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名前を呼ばれる場所

朝から空が低かった。

海辺の街特有の、湿った灰色の曇り空。

悠人はアパートの古い鏡の前で立ち止まり、白いマスクを耳へ掛けた。

鏡の中の自分は、相変わらず疲れた顔をしている。

伸びかけた髪。

無精ひげ。

眠れていない目。

マスクをすると、その半分くらいは隠れた。

青年は小さく息を吐き、視線を逸らす。

顔を隠していると、少しだけ楽だった。

誰にも見られていない気がする。

誰にも、“ちゃんと生きていない人間”だと思われずに済む気がした。

悠人は、色褪せた黒いコートを羽織って、静かに部屋を出た。

ポケットの中には、黄緑色の診察券。

駅前から少し離れた雑居ビルの二階。

『汐見メンタルクリニック』

青い文字の看板は、潮風で少し色褪せている。

この街へ来てから紹介された小さな心療内科だった。

待合室は静かだった。

白い壁。

加湿器の蒸気。

小さく流れるピアノ曲。

誰も、他人を見ない。

見ないようにしている。

悠人は受付を済ませ、一番端の椅子へ座った。

膝の上に視線を落とす。

時々、スマートフォンが震えていないか確認する。

けれど通知は来ていなかった。

『波うさぎ』からも。

悠人は小さく息を吐く。

何を期待しているんだと思う。

その時だった。

待合室のドアが静かに開く。

冷たい外気が少しだけ流れ込む。

悠人は無意識に顔を上げた。

小柄な女性が一人、入って来る。

白いマスク。

少し長い髪。

両手で小さなキャリーバッグを抱えていた。

中で、ゴソゴソと何かが動く。

心の病を持った人は動物好きになるらしい。

悠人は視線を止める。

そして、彼女は受付で小さな声を出した。

「予約していた……水島です」

悠人の指先が、ほんの少し止まった。

水島。

聞いたことのない名字だった。

けれど何故か、その響きだけが胸の奥へ静かに残る。

彼女は白いマスクをしていた。

長い髪が肩へ落ち、色褪せた黒いダウンジャケットには細かな雨粒が付いている。

どこか、悠人の着ているものと似た色だった。

両手で抱えた小さなキャリーバッグの中で、何かが跳ねた。

その音に、悠人の視線が自然と向く。

ウサギ。

その瞬間、頭の奥で何かが微かに引っ掛かった。

ストーブの前で丸くなっていた茶色いウサギ。

『今日は風が強いので、モカも外見てばっかり』

スマートフォンの画面越しに見た写真が、不意に浮かぶ。

いや、偶然だ。

ウサギを飼っている人間なんて珍しくない。

この街は、野良猫も多い。

悠人はそう思い直し、視線を落とした。

だが、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。

一方、受付を終えた彼女もまた、静かな待合室へ視線を向けていた。

誰も喋っていない。

加湿器の蒸気だけが白く揺れている。

窓際の老人。

俯いたまま動かない若い女性。

そして、一番端の席に座る男。

白いマスク。

色褪せた黒いコート。

膝の上でスマートフォンを握っている。

それは、心療内科の待合室には、よくいる人達だった。

でも、彼女は、その男を見た瞬間、何故か少しだけ視線を止めた。

見覚えがある気がした。

会ったことなんて、ないはずなのに。

その時、受付の奥から名前が呼ばれる。

「水島さん、どうぞ」彼女は小さく返事をして立ち上がった。

キャリーバッグの中で、猫がまた小さく鳴く。

悠人は思わず顔を上げる。

そのタイミングで、彼女も一瞬だけこちらを見る。

ほんの数秒。

それだけだった。

けれど悠人は、不思議と目を逸らせなかった。

次の瞬間、彼女は静かに診察室へ入って行く。

ドアが閉まる。

小さな音だった。

悠人はしばらく、その閉じられた扉を見つめていた。

胸の奥に残った違和感だけが、静かに揺れていた。


診察室を出る頃には、昼前になっていた。

外はまだ曇っている。

悠人はマスクを少し引き上げながら、クリニックの入った雑居ビルを出た。

ポケットの中には、新しい処方箋。

紙一枚なのに、不思議と重かった。

医師は今日も穏やかな口調だった。

