第20話 2年目の初戦
試合前日の三原駅前では、噴水の水が春の日差しを細かく返していた。八人で駅前を歩いていると、澪の手の中でスマホが鳴った。
潮球運営委員会から、翌日の試合会場が届いていた。
【試合会場】
三原中央高校 vs 常水館高校
会場:大崎上島沖区画B
集合時刻:12:00
遥香が澪のスマホを覗き込んだ。
「三原の学校なのに、三原の海じゃないんですか?」
「会場は運営が決めるんじゃ。こっちに選択権はない」
遥香はもう一度、澪のスマホへ目を落とした。
「地区予選って、全部で何戦あるんですか?」
「六戦。三敗したら終わり」
噴水の水音が、そこで一度大きく聞こえた。
「一敗目から、もう重いんですね」
「今年は、去年と同じ負け方はせん」
遥香が空を見上げた。
「六戦か」
結が隣で首を傾げた。
「大崎上島か。去年経験しとるし、うちらに有利じゃない?」
「相手も経験しとる。油断するな」
澪が歩き出した。
港の方から、フェリーの汽笛が届いた。
翌日、大崎上島へ向かうフェリーが三原港を離れると、新入生三人はそろってデッキへ出た。八幡宮の高台から重なって見えていた島が、今度は船の左右を一つずつ通り過ぎていく。
「島に渡るって、静岡じゃあまりなかったんですよね」
遥香が風に髪を押さえながら海を見ている横で、芽衣が欄干へ手を掛けた。
「瀬戸内は多いけえね」
渚は遠くの島を見た。
「どこ見ても島がある」
言い終えると、その視線が島と島の間の水へ落ちた。
凪も島より、その間の水を見ていた。
フェリーが大崎上島へ近づくにつれ、海の上に試合区画の浮標が見えてきた。岸へ上がって受付を済ませ、八人で荷物を置くころには、海面は船上から見たときより白く光り、南側の島陰だけが水の色を少し暗くしていた。
審判がボードを掲げた。
【本日の潮況】
時刻:13:00
方向:東→西 秒速0.4m
特記:島陰あり・南側に潮止まり
干潮まで2時間
花がボードを見た。
「去年と似た条件じゃ」
澪が凪を見た。
「凪、読めるか」
「南側の潮止まり、位置を確認します」
凪は水面へ手を入れた。指の間を東から西へ抜ける水はまだ強いのに、南側の浮標へ寄る泡だけが途中から速度を落としている。島陰の手前で、流れが弱くなっている。
「南側です。あの浮標の手前から、流れが弱くなっています」
澪が全員を見渡した。
「第三ピリオドから渚を入れる。凪は岸から見ろ」
「私がですか?」
「渚がどこで流れを拾うか、お前に見てもらう」
渚が頷いた。いつもより静かな頷きだった。
「芽衣と遥香は今日は見ていろ。自分が出たらどう動くか、考えながら見ること」
芽衣は試合区画へ目を向け、遥香もその隣で浮標の並びを追った。
開始の笛と同時に五人が海へ入り、胸まで水が上がったところで凪の肩が一度強張った。それでも視線は南側の浮標から外さない。
中央では小早川が潮核へ出た。花も同じ球へ向かったが、一掻きするたびに二人の肩の位置がずれ、小早川の手が先に伸びていく。
去年と同じ速さだった。
小早川はそのまま中央の潮核を掴み、南側の浮標との距離が開いていく。
あそこまでは来ない。
凪は花たちから距離を取り、その浮標の手前で泡の速度が落ちる場所へ身体を向けた。
陽の右手がBパターンの合図を出すと、花が浅い側へ切った。正面にいた常水館の二人も一拍遅れてそちらへ寄り、その隙に花が潮核へ先に入って、拾った瞬間にゼッケンが赤く光る。
左右から二人が距離を詰め、右から伸びた手が花の肩口のゼッケンへ触れた。
一秒。
花は浅い流れへ足を残したまま身体を前へ運び、相手の肩ごと半身ずつゴール側へ押していく。正面からもう一人が入っても、腰は浮かない。
