第21話 島の流れ
練習を終えた夜、近所の公園では街灯の光が広場へ落ち、その向こうで木々が夜風に揺れていた。ベンチのそばで花がスマホを開くと、隣の芽衣も画面へ顔を寄せた。
【試合会場】
三原中央高校 vs 大崎上島高校
会場:生口島沖区画A
集合時刻:12:00
「生口島か。島の海じゃね」
「向こうが有利なんですか?」
花は顔を上げ、暗い広場の奥へ目を向けた。
「わからん。じゃけど、芸予諸島じゃけうちらよりは慣れとるじゃろうね」
花がスマホを閉じると、芽衣は公園の奥へ目を向けた。暗くなった広場にはベンチが並び、端にはまだ何もない仮設用の杭だけが残っていた。
「花先輩、今年のさつき祭りどうします?」
「どうって。今年も手伝いには出るけど」
「部員のみんな、誘わないんですか?」
花はスマホをポケットへ入れた。
「みんなを?」
「去年、私らだけでしたし」
花は広場を見た。祭りの日には、この辺りまで店が並ぶ。
「ほうじゃね。声だけ掛けてみようか」
芽衣が笑った。
「陽先輩、食べ物だけでも来そうです」
「それは来るじゃろ」
* * *
翌日、生口島へ向かうフェリーが三原港を離れると、島と島の間へ入るたび船尾の白い航跡が横から押されて形を崩した。生口島が近づくころには、まっすぐ伸びていた筋の先端だけが西へ折れ、そのすぐ横では別の泡が違う向きへ流れている。
遥香が欄干へ手をかけ、その水を目で追った。
「なんか、三原と違う。向こうでは、こういう島の間の流れは見なかったです」
遥香の指先が、欄干をゆっくりなぞった。
渚が凪の隣に来た。
「流れ、読めますか?」
「大体は。でも生口島は初めてだから、入ってみないと分からない部分もある」
渚が少し首を傾けた。
「正直ですね」
芽衣が手すりから身を乗り出し、すぐに少し後ずさった。
「花先輩……ここ、海ですよね? 川みたいに水が走ってますけど」
「こりゃ体力勝負になるかもしれん」
花の言葉をかき消すように、生口島へ近づくフェリーの汽笛が鳴った。
岸へ上がって受付を済ませると、島影の前に浮標で囲まれた試合区画が広がり、その両端の水中には白いゴール枠が沈んでいた。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:複合流 東→西主体
特記:北側に潮目あり
潮止まり不規則
大崎上島の五人がボードを見て頷き合い、その先頭では、小柄な木江が合宿のときと同じ静かな目で海を見ていた。
凪は水面へ手を入れた。指の間を東から西へ抜ける水は強いのに、北側の浮標へ寄った泡は途中から斜めへ折れ、その先では別の泡とぶつかって動きを止めている。
けれど次に流れてきた泡は、さっき止まった場所をそのまま西へ抜けた。
止まる場所が、動いている。
「澪さん。今日はCで行った方がいいと思います」
「Cで行く。サインは出さん」
澪が海へ目を戻した。
「見るのはいつも通り。うちの位置と、凪が流した潮核じゃ。木江の動きには引っ張られるな」
渚がベンチで頷いた。
開始の笛で海へ入り、横から来た水に脚を取られた瞬間、凪の呼吸が一拍浅くなった。それでも、さっき船の上から見た航跡と同じ向きに水が抜けていることの方が気になった。
木江は中央の潮核へ直線では向かわず、北側の浮標へ一度身体を振った。追った凪の右脚へ横から水が当たり、身体が半身外へ流されたが、木江は押される前に身体を返し、その先で折れた泡の筋へ入っていく。流れてきた潮核も、その正面へ寄った。
先に読まれた。
木江が流れてきた潮核を拾うと、ゼッケンが青く光った。凪が息継ぎに顔を出した瞬間、結の声が飛ぶ。
「北! 木江、浮標の外!」
息を吸って潜り直したときには、木江の青い光は北側の浮標へ伸びる泡の筋をもう横切り、その先で流れが西へ折れる場所へ入っていた。凪が距離を詰める前に、その光がゴール側へ沈んでブザーが鳴った。
残る三つでは互いにゴールまで届かず、1対0のまま第一ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルに入ると、澪が海を振り返った。
「木江だけ追うな。あいつが入る前の水を見ろ」
結が凪の隣に来た。
「木江さん、合宿で変わったね」
「うん。合宿の後から、動きが変わった」
「じゃあ、うちらも合宿で変わっとるはずじゃん」
凪は結を見た。
向こうだけじゃない。
五分後、第二ピリオドが始まっても凪は木江を追ったが、潮目が動くたびに木江が使う層も変わり、追いつくころにはもう次の流れへ移っていた。
凪の左足を押していた冷たい水が急に消えた。水面へ上がる泡はまだ西へ流れているのに、右の脛だけへ横から水がまとわりつく。
右へ折れる。
凪は澪の位置を確かめ、近くの潮核を右へ浅く流した。その先へ澪が入り、拾った瞬間にゼッケンが赤く光る。大崎上島の一人が正面から距離を詰めると、澪はその手が届く前に潮核を深い側へ離した。
