、強い風で浮標ロープが倒れるのを見て足を止める。
ここから。
横へ走る泡を見ながら頭の中で時間を測ると、さっきとほぼ同じ間隔でロープの張りが戻り、波が一拍だけ低くなった。
同じだ。
得点が動かないまま第二ピリオド終了の笛が鳴ると、凪は息を整える前に澪を見た。
「強い風のあと、三十秒くらいです。一回だけ弱くなります」
「毎回か」
「二回とも同じでした。次も来ると思います」
澪は海を見た。
「なら、そこだけ使う」
花が岸へ上がり、代わりに渚が立った。
「渚、入れ」
「はい」
渚がゴーグルを下ろす横で、花は肩から落ちる水をタオルで拭いた。
澪が遥香を見る。
「引き続き水面頼む。全部届かんでもええ。見えたもんは声にしろ」
「はい」
五分後、第三ピリオドが始まり、渚が海へ入ると正面から来た波に身体を持ち上げられた。それでも一度も止まらず、波が落ちたところでそのまま水中へ入っていく。
凪は息継ぎへ上がるたび浮標ロープを追い、強い風が吹き抜けてロープが倒れ、泡が西へ走り始めたところから頭の中で時間を測った。波をかぶるたび視界は途切れたが、そのまま水面近くに残ってロープを追った。
強い風が抜けてから三十秒近く経ったころ、ロープの張りが戻り始めた。
次、弱まる。
凪が水を蹴ると、サインを出していないのに、視界の右にいた渚も同じ方向へ身体を沈めた。
どうして分かったの。
風が落ち、水面の波が一拍だけ低くなった。さっきまで横へ押されていた潮核が東西の流れへ戻り、凪が先に軌道へ入って抱え込むと、ゼッケンが赤く光った。
ゴール側では渚がもう前へ出ている。凪が浅い流れへ潮核を離すと、渚は身体を合わせて受け取り、そのまま波の低い水面の下を進んだ。竹原第一の一人が横から距離を詰めたが、手が届く前に渚が身体を沈め、赤い光が深い層へ消れた直後にブザーが鳴った。
凪が息継ぎに上がると、得点板は2対1に変わっていた。
「渚さん、左! もう一個来ます!」
遥香の声が風の合間を抜けた。
けれど声が届いたときには、渚はもう左へ身体を向けていた。
少し離れたところでは、遥香の声を拾った澪も同じ方向へ動く。
左側の潮核は、強い風で崩れた波の下を横へ流れていた。渚が先に入り、拾った瞬間に赤いゼッケンが点く。
竹原第一が寄る前に、渚は潮核を深い層へ離した。
深い。
潮核は狙った流れより下へ沈んで横へ運ばれないまま速度を落とし、澪もその分だけ深く潜って拾い直した。渚の赤い光が消えて澪のゼッケンが点き、そのままゴール側へ沈んだ数秒後にブザーが鳴った。
凪が水面へ上がると、岸の得点板は2対2に変わっていた。残る二つでは得点が動かず、そのまま第三ピリオド終了の笛が続いた。
凪が水面へ上がると、渚も近くで息を吸っていた。
「今の、深かった」
「はい」
渚がまだ揺れている水面へ目を向ける横で、凪も同じ場所を見た。
自分は三十まで数えた。
渚は、何を見て同じ瞬間に動いたんだろう。
五分のインターバルに入ると、澪が岸へ上がった凪の前で芽衣を呼んだ。
「芽衣、次から入れ。凪は上がれ」
芽衣の肩が一度だけ上下した。沖では風がまた水面を白く崩している。
「怖いん?」
「あの波、怖いです」
花は芽衣の顔を見てから、その肩を一度だけ叩いた。
「行ってきんさい」
芽衣が頷いた。
第四ピリオドが始まると、凪は岸から海を追った。
水面視界不良と書かれていた通り、波が高くなるたび選手の身体は胸から下が隠れ、潜れば輪郭そのものが白い泡と青緑の水中へ溶けた。見えるのは水面へ出た顔と腕、浮標、泡、それから潮核を持った選手の光くらいだった。
「芽衣さん、右! 右に来ます!」
遥香の声が風を越えた。
波の間で芽衣が右へ身体を向け、その少し先でゼッケンが赤く光った。本番で初めて見る芽衣の光に、凪の視線が止まる。
竹原第一の選手が寄り、二人の身体が波の向こうで重なった。赤い光は水面近くを前へ進みながら何度も波に隠れ、数秒後に消えた。
次の波間に潮核が一度だけ見えた。
落とされた。
次の波間に潮核が一度だけ見えると、芽衣はすぐにそこへ身体を向け、正面から来た波に身体を持ち上げられてもそのまま前へ進んだ。竹原第一の選手も同じ潮核へ寄ったが、次に波が落ちた瞬間、芽衣のゼッケンがもう一度赤く点いた。
「芽衣さん、そのまま!」
遥香の声が飛ぶ。
赤い光は竹原第一の選手と重なったまま少しずつゴール側へ移り、波が高くなると二人の輪郭まで消えた。
もう、見えない。
赤い光だけが一度深い方へ沈み、それも水面の反射へ紛れた。
ブザーが鳴り、凪が得点板を見ると2対3に変わっていた。
ベンチの花が、小さく拳を握った。
芽衣が水面へ上がり、大きく息を吸っているのが波の間から見えた。
残る二つでは得点が動かなかった。
最後の潮核が水面近くへ流れてくると、竹原第一の一人が先に身体を向けた。澪と陽の前にはそれぞれ相手が入り、渚は潮核から離れた区画の反対側にいた。
「左! 澪さん、左!」
遥香が叫んだが間に合わず、竹原第一の選手が潮核へ近づくのを見ると、今度は遥香自身が水面を蹴った。凪がベンチから身を乗り出したところで、遥香の身体は波の下へ消えた。
白く崩れた水面の下はもう追えず、誰が先に触れたのかも分からない。次の瞬間、その下で赤い光が一度だけ点き、すぐに消えた。
波間へ現れた潮核は、さっきまでの進路から横へずれていた。
竹原第一の選手が身体を返し、流された潮核を追う。青いゼッケンが光ったころには、残り時間はほとんどなかった。
ゴール側へ向かった青い光が波の下へ沈んだが、ブザーが鳴るより先に試合終了の笛が響いた。
岸の得点板には、2対3が残っていた。
水面へ上がった遥香が大きく息を吸った。少し離れたところでは、芽衣もまだ肩を上下させている。
花が岸際まで寄り、まだ息の整わない芽衣が顔を上げるのを待った。
「ええじゃん」
芽衣が一度だけ笑った。
凪はベンチから海を見た。風は変わらず強く、白い波頭が区画の端から端まで走っている。
澪が隣へ来た。
「最後の、見えたか」
凪は、遥香の赤い光が一度だけ点いた場所を見た。
「見えました」
澪はそれ以上何も言わなかった。
遥香が岸へ上がってくると、結はその姿を見て口を開きかけたが、何も言わずに走り寄ってそのまま抱きついた。遥香は一瞬だけ身体を固くしたあと、結の背中へ腕を回し、二人ともそのまましばらく何も言わなかった。
結の肩が小さく震え、遥香はその肩へ額を寄せた。
「毛利、行きましょう」
結が身体を離し、遥香の顔を見る。
「いいね。遥香のも作ったげる」
二人の笑い声が港の音へ混じる横で、まだ強い風が濡れた髪を揺らし、肩に掛けたタオルの端を何度も持ち上げていた。




