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潮球  作者: カミツキ
1年目の海

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10/101

第10話 尾道水道

三原駅のホームに、朝の空気が漂っていた。


 五人で電車に乗った。

 競技用の荷物が、足元で少し揺れていた。


 凪は窓側に座った。電車が動き出す。

 三原の街並みが流れていく。港が見える。練習区画が見える。

 いつも入っている海が、少しずつ遠くなっていく。


 花が窓の外を見たまま、肩を落とした。


「なんか緊張してきた」


 結も花の隣で窓の外を見ていた。


「うちも。ていうか尾道の海、なんか違くない?もう違う気がする」


 澪が前の席から振り返った。


「着いたら、まず海を見ろ。それだけでいい」



尾道駅に着いた。


 改札を出ると、すぐ海だった。

 駅前に出た瞬間、視界が開けた。尾道水道。対岸に向島。

 本州と島の間の細い海峡を、流れが走っていた。


 三原港とは違った。


 水面が、同じ方向に流れていない。

 本州側の波と、向島側の波が、別のものみたいに動いていた。

 フェリーの跡が、途中で折れる。


 凪は立ち止まった。


 結が小さく声を落とした。


「なんか、怖くない?この海」


「うるさい。行くぞ」


 花が歩き出した。

 澪が凪の隣に立った。


「感じるか」


「速い。複数の流れが、ぶつかってる。こんな海、練習したことない」


「読めるか?」


 怖いと思った。

 でも、それより先に体が水道を向いていた。


「やってみます」



試合会場。尾道港の一角。


 審判がボードを掲げる。


 【本日の潮況】

 時刻:11:00

 方向:複合(水道の影響で東西・南北が混在)

 速度:秒速0.6m(強)

 特記:向島との間で流れが分岐

 潮目が常時発生・位置が変動する


 花がボードを見て眉を寄せた。


「複合?」


「水道は複雑じゃ。本州側と島側で流れの向きが違う」


 澪は水道を見た。


「そこがずっと潮目になる」


 対岸に尾道の五人が立っていた。

 全員が、この水道の流れを知っている目をしていた。


 澪が水道から目を離した。


「Cパターンで行く」


 凪は水道を見た。


「凪だけを見るな」


 澪の声が続いた。


「水道を見ろ。味方を見ろ。流れが変わったら、それぞれで動け」


 花が肩を回した。

 結が水面の方を見た。

 陽は何も言わなかった。


「凪」


 澪が少しだけ声を落とした。


「読めたら、先に入れ。合わせられるやつが合わせる」


 凪はうなずいた。



試合開始の笛が鳴った。


 五人が海へ入った。


 尾道が動いた。


 速い、ではなかった。

 止まらない。


 潮目の手前で減速するはずの場所を、尾道の選手はそのまま抜けた。

 凪が泡を追ったときには、もう別の泡の列に乗っていた。


 花が追った。

 角度が合わなかった。


 陽が回り込んだ。

 その前を、青い光が抜けた。


「指す場所がない!」


 結の声が、水面で跳ねた。


 凪は水中で必死に探した。

 速い層の隙間に、遅い層があるはずだった。


 水温。泡。


 見つける前に、尾道が得点した。


 また得点した。


 また。


 第1ピリオド終了。スコア:尾道 3-三原中央 0


 花が水面に上がった。


「速すぎて、何もできんかった」


 澪が凪を見た。


「凪、遅い層は?」


「速い流れの間に、必ずある。でもまだ位置が……」


「次のピリオドで見つけろ。それだけでいい」



第2ピリオド。


 凪が探し続けた。

 水温の変化。泡の向き。流れの揺らぎ。三原の港とは全然違う。

 でも感じ方は同じだった。


(ここだ)


