第11話 機械の潮
尾道との試合から、二カ月ほど経っていた。
10月の三原港は、静かだった。
夏ほどの観光客はいない。
やっさ祭りの旗も、もうない。フェリー待ちの人影も、夏より少ない。
造船所の音だけが、いつも通り響いていた。
自主練が終わった後、凪は一人で港に残った。
自販機で温かいお茶を買った。いつもの錆びかけた港側の自販機。
ボタンを押すと少しだけ時間がかかる。
取り出し口が、少し冷たくなっていた。
海を見た。10月の瀬戸内。色が夏と全然違う。
暗くて、重くて、澄んでいた。
波が来る。引いていく。
「よ」
振り返ると、能島蒼がいた。ジャージを羽織り、髪が少し湿っている。
「練習しとるん?」
「自主練。能島さんは?」
「うちも。三原の潮、好きじゃけ。たまに来るんよ」
能島が海を見た。
「公式戦、終わったんじゃろ。尾道に負けたって聞いた」
「8対2でした」
「そうか」
能島の声に、それ以上の言葉はなかった。
しばらく二人で、海を見ていた。波の音。フェリーの遠いエンジン音。
能島が凪を見た。
「なんで怖いん、って、前に聞いたじゃろ」
「聞かれました」
「答え、出たん?」
凪は海から目を離さなかった。
「おじいちゃんが、海で亡くなったから」
声に出すと、思ったより静かだった。
能島の視線が、海に戻った。
「私が生まれる前に。だから会ったことがない。でも、漁師だったって聞いてた。この海が好きだった人だって」
造船所の音が、遠くで続いていた。
「怖かったのは、おじいちゃんを奪った海だから。でも、離れられなかったのも、おじいちゃんが愛した海だから」
凪は能島を見た。
「それが、答えです」
波が一つ来て、引いていった。能島は海を見たままだった。
「うちのばあちゃんも、漁師じゃったんよね」
フェリーの汽笛が、沖から届いた。
「海が好きな人の子孫は、海が読めるんかもしれんね」
能島が歩き出した。一度だけ振り返った。
「来年、地区大会で会おうや」
数日後。
五人でバスに乗った。西条まで約1時間。窓の外の景色が変わっていく。
港が消える。海が消える。山が増えてくる。
結は窓の外に目を向けていた。
「海ない」
「当たり前じゃろ。西条は内陸じゃけ」
花が窓に額をつけた。
陽が窓を見ていた。
海がなくなっていく景色から、目を離さなかった。
澪が前の席から振り返った。
「今日は練習試合じゃ。勝ち負けより、屋内の水に慣れろ」
施設に着いた。瀬戸内潮球センター。
中に入ると、別世界だった。
天井が高い。
水の匂いが違う。
塩ではなく、消毒された水の匂いがした。
機械で潮流を再現したフィールド。水が澄んでいて、底まで見えた。
花が立ち止まった。
「なんか、落ち着かん」
結が後ろから追いついた。
「海と全然違う。なんか変な感じ」
陽が水面に触れた。
「流れが、規則的じゃ」
凪も触れてみた。
規則的な流れ。水温が、どこも同じだった。
西条付属のエース・鏡山透が挨拶に来た。
背が高い。穏やかな目をしていた。
「来てくれてありがとう。ここ、使いやすいといいんじゃけど」
花が鏡山を見た。
「正直、落ち着かん」
鏡山が笑った。
「じゃろうね。うちらは毎日ここで練習しとるけん慣れとるけど、海の選手には最初はきついと思う」
「鏡山さんは、海では練習しないんですか」
凪が隣に立った。
「たまに行くよ。じゃけど」
鏡山が天井を見上げた。
「海だと、うちらは弱いと思う。潮が読めんけん」
鏡山が真っ直ぐ凪を見た。
「公式戦は全部海じゃろ。うちらはそこで毎年負ける。でも、ここなら勝てるんよ」
準備に戻る鏡山の背中を、凪は少し見ていた。
試合開始。
機械の潮流。規則的な流れ。一定のリズム。
凪は水中で探した。流れの変化。
水温の差。泡。何もなかった。読もうとするたびに、手がかりが空振りした。
第1ピリオドが終わるまで、凪は一度も流れを掴めなかった。
インターバル。
澪がタオルを肩にかけたまま、凪を見た。
「流れは読めんでも、動きは読める。相手を見ろ」
凪はうなずいた。
次のピリオドから、見る場所を変えた。
水ではなく、相手の肩。足。潮核へ入る角度。
西条付属は速かった。
屋内に慣れた動きで、迷いなく潮核を拾いに来た。
三原中央も止まらなかった。
1対1で拮抗したまま、第3ピリオドが終わった。
第4ピリオド。
最後の潮核が一つ。
凪が潮核に近づいた。
流れが止まった。
潮止まり。
そう判断した瞬間、体が止まった。
自然の海なら、潮核はその手前で溜まる。
何度も見てきた反応だった。
でも潮核は来なかった。
流れが、すぐ再開した。
鏡山が動いていた。
潮核を拾った。ゴールゾーンへ向かった。
迷いがなかった。
最初から、切り替えの後を待っていた。
青い光が、水中枠に沈んだ。ブザーが鳴った。
スコア:西条付属 2-三原中央 1
試合終了の笛が鳴った。
試合が終わった後、鏡山が凪に近づいた。
「さっきの止まり。機械の切り替えを、潮止まりと誤読したんじゃろ」
「そうでした」
「自然の海で練習しとる選手は、だいたいそこで止まる。うちらはそれを知っとるけん、ここでは勝てる」
機械の水音だけが続いた。
「でも、海でやったら、うちら負けとったと思う。あんたらの動き、海の選手の動きじゃった」
鏡山が真っ直ぐ凪を見た。
「来年の公式戦、頑張りんさい」
帰りのバス。
窓の外の景色が逆に流れる。山が消えて、海が戻ってくる。
花が窓にもたれたまま、目を閉じていた。
「負けたけど、なんかすっきりした」
結が隣で頷いた。
「鏡山さん、良い人じゃったね」
凪は手を膝に置いていた。
窓の外に、瀬戸内が戻ってきた。
「……海でやりたい」
陽の声だった。
窓の外を見たままだった。
澪が前の席から振り返った。
「来年の地区大会に向けて準備するぞ」
「陽ちゃん、さっきしゃべったね」
結が少し声を落とした。
陽は窓の方を向いたまま動かなかった。
花の口元が、少しだけ緩んだ。