二秒。
花が身体を沈めると肩口に残っていた指が滑り、そのまま白いゴール枠へ潮核を押し込んだ。ブザーが鳴った。
凪が水面へ戻ると、岸の得点板は0対1に変わっていた。
「やったん!」
結の声が水面まで飛んできた。
残る三つでは得点が動かず、0対1で第一ピリオド終了の笛が鳴った。
五分後、第二ピリオドが始まり、陽の右手がBパターンの合図を出すと、花は浅い側へ切った。けれどほとんど同時に小早川も身体を返し、もう一人も陽のサインが形になる前から潮核の先へ寄っている。
さっきまであった一拍が、消えていた。
Bまで読まれた。
凪は陽の手を待たず、澪の位置を探した。澪の先、南側の浮標手前では、去年と同じように泡の速度が落ちていたが、干潮が近づくにつれてその場所は浮標側へ少しずつ寄っている。
凪が南側の浮標手前へ切るたび、常水館の一人も同じ角度で寄ってきた。二度目には凪と浮標の間へ先回りされ、胸の奥も苦しくなり始めた。
ここで浮けば、南側の浮標手前が空く。
凪は息継ぎへ上がらず、浮標手前に残った。陽が拾った潮核を浅く凪へ流すと、相手がさらに寄り、そのぶん澪の前が空く。澪の位置を確かめ、受けた潮核をその前へ浅く流した。澪が受け取ってゴールへ身体を返したところで、左から伸びた手が胸元のゼッケンへ触れる。
一秒。
正面にももう一人が入り、澪が潮核を腹の下へ沈めたその先を追おうとしたところで、凪の胸がもう一度強く縮んだ。
無理だ。
水を蹴って浮上し、顔を出した瞬間に大きく息を吸うと、ゴール側からブザーが鳴った。
凪が振り返ると、岸の得点板が1対1に変わっていた。
入れられた。
その後は残る三つの潮核でも得点が動かず、1対1のまま第二ピリオド終了の笛が鳴った。
五分のインターバルに入ると、澪が渚の前に立った。
「渚、行けるか」
「行けます」
「凪の代わりじゃ。この流れは、経験した方が早い」
渚が凪を見た。
「先輩、何が見えてますか」
「南側の浮標手前に溜まってる泡が、少しずつ西へほどけ始めてます。干潮が近いから、もう少ししたら、あそこで止まってる水も動きます」
「止まってる水が?」
「はい。動き出す瞬間に、潮核もそっちへ流れます」
渚が水面を見た。しばらく、ただ見ていた。
「なんとなく、分かる気がします」
去年の自分が言いそうな言葉だった。
第三ピリオドから凪は岸へ上がった。濡れた手袋を外している横で、渚は海へ入り、開始位置まで迷わず泳いでいった。
笛が鳴ると、岸からでも水面近くを泳ぐ花と陽は追えた。けれど澪が深く潜るほど、身体の輪郭は瀬戸内の青緑の中へ溶け、光っていない選手は思っていたより早く見失った。
渚は浅い層を何度も行き来し、常水館の選手と肩がぶつかるたびに進路をずらされていた。
陽の左手が上がると、花たちの身体が左へ流れた。少し離れた水面では、結も同じ方向を指している。
渚だけが、右へ行った。
凪の手が止まる。陽のサインが遅れたわけではなく、右側の泡にもまだ変化は出ていない。
早い。
渚が一度水面へ顔を出した。
「渚、早い! まだ!」
結が左を指す。渚は息を吸いながら一瞬そちらを見たが、次に潜るとまた右へ身体を返した。
その一秒後、右側に固まっていた泡がほどけ始め、止まっていた潮核も渚が向かった側へ動き出した。結の声に一度顔を出したぶん、常水館の選手も潮核との間へ入ってきたが、渚は身体を返して速度を落とさず、その外側から先へ回り込む。
少し離れたところでは澪が南側の浮標へ切り、小早川も後ろについた。
水面の反射に渚の姿が隠れた次の瞬間、その下でゼッケンが赤く光った。
本番で初めて見る、渚の光だった。