 速い流れと速い流れの、わずかな隙間。


 凪が止まった。


 花と澪が動いた。

 陽が一拍遅れて続いた。結はまだ少し場所を探していた。


 潮核が流れ込んでくる。

 花が拾った。ゼッケンが光った。

 尾道の選手が二人来た。

 三秒カウントが始まった。


 一秒。


 花は止まらなかった。


 二秒。


 進路が塞がった。

 ゼッケンに触れた手が離れなかった。


 凪は、沈める深さを探した。


 浅い。

 いや、深い。


 花の手が、半拍だけ遅れた。


 三秒。


 ゼッケンの光が消えた。

 潮核が浮いた。


 尾道の選手に拾われた。そのままゴールゾーンへ。


 青い光。ブザー。


 スコア:尾道 4-三原中央 0


 結が左を指差した。


「左! そこだけ遅い!」


 凪が動いた。

 別の遅い層へ。


 潮核を拾った。

 ゼッケンが光った。


 深く流した。澪へ。


 澪が受け取った。ゴールゾーンへ。


 赤い光。ブザー。


 スコア:尾道 4-三原中央 1


 尾道は止まらなかった。

 三原中央が流れを掴む前に、また一点を奪う。


 スコア:尾道 5-三原中央 1



第3ピリオド。


 凪が水道の流れを読み続けた。

 速い流れが全部集まって、一点に向かっていく場所。

 誰もまだそこを使っていなかった。


 凪が潮核を拾った。

 その深みへ沈めた。


 尾道の選手が追った。

 でも、追う角度がずれた。

 潮核は、今までとは違う深さを通っていた。


 澪が受け取った。ゴールゾーンへ。


 赤い光。ブザー。


 スコア:尾道 5-三原中央 2


「今のどこ通ったん!?」


 結の指が、水面で止まっていた。


「見えんかった!」


 でも尾道は止まらなかった。



第4ピリオドに入っても、尾道は止まらなかった。


 三原中央が見つけた遅い層の外側を、尾道はもう使っていた。


 水温。


 泡。


 足の裏。


 いつもなら、そこから線が見えた。


 潮核がどこへ行くか、体が先に知っていた。


 でも尾道水道では、線がすぐ切れた。


 光。


 追った先で、別の流れに折れる。


 もう一度追う。


 また。


 青。


 折れる。


 光。


 音。


 そのうち、潮核は流れではなく、ただの色に見えた。


 引き出しが、足りなかった。


 試合終了の笛が鳴った。


 スコア:尾道 8-三原中央 2


 誰も動けなかった。


 花が水面を押さえるようにしていた。

 結が俯いていた。陽は空を向いたまま動かなかった。

 澪だけがスコアボードをまっすぐ見ていた。


 三谷の声が、岸から届いた。


「上がれ」


 岸に上がる。

 足の裏に石畳の硬さが戻った。

 膝が、遅れて震えた。


 タオルを受け取る。


 フェリーの音が、尾道水道の向こうから遅れて届いた。


 澪がタオルを握ったまま、顔を上げた。


「今年は終わりじゃ」


 波の音が、一度だけ響いた。

 花の手が、タオルを握った。


「来年、また出るぞ」


 花が顔を上げた。結が頷いた。

 陽が少しだけ前を向いた。


「当たり前じゃけんな」


 凪は水道を見た。深いところに、まだ流れがあった。



帰りの電車。


 行きと同じ席に座った。誰も窓を見ていなかった。


 電車の音だけが続いた。


 凪は膝の上の手を見た。

 潮の匂いはしないのに、まだ体の奥に水道の流れが残っていた。

 尾道水道の速さだけが、電車の揺れの中でも抜けなかった。


「来々軒、行く?」


 花が窓に額をもたれたまま、目を閉じていた。

 電車の音が続いた。


 結が少し身を起こした。


「行く」


 陽が頷いた。凪が頷いた。


 三原が近づいてきた頃、凪は窓の外を見た。

 いつもの港。いつもの海。


 花が隣で目を閉じていた。手が膝の上でそっと握られていた。


 結が、少しだけ花の方を向いた。


「花、来々軒でなに頼む?」


「チャーシュー麺」


 花は目を閉じたままだった。


「うちもチャーシュー麺にする」


「また?」


「黙って」


 電車が三原駅に滑り込んだ。


 ホームに降りると、潮の匂いがした。

 いつもの匂いだった。


 凪は一度だけ、尾道の方を振り返った。


 ただいま。


 来年、また来る。

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