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海のある街

夜の海は静かだった。

堤防に腰を下ろした青年は、缶コーヒーを両手で包み込むように持ちながら、黒い海を眺めていた。

寄せては返す波の音だけが聞こえる。

冬の海辺の街は、人の気配が薄い。

生まれ育った街にいた頃は、静かな場所へ行きたいと思っていた。

けれど、本当に静かな場所へ来ると、人は余計なことばかり考えてしまう。

青年は小さく息を吐き、スマートフォンを開いた。

通知はほとんどない。

だが、一件だけ新しい投稿が上がっていた。

『波うさぎ』

彼女だった。

モカがストーブの前で丸くなっている写真。

『今日は風が強いので、モカも外見てばっかり』

短い文章だった。

青年は少しだけ口元を緩める。

そして、写真の隅へ視線を止めた。

小さな薬袋が写っている。

動物病院のものではない。

人間用の薬だった。

青年は何も考えないように、そっと画面を閉じる。

だが、胸の奥に、小さな引っ掛かりだけが残った。

自分も同じだからだった。

海風が強く吹く。

青年は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。

帰る場所はある。

けれど、“帰りたい場所”ではなかった。

古いアパートへ戻る途中、コンビニへ寄る。

安いカップ麺。

半額のおにぎり。

ペットボトルの清涼飲料水。

会計を終え、店を出る。

空には星がほとんどなかった。

アパートへ戻ると、部屋は冷え切っていた。

暖房は、父親がリサイクルショップで買って来てくれた古い電気ストーブだった。

電気代が怖くて、最低限しかつけていない。

狭い部屋だった。

カーテンは薄く、窓際には結露が溜まっている。

ゲージの中では、ユキが雪見だいふくのように丸くなっていた。

青年は上着を着たまま床へ座り込み、コンビニ袋を置いた。

沈黙。

時々、隣の部屋の笑い声が聞こえる。

それが妙に遠かった。

ふと、スマートフォンが震える。

『波うさぎ』からだった。

青年は少し驚いて画面を見る。

『今日は海、荒れてました?』

たったそれだけの文章。

やがて、ゆっくり打ち込む。

『少しだけ』

『でも、昨日より静かでした』

送信したあと、不思議な感覚。

「何故、彼女は、海の事を知ってるんだろ。ここに引っ越した事、まだ、言っていないはずなのに」

青年はスマートフォンを見つめたまま、小さく眉を寄せた。

確かに最近、自分の投稿には海の写真が増えている。

けれど、この街へ来たことは、まだ彼女へ話していない。

そもそも、自分から何かを話すこと自体、ほとんどなかった。

青年は過去の投稿を遡る。

防波堤。

曇り空。

波打ち際。

知らないうちに、この街の景色ばかりになっていた。

「……あ」

小さく声が漏れる。

数日前の投稿だった。

缶コーヒーの写真。

窓ガラスに、ぼんやり海が映り込んでいる。

青年は思わず苦笑した。

隠しているつもりでも、人間は案外、生活が滲み出る。

その時だった。

再び、スマートフォンが震える。

『波うさぎ』

『海、好きなんですか?』

青年はしばらく画面を見つめた。

好き。

そう言われると、よく分からなかった。

海なんて、子供の頃はほとんど見たこともない。

都会で生まれ育ち、毎日、電車と人混みとコンクリートの中で生きて来た。

だから最初、この街へ来た時も、海が綺麗だとは思わなかった。

ただ、広いと思った。

終わりが見えないことだけが、少し楽だった。

青年はゆっくり文字を打つ。

『好きかどうかは分からないです』

少し迷う。

そして。

『でも、見てると静かになります』

送信したあと、青年はスマートフォンを置いた。

部屋の中は寒かった。

電気ストーブの赤い光だけが、小さく揺れている。

その時、また通知が鳴る。

『波うさぎ』

『分かります』

短い文章だった。

それだけなのに、不思議と胸の奥が少し温かくなる。

青年はスマートフォンを手に取ったまま、天井を見上げた。

自分は今、何をしているのだろう。

人と関わらないために、この街へ来たはずだった。

病院の先生にも言われた。

「今は、無理に人間関係を作らなくていいですから」

父親も、

「焦らんでええ」

と言っていた。

それなのに。

彼女からの短い文章を待っている自分がいる。

青年は目を閉じ、小さく息を吐いた。

すると、また通知が鳴る。

『波うさぎ』

『今度、モカの写真ちゃんと送りますね』

その文章を見た瞬間だった。

青年の口元が、ほんの少しだけ緩む。

それが、自分でも少し不思議だった。

誰かから送られて来る、

“次”の約束。

そんなものが、自分の人生にまだ残っていたことが。


