第22話 風の日の海
地区予選3試合目前日の部活終わり。
結と遥香はショッピングモール『ネオン』にあるお好み焼き屋『毛利』にいた。
遥香は、自分の前に置かれた器を見つめていた。
キャベツと生地と、生卵。
「そばが、ないです」
「そりゃそうじゃろ。ここ、自分で混ぜて焼く店じゃけえ」
結がスプーンを持った。
「遥香、あんまりテレビ見ん?」
器の中で、カチャカチャと音が鳴る。
「こうやってかき混ぜて、まーるく、まーるく、作りましょう」
結が小さな声で歌いながら、生地を鉄板に落とした。ジュッと高い音が弾けた。
鉄板の上で、丸い生地が焼けていく。
テーブルの端で、結のスマホが震えた。
画面が光る。潮球運営委員会アプリの通知。
結がスプーンを置いた。
【試合会場】
三原中央高校 vs 竹原第一高校
会場:佐木島沖 区画C
集合時刻:12:00
※強風注意報発令中
「佐木島じゃけど、強風注意報が出とるね」
「海、どれくらい変わりますか?」
遥香は自分のスマホで天気予報アプリを開いた。
「わからん。最悪、試合荒れるかもね」
鉄板の上で、生地の焦げる匂いがした。
翌朝。
フェリーで佐木島へ渡った。
凪は窓の外を見た。波にぶつかるたび、低い音を立てて船体が重く軋んだ。
渚がデッキに出た瞬間、風が顔に当たった。
「つよ」
隣で芽衣の髪が横に流れた。二人とも、すぐ水面を見た。
波が立っていた。
白い泡が、風に乗って流れていく。
潮核が、流れよりも風に押されるかもしれない。
遥香がデッキの端に立って、水面をじっと見ていた。
「太平洋の風と全然違います。方向がころころ変わる」
結が風を睨んだ。
「島と島の間で風が跳ね返る」
佐木島沖、試合会場。
凪は水面に手を当てた。波が手に当たった。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.4m
特記:強風による波浪あり
潮核の軌道が風の影響を受ける可能性
水面視界:不良
結がボードを見た。
「水面視界不良か」
澪が遥香を見た。
「いつも以上に大きく叫んでくれ。届かんかったとしても、叫び続けろ」
遥香は頷いた。
竹原第一の五人が向かい側に並んでいた。
去年より、体格がいい。
花が相手選手を見た。
「冬以来じゃね。合宿では勝ったけど、今日は海じゃ」
凪が頷いた。
試合開始の笛が鳴った。
先発の五人が海へ入った。
凪、澪、花、陽が水中へ。
遥香が水面に残った。
結はベンチから、水面を睨んでいた。
凪が水中に潜った。
風の影響で水が濁っていた。
陽のサインが見えにくかった。
潮核の軌道が風に逸れ、上手く繋がらなかった。
ベンチの結が、水面を睨んでいた。
「声、持っていかれる」
風がまた向きを変えた。
遥香は息を吸って、もう一度叫んだ。
竹原第一が動いた。
波に逆らわず、力だけで真っ直ぐに進んでくる。
青い光。ブザー。
スコア:竹原第一 1 - 三原中央 0
遥香は声を張り上げ続けた。
時折見えるのは、竹原第一の大きな背中と、弾き飛ばされる味方の姿だけだった。
それでも、澪が体を張ってコースを塞いだ。
ブザーが響いた。第1ピリオド終了。
インターバル。
岸に戻った五人の顔が、波で濡れていた。
花が髪をかき上げた。
「流れより風の方が強いけん、どこに潮核が流れるか読めん」
凪が荒れる海を見た。
「風のパターンを読む」
「風のパターン?」
「風の向きが、戻ってきます」
「戻る?」
「島に当たって、跳ね返ってる。たぶん、三十秒くらい」
凪は荒れる水面を見た。
澪が凪を見た。
「確かか」
「たぶん。あと2回くらい確認したら、はっきりする」
「じゃあそれを待つ」
第2ピリオド。
三原中央の動きは慎重だった。
点を取るより、風のパターンを掴む時間にした。
澪と陽が必死に守った。
竹原第一の選手が、二人を振り払い進み続けた。
冬に屋内で見た力より、重かった。
波の中でも、体の軸がぶれなかった。
ゴール付近で花が相手を抑え込んだ。三秒のカウントが響いた。
三秒タッチ。
一秒。
二秒。
花が潮流に流されながら、重心を低く保った。
三秒の手前。
花の手が離れた。
空いた一瞬を、竹原第一が押し切った。
青い光。ブザー。
ブザーが響いた。第2ピリオド終了。
スコア:竹原第一 2 - 三原中央 0
凪は、波ではなく風の切れ目を数えていた。
インターバル。
岸に戻った。
渚がベンチから荒れる海を見ていた。
身を乗り出し、波の軌道を追って首を動かしている。
「風のパターン、分かりました」
凪が全員を見た。
「向きが変わった直後が一番安定する。そこだけ動く」
澪が頷いた。
「渚、次から入れ。花と交代じゃ」
花が頷いた。顔に水滴が光っていた。
額から、肩から水滴が落ちていた。息が荒く、肩が重く上下している。
