防波堤の風
悠人が通院から帰ったのは昼過ぎだった。
窓の外では、鈍い色の海風が古いアパートを揺らしている。
電気ストーブの前へ座り込み、コンビニの安いカフェオレを飲んでいた。
部屋の中は静かだった。
時々、冷蔵庫のモーター音が鳴る。
ゲージの中では、ユキが丸くなって眠っていた。
その時だった。
玄関のドアが、控えめにノックされる。
悠人は少しだけ肩を揺らした。
時計を見る。
午後二時過ぎ。
誰か来る予定はない。
小さく息を吐き、重い身体を起こす。
ドアを開けると、灰色のコートを着た中年の女性が立っていた。
「こんにちは、木崎さん」
柔らかい声だった。
市役所のケースワーカー、佐伯だった。
五十代くらい。
短い髪。
地味な紺色のバッグ。
この街へ来て、生活保護の手続きをした時から担当になった人だった。
「近く来たので、少し様子見に」
佐伯はそう言って、小さく笑う。
悠人は曖昧に会釈をし、部屋へ通した。
六畳一間。
古い流し台。
薄いカーテン。
押し入れの横へ積まれた薬袋。
佐伯は部屋を見回しながら、慣れた様子で座った。
「体調はどうです?」
「……まぁ、普通です」
悠人は曖昧に答える。
本当は、普通が何かもうよく分からなかった。
眠れない日もある。
逆に、一日中起き上がれない日もある。
何も出来ないまま夕方になることも珍しくなかった。
けれど、佐伯の前ではいつもこう答えていた。
“普通です”
佐伯は責めるでもなく、小さく頷く。
「病院はちゃんと行けてます?」
「はい」
「薬は飲めてる?」
「……一応」
窓の外で、風が鳴る。
しばらく沈黙が続いたあと、佐伯が静かに口を開いた。
「木崎さん、焦る必要はないんですけどね」
悠人は黙ったまま視線を落とす。
こういう前置きの後に来る言葉を、何となく知っていた。
「少しずつ、外へ出る練習みたいなの、してみませんか?」
悠人の指先がわずかに止まる。
佐伯はバッグの中から、一枚のパンフレットを取り出した。
海の写真が印刷された、薄い水色の紙。
『就労継続支援B型事業所 潮風ワーク』
「すぐ働けって話じゃないんです」
佐伯は穏やかに続ける。
「一般の会社みたいに、毎日ちゃんと働かなきゃいけない場所でもないですし」
悠人は黙ったままパンフレットを見る。
そこには、小さな作業室の写真が載っていた。
古本の清掃。
商品の袋詰め。
海岸清掃。
週一回からでも可能。
そんな文字が並んでいる。
「生活リズム作るだけでも違いますからね」
佐伯はそう言って、少しだけ声を柔らかくした。
「木崎さん、ずっと一人で部屋にいるでしょう」
悠人は返事をしなかった。
否定出来なかった。
朝起きて。
海を見て。
コンビニへ行って。
薬を飲んで。
眠れない夜をやり過ごす。
最近の毎日は、それの繰り返しだった。
佐伯は無理に勧める様子もなく、パンフレットを畳の上へ置く。
「見学だけでも大丈夫です」
「合わないと思ったら行かなくていいし」
「ウサギ好きな利用者さん、結構いるみたいですよ」
その言葉に、悠人は少しだけ顔を上げた。
佐伯は小さく笑う。
「この前、木崎さん、ウサギの話してたから」
悠人は曖昧に視線を逸らした。
部屋の隅では、ユキが小さく欠伸をしている。
沈黙。
外では、遠くでカモメの鳴く声が聞こえた。
悠人は畳の上のパンフレットを見つめる。
働く。
その言葉は、まだ少し怖かった。
履歴書。
面接。
落とされ続けた記憶。
ちゃんと出来ない自分。
頭の奥で、嫌な感覚が少しだけ蘇る。
だが。
『週一回からでも可能』
その文字だけが、何故か静かに残った。
夕方になっても、空は晴れなかった。
灰色の雲が低く垂れ込め、海は鈍い鉛色をしている。
澪は温かいペットボトルのお茶を両手で包みながら、防波堤へ腰を下ろしていた。
膝の上に置いたゲージの中で、モカは疲れているのか静かだった。
潮風が強い。
長い髪が何度も頬へ掛かる。
防波堤の下では、白波が黒い岩へ砕けていた。
遠くでカモメが鳴く。
澪はぼんやりと海を見つめる。
昔から、海を見ていると少しだけ呼吸が楽になった。
何も答えないところが良かった。
慰める訳でもない。
励ます訳でもない。
ただ、そこにある。
それだけだった。
ペットボトルから、ほんのり温かさが掌へ伝わる。
澪は膝の上へ視線を落とした。
さっき、薬局で見かけた男の姿が、不意に浮かぶ。
白いマスク。
疲れた目。
色褪せた黒いコート。
どこか、壊れそうな静けさを抱えた人。
何故あんなに気になったのか、自分でも分からない。
ただ。
あの人も、同じように海を見ている気がした。
澪は小さく息を吐く。
「……変なの」
風の中へ呟きが消える。
澪はスマートフォンを取り出す。
開きかけたSNSの画面を、また閉じる。
指先が少し冷えていた。
防波堤の向こうで、冬の海が暗く揺れている。
波の音だけが、静かに続いていた。
澪はその音を聞きながら、ぼんやりと水平線を見つめる。
もしかしたら。
本当に、この街のどこかにいるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
会いたいのか。
会わない方がいいのか。
まだ、自分でも分からなかった。