「眠れていますか」

「食事は」

「焦らなくて大丈夫ですから」

毎回、同じような会話。

けれど悠人は、その“同じ”に、少しだけ救われていた。

完全に壊れてはいない。

まだ、ここへ来ている限りは。

雑居ビルの隣には、小さな調剤薬局がある。

白い看板。

曇った自動ドア。

潮風で少し錆びた自転車置き場。

このクリニックへ通う人間は、大体ここへ流れて来る。

店の中は暖房が効いていた。

薬独特の乾いた匂い。

壁際には血圧計。

テレビでは音量を絞った昼の情報番組が流れている。

悠人は受付へ処方箋を出し、番号札を受け取った。

待合の椅子へ座る。

その時だった。

奥のカウンターから、小さな声が聞こえる。

「ありがとうございました」

悠人は何気なく顔を上げる。

白いマスク。

色褪せた黒いダウンジャケット。

両手で薬局の白い袋を抱えた、小柄な女性。

あの水島と言う女性だった。

袋の中には、いくつもの薬袋が入っているのが見えた。

透明なビニール越しに、色とりどりの錠剤シートが重なっている。

彼女は、それを落とさないように抱え込むように持っていた。

まるで、大事な壊れ物みたいに。

悠人の胸の奥が、少しだけざわつく。

自分も同じだった。

眠るための薬。

不安を抑える薬。

頭の奥の波を静かにする薬。

飲まなければ、夜が終わらない。

飲まなければ、朝まで辿り着けない。

生きるためと言うより、

“壊れないため”の薬だった。

その時、薬剤師が悠人の名前を呼ぶ。

「木崎さんー」

青年は小さく肩を揺らし、立ち上がった。

カウンターの上へ並べられる薬袋。

思ったより多い。

白。

薄いピンク。

水色。

一つ一つ説明を受けながら、悠人は曖昧に頷く。

「こちらは就寝前」

「こちらは不安が強い時に」

「こちらは頓服です」

聞き慣れた言葉だった。

薬剤師は慣れた手つきで袋をまとめる。

その瞬間だった。

薬局の自動ドアが開く。

冷たい風が入り込む。

振り返ると、彼女が店を出るところだった。

白い袋を胸の前で抱えたまま、足早に曇り空の街へ消えて行く。

悠人はその背中を、何故かしばらく目で追っていた。

やがて、薬剤師の声が聞こえる。

「お大事にしてくださいね」

悠人は小さく会釈をする。

その言葉が、今日は少しだけ現実味を持って聞こえた。


薬局を出ると、潮の匂いがした。

空は相変わらず灰色だった。

澪は白い薬袋を胸の前で抱え直し、小さく息を吐く。

中には、いつもの薬が入っている。

眠るための薬。

不安を誤魔化す薬。

気持ちが沈み過ぎないようにする薬。

飲まないと、普通の顔が出来なくなる。

飲まないと、人の声だけで苦しくなる日がある。

この街へ来てから、少しは落ち着いた。

けれど、それでも薬は必要だった。

澪は俯きながら、商店街の薄暗いアーケードを歩く。

昼前なのに、人通りは少ない。

魚屋。

古いクリーニング屋。

シャッターの閉まった店。

この街は静かだった。

静か過ぎるくらいに。

その時、不意にさっきの男の姿が頭に浮かぶ。

白いマスク。

色褪せた黒いコート。

どこか疲れた目。

何故か、海を見ている人の目だと思った。

澪は小さく首を振る。

変だと思う。

少し待合室で見かけただけの人なのに。

しかも、あんな場所で。

本当は、誰とも関わらない方がいい。

達也にも言われている。

「ネットの相手なんか、信用すんな」

その通りだと思う。

この世の中には、優しいふりをする人間もいる。

期待すると、ろくなことにならない。

澪は薬袋を抱える指へ、少し力を入れた。

けれど。

『でも、見てると静かになります』

昨夜、凪待ちから送られて来た文章が、不意に浮かぶ。

澪は立ち止まり、小さく空を見上げた。

灰色の雲。

その向こうに、海がある。

もしかしたら。

本当に、近くにいるのかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。

嬉しいのか。

怖いのか。

自分でも、まだ分からなかった。








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