ゴール寄りへ入っていた花が軌道へ身体を沈め、流れてきた潮核を受けると、そのままゴール枠へ押し込んだ。ブザーが鳴った。
凪が水面へ上がると、岸の得点板は1対1に変わっていた。
その後は残る三つでも得点が動かず、1対1のまま第二ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルに入ると、澪が岸へ上がって渚と交代した。
「結、次は遥香を水面に入れる」
結が遥香を見て口を開きかけた。水面を指しかけた手が途中で止まり、そのまま下りる。
「行っておいで」
遥香が頷いた。
五分後、第三ピリオドが始まると、結と交代した遥香が水面に残り、凪、花、陽、渚の四人が海中へ散った。
次の潮核へ向かった木江を凪も追い、複合流の中で肩が並んだ。木江が顔を向け、ゴーグル越しに一瞬だけ目が合った。
凪が息継ぎに顔を出したとき、右側の泡はもう二つの筋へ割れ始めていた。
そのあとで遥香の指が右へ伸びる。
「右です!」
遅い。
内側の泡だけが一瞬速度を落とした。
ここだ。
凪が水を蹴るのと同時に、視界の端で木江の身体も同じ場所へ沈んだ。二人の肩が並び、流れてきた潮核へ伸ばした手までほとんど重なる。
凪の指が先に潮核へ届き、抱え込んだ瞬間にゼッケンが赤く光った。木江の手が届く前に深い側へ流すと、その先へ入った渚が受け取った。流れに身体を押されて半身傾いたが、渚は足を蹴り直して姿勢を戻し、そのままゴール枠へ潮核を沈めた。
ブザーが鳴り、凪が水面へ上がると岸の得点板は1対2に変わっていた。
その後は残る三つでも得点が動かず、1対2のまま第三ピリオド終了の笛が鳴った。
凪が水面へ上がると、すぐ隣で木江も大きく息を吸っていた。ゴーグル越しに目が合い、木江の口角がほんの少し上がる。
凪も黙って頷いた。
五分後、第四ピリオドが始まり、凪が息継ぎに顔を出すと、右側の潮核へ大崎上島の選手がもう身体を向けていた。遅れて遥香もそちらへ顔を向け、右手を伸ばす。
「右……!」
声が届いたときには、大崎上島の選手がもう潮核を拾い、青いゼッケンをゴール側へ向けていた。
遅れた。
凪もすぐ潜り直したが距離を詰められないまま青い光がゴール側へ沈み、ブザーが鳴った。水面へ戻ると、岸の得点板は2対2に変わっていた。
その後の二つではどちらもゴールまで届かず、最後の潮核が渚と木江の間へ流れてきた。二人はほとんど同時に身体を向けたが、木江がそのまま距離を詰める横で、渚だけが途中で水を掻く手を止めた。
まだ泡の向きは変わっていない。
どうして止まるの。
次の瞬間、渚の足元を通っていた泡が右へ折れ、木江の前にあった潮核も同じ方向へ流され、止まっていた渚の正面へ入った。
渚が拾うと、追ってきた木江もすぐ身体を返す。けれど渚は潮核を腹の下へ沈め、さっき右へ折れた流れへ離した。
潮核が木江の横を抜けてこちらへ流れてくる。凪も身体を向け、胸元まで浮いてきた潮核を受け取った。
凪が潮核を抱えるとゼッケンが赤く光り、ゴールとの間へ大崎上島の一人が入った。肺に残っている空気では、もう一度深く潜るのが限界だった。
凪は正面から行かず、右足へ当たる流れに身体を乗せて相手の外側へ回ったが、追いついた手が右肩のゼッケンへ触れた。
一秒。
ここで浮けば、せっかく取った外側を捨てることになる。
凪は息継ぎへ上がらず、横から押す流れに身体を乗せたまま右肩を沈めた。右肩のゼッケンに残っていた指が滑り、二秒になる前に外れる。
ゴール枠は、もうすぐ下だった。
凪は残った息のままもう一度だけ水を蹴り、身体を沈めて潮核を枠へ押し込んだ。ブザーが鳴り、その直後に試合終了の笛が続いた。
水面へ上がった凪の先で、岸の得点板が2対3へ変わっていた。
「勝ったん!」
結の声が海に響き、花も小さく息を吐いた。
「勝った」
渚は水面に浮かんだまま空を見上げ、凪はその横顔を黙って見ていた。少し離れたところでは、遥香だけが水面に残ったまま動かなかった。
帰りのフェリーが生口島を離れると、島の間を走っていた水が船尾の航跡をすぐ横へ崩していった。凪がデッキへ出ると、少し先で澪がスマホを見ていた。
「澪さん?」
澪が凪にスマホを向けた。潮球運営委員会アプリの速報欄だった。
【試合結果】
忠海中央高校 0 - 1 西条付属高校
凪は画面を見た。
「西条が」
「鏡山が言っとったじゃろ」
澪が港の方を向いた。
「海に行く理由が増えたって」
少し離れた場所で海を見ていた遥香のところへ、結が歩み寄って隣に立った。
フェリーが三原へ向かうあいだも、船尾の航跡は島の間へ入るたび形を変えた。西へ伸びた白い筋のすぐ横で、別の泡だけが反対へ流れている。
凪は、その二つが離れていくところを見ていた。