青年はスマートフォンを見つめたまま、小さく笑った。

『今度、モカの写真ちゃんと送りますね』

その一文が、妙に嬉しかった。

誰かと、また少し先の話をしている。

それだけのことなのに、不思議と胸の奥が静かになる。

青年はしばらく迷ったあと、ゆっくり文字を打ち込む。

『ありがとうございます』

送信する。

それだけで終わるつもりだった。

だが、指が止まったまま動かなかった。

何かを打とうとして、消す。

また打って、消す。

結局、青年は小さく息を吐いてから、短く送った。

『そういえば』

すぐには返事は来なかった。

部屋の中では、古い冷蔵庫のモーター音だけが鳴っている。

やがて、通知が震えた。

『はい?』

青年は少しだけ緊張しながら画面を見る。

自分でも、何故こんなことで緊張しているのか分からなかった。

『名前』

『本当は何て言うんですか』

送信した瞬間、少し後悔する。

踏み込み過ぎた気がした。

青年はスマートフォンを伏せる。

返事は来ないかもしれない。

そう思った。

数分が過ぎる。

電気ストーブの赤い光が、静かに揺れていた。

やがて、小さく通知音が鳴る。

青年はゆっくりスマートフォンを開いた。

『澪です』

短い文章だった。

その文字を見た瞬間、青年は静かに息を止める。

澪。

海みたいな名前だと思った。

しばらく画面を見つめたあと、青年は小さく打ち込む。

『綺麗な名前ですね』

送信してから、少し恥ずかしくなる。

何を書いているんだと思った。

だが、すぐに返信が届いた。

『ありがとうございます』

『凪待ちさんは?』

青年は、少しだけ迷った。

本名を教えることに抵抗がない訳ではない。

けれど、不思議と彼女には隠し続けるのも違う気がした。

青年はゆっくり文字を打つ。

『悠人です』

送信する。

その瞬間、自分の名前が急に現実味を持った。

“凪待ち”ではない。

病院の受付で呼ばれる名前。

父親に呼ばれる名前。

履歴書に何度も書いて、全部駄目だった名前。

『悠人さん』

返信は、すぐに来た。

たったそれだけ。

なのに、胸の奥が少しだけざわつく。

青年はスマートフォンを見つめたまま動かなかった。

文字なのに。

たった五文字なのに。

誰かに自分の名前を優しく呼ばれた気がした。

一方その頃。

古い借家の布団の中で、澪もまた、スマートフォンを見つめていた。

『悠人です』

その短い文章を、何度も読み返してしまう。

隣の部屋では、達也のいびきが聞こえている。

モカは澪の足元で丸くなっていた。

澪は小さく画面へ触れる。

『悠人さん』

送ったあと、少しだけ後悔した。

急に距離が近くなった気がしたからだった。

“凪待ち”ではなくなる。

海の写真を撮っていた誰かではなく、

本当に存在している男の人になる。

澪はスマートフォンを胸の上へ置き、天井を見上げた。

会わない方がいい。

ちゃんと分かっている。

それでも。

さっきまでより少しだけ、

この冬の夜が静かに思えた。

その時だった。

ふと、澪はもう一度スマートフォンを手に取る。

悠人の投稿を開く。

暗い海。

防波堤。

曇った空。

どの写真にも、人の姿はほとんど写っていない。

まるで世界に一人でいるみたいな海だった。

澪は、その中の一枚で指を止める。

夕暮れの波打ち際。

薄いオレンジ色の空。

静かな海。

どこか、自分が知っている景色に似ていた。

澪は少し迷ってから、メッセージを打つ。

『これ、どこの海ですか?』

送信したあと、小さく息を吐く。

聞かない方がよかった気もした。

もし、本当に近くだったら。

もし、この街だったら。

急に、“凪待ち”が現実へ近づいて来る気がしたからだった。

一方、狭いアパートの部屋で、悠人はその通知を見つめていた。

『これ、どこの海ですか?』

青年の指が止まる。

部屋の中は静かだった。

電気ストーブの赤い光だけが、ぼんやり揺れている。

悠人は窓の外を見る。

暗い海。

昼間、自分がいた防波堤の灯りが遠くに見えた。

答えようと思えば、簡単だった。

この街の名前を書けばいいだけだ。

けれど。

それを書いてしまった瞬間、

何かが変わってしまう気がした。

“凪待ち”ではなくなる。

海の写真を載せている誰かではなく、

本当にこの街で暮らしている人間になる。

悠人はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。

やがて、小さく息を吐く。

そして、静かに文字を打ち込む。

『今、住んでる街の海です』

送信。

その瞬間、自分でも気づかないほど、

胸の奥が少しだけ揺れていた。







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