第101話 あと、一つ
地区大会から三日後。
部室の机に、八体のだるまが並んでいた。赤い顔に、黒い髭。七体は片方の目だけに墨が入り、澪のだるまだけは両目が埋まっている。遥香が持ち上げ、丸い背中をこちらへ向けた。
『自分の代で潮球部を終わらせず継承する』
少し細い字だった。
窓際では、心春と七海が優勝盾の表面を交互に覗いている。優奈はその横で、刻まれた学校名をスマートフォンに撮っていた。
十人分の鞄が、壁際まで並んでいる。遥香は澪のだるまを棚へ戻した。
結が背中を指す。
「願い、見た?」
「今、見ました」
「うちも」
結はもう一度文字を読み、部室を見回した。
「叶っとるね」
棚には優勝盾があり、机に残る七体のだるまは、まだ片方の目を白くしていた。陽が自分のだるまを取る。
「陽からやるん?」
結が横から覗いた。陽はだるまを回す。
『瀬戸内ポーバ制覇』
「潮球、関係ないじゃん」
「瀬戸内」
「場所だけじゃん」
陽はスマートフォンを開き、写真を一枚出した。厳島の店先。手前には、ポーバのカップが写っている。
「宮島も飲んどったん?」
「飲んだ」
「試合前に?」
「前の日」
「知らんかった」
「言ってない」
陽は筆ペンの蓋を外し、空いていた目へ墨を入れた。端から少しだけはみ出したが、直さず蓋を閉める。
「制覇」
「基準が分からん」
陽は両目の入っただるまを、澪の隣へ置いた。凪は右足を伸ばしたまま机へ手を伸ばし、自分のだるまを取る。
『地区大会優勝』
文字は、背中の中央から少し右へずれている。
優勝盾には、同じ六文字が刻まれていた。
凪は二つを見比べてから、筆ペンを受け取り空いていた目へ墨を入れる。丸い目の中に、黒がゆっくり広がった。隣では、渚が自分のだるまを抱えていた。
「渚は何書いとったん?」
花が聞く。渚は背中を向けた。
『凪先輩より先に潮を見つける』
結の顔が凪へ向いた。
「最後のやつ?」
「うん」
「渚の方が先だった」
渚は筆ペンを持ったまま、凪を見た。
「目、入れていいですか」
「自分のだるまじゃん」
「凪先輩に勝ったやつなので」
凪は白い目を見る。
「いいよ」
渚が墨を入れた。最初の線が内側へ寄り、黒い目が少し細くなる。陽は渚のだるまを見た。
「小さい」
「入ってます」
「入ってはいる」
渚はだるまを棚へ置いた。澪、陽、凪の隣で、細い目だけが正面を向く。
芽衣は、自分のだるまを下ろさなかった。片方だけ白い目が、棚から部室を見ている。花が右手を伸ばした。左肩は上げず、棚からだるまを抜く。
「芽衣は?」
「まだです」
「なんで」
花は、壁側を向いていた背中を返した。
『花先輩を追い越す』
花の手が止まる。
「これ?」
「勝手に見んでください」
「棚に置いとったじゃん」
「背中は壁側でした」
花は、だるまを芽衣へ渡した。
「追い越したじゃろ」
「どこをですか」
「うちがおらん間、五人を動かした」
「一人でやってません」
「うちも一人で点取っとらんよ」
「でも」
「芽衣」
花が筆ペンを差し出す。
「追い越された方が言っとるんじゃけ、入れんさい」
花はもう、だるまから手を離している。芽衣は筆ペンを受け取った。すぐには蓋を外さず、背中の文字をもう一度見る。それから、空いていた目へ墨を入れた。
黒が少し薄い。
芽衣は二度なぞる。
「濃すぎん?」
「こっちの方が見えます」
「目じゃけ、見えるよ」
芽衣は蓋を閉め、花のだるまの隣へ置いた。遥香も自分のだるまを取る。
『どの海でも勝てるチームにする』
結が横から読んだ。
「全部の海で勝ったわけじゃないよ?」
「はい」
「入れるん?」
遥香は優勝盾を見る。
厳島北岸では、水面の下に見えていた砂地が沈み、左右に分かれていた潮流が途中でつながった。最初に入った五人と、最後に入った五人も違う。
「最初と最後で、同じ海ではありませんでした」
「一か所じゃん」
「四ピリオドありました」
「そういう数え方?」
「はい」
遥香は迷わず墨を入れた。結が口を曲げる。
「遥香がええなら、ええけど」
「結さんは入れないんですか」
結は棚に残った自分のだるまを取らない。
「うちはまだ」
「何を書いたんですか」
「まだじゃけ、見せん」
結は背中を壁へ向けた。
残ったのは、花と結の二体だった。
花は自分のだるまを鞄へ入れる。
「花は?」
「まだ行くとこあるけん」
芽衣が花の鞄を見る。
「今日ですか」
「うん」
「ついて行きます」
「来んでええよ」
「途中まで一緒です」
「それはいつもじゃろ」
芽衣はもう鞄を持っていた。花は断らず、だるまを入れた方のファスナーを閉める。棚には、結のだるまだけが片方の目を白く残していた。
* * *
墓地へ上がる道には、細い落ち葉が残っていた。
花が踏むたび、乾いた音がする。芽衣は入口の石段で止まった。
「ここで待ってます」
「先帰ってええよ」
「待ってます」
「寒いよ」
「花先輩も寒いじゃないですか」
花は返さず、奥へ歩いた。墓前の花立てには、新しい菊が入っている。風で傾いていた一本を直す。墓石の前へしゃがみ、鞄からだるまを出した。
『優勝してばあちゃんに報告する』