常水館の選手が距離を詰める中で渚の赤い光が消れ、数秒後、少し離れた場所で今度は澪のゼッケンが点いた。
その光がゴール側へ沈み、ブザーが鳴った。
ブザーのあとも残る三つでは得点が動かず、1対2のまま第三ピリオド終了の笛が鳴った。
水面に上がった渚が、凪を見た。
「深すぎました」
「うん。でも、感じてたでしょ」
渚の口元が少し動いた。
「感じてました」
五分後、第四ピリオド開始の笛が鳴ると、凪は岸から水面を追った。小早川の速度は落ちず、水面へ浮いて息を入れたあと、もう一度潜るたびに花より半身前へ出てくる。
花も追うが、一掻きごとに二人の間へ水面の光が増えていき、先に出た小早川の青いゼッケンがそのままゴール側へ沈んだ。ブザーが鳴る。
岸の得点板が2対2へ変わった。
その後の二つでは得点が動かず、最後の潮核だけが南側の浮標手前でゆっくり揺れていた。
澪と小早川が同時に潮核へ向かったが、小早川の肩が先に出た。
澪は途中で南側へ進路を変えた。小早川もすぐ後ろへつき、二人が潮核から離れたころ、近くに残っていた花が一度水面へ顔を出した。
「花、そこ!」
結の声に凪が潮核へ目を戻すと、花はすぐ潜り、その前へ入っていく。澪が小早川を南側へ引きつけている間に、浮標脇へ溜まっていた泡が西へほどけ、最後の潮核もゆっくり動き始めた。
花が先に拾ってゼッケンが赤く光ると、南へ離れていた小早川もすぐ身体を返し、一掻きごとに花との距離を詰め、右後ろから追いついて肩口のゼッケンへ手を残した。
一秒。
正面にも常水館の一人が入る。横へ逃げればゴールから離れるが、花は進路を変えなかった。
花は逃げなかった。
二人に挟まれても赤いゼッケンは止まらず、三人の身体ごとゴール側へ半身ずつずれていく。
二秒。
花の赤い光が深い方へ沈み、すぐ後ろにいた小早川の輪郭も水面の反射の下へ消えた。凪からはもう追えない。
ブザーが鳴った。その直後、試合終了の笛が続いた。
岸の得点板が、2対3に変わった。
「勝ったん!」
結の声が水面で跳ねた。
水面では渚が両腕を上げ、その横で陽が空を仰いでいた。ベンチの芽衣と遥香も拍手を続けている。
澪は全員へ視線を回し、最後に2対3の得点板を見た。
「次も気合入れるぞ」
帰りのフェリーが大崎上島を離れると、船尾の白い航跡が島と島の間へ入るたび横へ崩れていった。凪はデッキからその水を眺め、遠ざかる島影を目で追っていた。
背後で結の声がして振り返ると、結がタオルで髪を拭きながら陽の隣に座っていた。
「今月の新作、ハニーシトラスフラッペ飲みに行かん?」
「オリーブチャイラテ、気になる」
結がタオルを首にかけた。
「あれ、畳の味って言いよったよ」
二人の話を聞いていた芽衣が、陽のスマホをのぞき込んだ。
「鳴門金時マキアート気になっとるんで、私も行きたいです」
結が芽衣の方を見て笑った。
「あー、芽衣ちゃんもそっち系ね」
芽衣が目を丸くした。
「そっち系ですか?」
陽が持っていたメニュー画面を芽衣へ向け、そのまま無言で手を差し出すと、芽衣は画面と陽の手を見比べてから、恐る恐る握った。
「え、これ仲間入りですか」
二人の握手を見て、結が吹き出した。
「たぶん」
凪の隣に、渚が来た。
「今日、ありがとうございました」
「何が?」
「あの時のアドバイス。感じ方、少し分かった気がします」
「渚、潮読みって、学校で習った?」
「習ってないですよ。中学のときから、なんとなく分かるだけで」
どうして分かるの、と聞きかけて、凪はやめた。
自分だって、同じことを聞かれて答えられなかった。
凪が水面へ目を戻すと、フェリーの跡が島陰の手前で少しだけ曲がっていた。隣の渚も同じ航跡を見ていたが、不思議そうな顔はしていなかった。