澪が遥香を見た。
「引き続き水面を頼む。風で声が消えるけん、今より大きく叫んでくれ」
遥香が深く頷いた。
第3ピリオド。
渚が海に入った。
波が正面から来た。渚は怖がらなかった。体ごとぶつかるように前へ出た。
沈みかけて、また浮かぶ。また波が来る。また前へ出た。
凪は一度、水面に顔を出した。
目を閉じた。
頬に当たる風。首筋の湿気。波が来る周期。
三十秒。
切り替わる。
体が動いていた。理解より先だった。
渚も同時に動いていた。サインなしで、二人の動きが噛み合った。
風が落ちた一瞬、水面が一拍だけ静かになった。
潮核が流れに乗った。軌道が安定していた。
凪が拾った。ゼッケンが光る。渚が前に出ていた。
流した。渚が受け取る。竹原第一の選手が来た。
渚がその手前で深く沈めた。潮核がゴールゾーンへ向かって消えていく。
赤い光。ブザー。
スコア:竹原第一 2 - 三原中央 1
遥香の声が響いた。
「渚さん、もう一個!左に来ます!」
渚がすでに左を向いていた。声が来る前に、もう動いていた。
渚には届いていなかった。
澪が、その声に反応した。
竹原第一が気づく前に、渚が拾っていた。
深く流す。
少し深すぎた。失速した。
でも澪が受け取った。
そのままゴールゾーンへ押し込んだ。
赤い光。ブザー。
スコア:竹原第一 2 - 三原中央 2
ブザーが響いた。第3ピリオド終了。
インターバル。
岸に上がった花が、水面をしばらく見ていた。
澪が全員を見た。
「芽衣、次から入れ。凪、上がれ」
芽衣の肩が、一度だけ上下した。
「怖いん?」
「あの波、怖いです」
花が芽衣の肩に、そっと手を置くようにして叩いた。
第4ピリオド。
芽衣が入った。
遥香は水面に残った。
凪はベンチから見ていた。
芽衣が波を受けた。体ごと揺れた。それでも止まらなかった。
前に出る。また波が来る。また揺れる。また前に出る。
一度も止まらなかった。
遥香の声が、風の中でも届いた。
「芽衣さん、右!右に来ます!」
芽衣が右へ動いた。潮核が風に押されて流れてくる。
拾う。
ゼッケンが光った。
初めての、本番での光だった。
竹原第一の選手が来た。
三秒タッチが始まる。
芽衣が引きずられながら前へ出た。
波に押されても、体の向きは変わらなかった。
三秒。
ゼッケンの光が消えた。
潮核が手から離れた。
でも芽衣は、まだゴールゾーンを見ていた。
潮核が風に押されて漂っていた。
残り時間、わずか。
芽衣がまた動いた。
波に揺られながら、真っ直ぐ向かっていった。
竹原第一の選手が来た。
体を当てられた。沈みかける。
それでも止まらなかった。
竹原第一の選手を引きずったまま、手が潮核に届いた。
ゼッケンが光る。
三秒タッチが始まった。
一秒。
二秒。
そのまま体ごと、ゴールゾーンへ突っ込んだ。
赤い光が、ゴールゾーンに沈んだ。ブザー。
スコア:竹原第一 2 - 三原中央 3
ベンチで花が小さく拳を握った。
芽衣が水面に上がった。
腕に、まだ力が入らなかった。
遥香が芽衣を見た。
「水面、見ててください」
芽衣が頷いた。
竹原第一が残った潮核へ向かっていた。
渚は逆側。
澪と陽の前には、相手がいた。
誰も届かない。
遥香の指先が、水に触れた。
止められるかは分からなかった。
でも、見えていた。
遥香が水中へ入った。
向こうが先に手を伸ばす。
遥香の指が、潮核の端に触れた。
ゼッケンが、一瞬だけ光った。
でも、潮核は手の中にない。
光が消える。
潮核だけが、流れに乗って横へ滑った。
竹原第一の手が、水を掴んだ。
流された潮核を追う。
拾う。ゴールを目指す。
笛が、鳴った。
試合終了。
スコア:竹原第一 2 - 三原中央 3
花が芽衣に近づいた。
「ええじゃん」
芽衣が顔を上げた。まだ息が整っていなかった。でも笑った。
凪はベンチから海を見ていた。
風はまだ強かった。波も、まだ立っていた。
澪が隣に来た。
「最後の、見えたか」
岸壁に当たる波の音が、途切れずに続いていた。
「見えました」
澪はそれ以上何も言わなかった。
遥香が岸に上がった。
結は、何か言おうとしてやめた。
走り寄って、そのまま抱きついた。
遥香が一瞬だけ固まった。それから、結の背中に手を回した。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
結の肩が、少し震えていた。
遥香の目が、赤くなっていた。
遥香が結の肩に額を寄せた。
「毛利、行きましょう」
結が離れて、遥香の顔を見た。
目元に、まだ水が残っていた。
「いいね。遥香のも作ったげる」
二人の笑い声が、港の音に混ざって消えた。
波はまだ立っていた。
佐木島の海は、終わったあとも風だけが残った。髪の中にも、タオルの端にも。