花はスマートフォンに、優勝盾の写真を表示した。
「優勝したよ」
画面を墓石へ向ける。
「ちゃんと、みんなで」
風が吹き、線香の煙が横へ流れた。花は筆ペンの蓋を外す。空いていた目へ墨を入れると、最初の線が少しにじんだ。指で触れず、そのまま乾くのを待つ。
「遅くなったね」
石段の方で、芽衣が一度くしゃみをした。花は両目の入っただるまを抱え、立ち上がった。
* * *
二月。
神明市の通りには、赤いだるまが並んでいた。
小さいものは片手に収まり、大きいものは心春の腰より高い。露店の屋根から下がった札が風で揺れ、通りの奥から焼けた生地の匂いが来る。
三年生はもう部活動へ来ない。
「顔、全部違う」
心春が棚の前から動かない。
「手描きじゃけね」
芽衣が答えた。
「これ、笑っとる」
「全部笑っとるよ」
「こっちはもっと笑っとる」
心春は二体を持ち上げ、交互に見る。七海は下の段から同じ大きさのだるまを三体出し、重さを比べていた。
「これ、軽い」
「中は空洞です」
優奈が底を覗く。
「傾いとる」
「置いたら真っすぐになるじゃろ」
「ならんかったら?」
「棚が傾いとるかも」
「それは直した方がいい」
優奈は別の一体を取った。渚の顔は、通りの向こうへ向いている。
「渚」
遥香が呼ぶ。
「んー? おるよ?」
「離れています。一年生を置いていかないでください」
渚は、はしまきの札から目を離した。
「戻ってくるよ」
「買ってからではなく、今戻ってください」
七海が軽いだるまを抱えたまま笑った。心春は最後まで二体で迷い、最初に持った方を選ぶ。
「こっちにする」
「理由は?」
芽衣が聞いた。
「目が合った」
「まだ片方、白いよ」
「白い方と合った」
七海も一体を決めた。優奈は底が最も平らなものを選ぶ。紙袋に入れた三人分のだるまが、歩くたびに中で小さくぶつかる。
* * *
部室の机に、新聞紙が広げられた。三体の新しいだるまが、その上に並んでいる。
心春、七海、優奈は、それぞれ筆ペンを持っていた。
「背中、見んでね」
心春が言う。
「見ません」
遥香は窓の方を向いた。
芽衣もロッカーへ顔を向ける。
渚だけが、机の反対側へ回ろうとした。
「渚先輩」
七海に呼ばれ、足を止める。
「見ません」
「今、見ようとしたじゃん」
「回ろうとしただけ」
「どこに?」
「窓側」
「窓、逆じゃん」
渚は芽衣の隣へ移動した。新聞紙の上で、筆の先が動く音がした。
心春が先に書き終わる。
七海は途中で一度、だるまを回した。
優奈は最後の一文字まで同じ速さで書いた。
「できた」
三人の声が、少しずれて重なる。遥香が振り返った。だるまの背中は、もう壁側へ向けられている。
何を書いたのかは見えない。
三人は片方の目へ墨を入れた。心春の目は丸く、七海は少し外へはみ出し、優奈の目は縁の中へ収まっている。
「同じ筆なのに違う」
七海がだるまを見比べる。
「そりゃそうじゃろ。書いた人が違うけん」
芽衣が答えた。
新しいだるまを棚へ置くため、渚が古いものを端へ寄せる。澪の隣に、花、陽、凪、渚、遥香、芽衣の両目が並んだ。その中に、一体だけ片方の目を白く残したものがある。遥香は手を伸ばした。丸い背中をこちらへ向ける。
『うちらが名門校になる』
文字は少し右上がりで、最後の「る」だけが大きい。遥香の口元が動いた。
「結さんの字です」
芽衣が隣から見る。
「名門校」
渚は棚の上に置かれた優勝盾へ顔を向けた。
「地区大会、優勝しましたよ」
「一度だけです」
結は、目を入れなかった。優勝盾の隣で、白い目だけが残っている。心春がだるまを覗き込む。
「名門校にするん?」
「はい」
「何回勝ったら?」
七海が聞いた。遥香は結のだるまを見る。
「結さんが、目を入れていいと思うまでです」
「遠くない?」
「遠いですね」
遥香は少し笑った。
「結さんたちが引退しても、私たちの代で終わらせません」
結のだるまを、古いものと新しい三体の間へ戻す。
「遠いところまで行きましょう」
心春が頷いた。
七海も棚を見る。
優奈は新しい三体の位置を揃えた。一体だけ少し前へ出ていたものを押し、底を棚へつける。
十一体。
端まで並べても、隙間はほとんどなかった。
「次、置けんじゃん」
七海が棚の端へ指を差し込む。
芽衣が下の段を叩いた。
「増やせばええんよ」
木の棚が、乾いた音を返した。
* * *
部室を出ると、風が少し弱くなっていた。六人は神明市の紙袋を持ったまま、三原港へ向かった。
岸壁の近くに、一人の少女が立っている。
見覚えのない制服だった。
少女は海を見ていた。波ではなく、その下を見ている目だった。
遥香が足を止める。芽衣たちは数歩先へ進んでから振り返った。少女の視線は、岸壁に沿って流れる泡を追っている。
「何を見ていたんですか」
遥香が声をかけた。少女が振り返る。
「泡です」
もう一度、水面へ顔を向ける。
「さっきから、途中で曲がってるから」
遥香も岸壁の下を見た。細い泡の列が一度止まり、岸に沿って向きを変えている。
数歩先で、芽衣たちは待っていた。
遥香は少女へ向き直る。
「潮球って、知っていますか」




