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冬の帰り道

市場の仕事を終えた頃には、太陽は頭の真上を少し過ぎていた。街の人たちが昼食を終え、午後の仕事に戻り始める時間だった。市場の仕事は朝が早いため、この時間が彼女にとっての定時になる。

もっとも、生活保護を受けているため、働き過ぎると保護費が減額されてしまう。だから、仕事は週に四日ほどに抑えていた。それでも彼女にとっては、精神的にも体力的にも、限界ぎりぎりの労働時間だった。


港から吹き上げる風は冷たかった。

彼女は白い息を吐きながら、海沿いの坂道をゆっくり歩いていた。

手には、薄いスーパーの袋。

値引きされた弁当が二つ。

犬用の餌。

猫用の安い缶詰。

達也の煙草。

袋は歩くたびに、かさり、かさりと小さな音を立てる。

朝から働き続けた足は重かった。

肩も痛い。

それでも、休める場所が家の外にはなかった。

坂の途中で、彼女は足を止めた。

灰色の海が見える。

冬の海だった。

波の向こうには、何もない。

ただ、冷たい空と海が続いているだけだった。

彼女は小さく息を吐く。

帰りたくない。

そう思う。

けれど、帰らない訳にもいかなかった。

古い借家が見えて来る。

外壁は潮風で色が剥げ、玄関灯は何日も前から切れたままだった。

玄関の前まで来た時だった。

ガラス戸の向こうに、小さな影が見える。

茶色のウサギだった。

モカ。

彼女が数年前、ペットショップで売れ残っていたのを引き取ったウサギだ。

モカは、彼女の姿を見ると後ろ足で立ち上がり、ガラス戸を小さく引っかいた。

「……ただいま、モカ」

彼女の口元が、ほんの少しだけ緩む。

家の中で、自分の帰りを待っていてくれるのは、この子だけかもしれない。

扉を開けた瞬間、獣の匂いと煙草の臭いが混ざった空気が流れ出た。

シロが勢いよく足元へ駆け寄って来る。

チャコはストーブの前で丸くなったまま、薄く目だけを開けた。

そしてモカは、ぴょん、と彼女の足元へ飛び跳ねる。

「ごめんね。遅くなったね」

彼女はしゃがみ込み、モカの頭を優しく撫でた。

柔らかい毛だった。

その温かさに触れている間だけ、胸の奥の張りつめたものが少しだけ緩む。

モカは彼女の袖を甘えるように噛む。

腹が減っているのだ。

彼女は苦笑し、小さな皿へペレットを入れた。

モカは夢中で食べ始める。

その姿を見ながら、彼女は少しだけ思う。

人間より、この子たちの方が、ずっと素直だ。

ガチャリ。

奥の部屋の襖が開いた。

達也だった。

髪はぼさぼさで、スウェット姿のまま立っている。

目だけが妙に鋭かった。

「……飯」

低い声だった。

彼女は立ち上がり、冷蔵庫を開けながら答える。

「値引きされとったけん、達ちゃんが好きなハンバーグ弁当、買って来た。今、チンするけん」

達也は何も言わず、壁へ背中を預けた。

壁紙には薄くひびが入っている。

昨日、達也が殴った場所だった。

彼女は視線を逸らし、鍋へ水を入れる。

「今、お味噌汁つくったる」

台所の窓からは、隙間風が入り込んでいた。

寒い。

でも、修理する金はない。

彼女は黙ったまま箸を二つ並べる。

その時だった。

「……今日、あいつ市場に来た」

達也の気配が、わずかに止まる。

「あ?」

「また、金貸せって」

しばらく沈黙が落ちた。

テレビの笑い声だけが、空虚に流れている。

やがて達也は、小さく舌打ちした。

「……またか」

彼女は何も答えなかった。

達也は壁に寄りかかったまま、ぼそりと呟く。

「帰って来る気もないくせに」

怒っているようにも、諦めているようにも聞こえる声だった。

彼女は電子レンジの前へ立つ。

モカが足元へ来て、静かに座っている。

まるで何かを心配するように。

電子音だけが、小さく台所へ響いた。

その時だった。

ポケットの中で、スマートフォンが小さく震える。

彼女の手が止まった。

画面を見る。

クリームソーダの彼からだった。

『今、海を見てました』

短い文章。

それだけだった。

彼女はしばらく、画面を見つめたまま動かなかった。

胸の奥が、少しだけ苦しくなる。

“また、会いたいです”

あの時、自分から送った言葉だった。

クリームソーダを飲みながら話していた時間が、少しだけ楽だったから。

でも、あとから怖くなった。

もし、この家のことを知られたら。

達也のこと。

美咲のこと。

母親のこと。

生活保護のこと。

全部知られたら。

きっと彼は困る。

こんな人間と関わったら駄目だと思うかもしれない。

それに。

自分みたいな人間が、誰かに会いたいなんて思ってはいけない気もしていた。

彼女はスマートフォンを伏せる。

返信はしなかった。

電子レンジが、チン、と小さく鳴る。

その時、達也が不機嫌そうに言った。

「あいつ、次、来たら、ぶっ殺す」

その言葉に、彼女は何も言い返さなかった。

何故なら、彼女も同じ気持ちだったからだ。

それに、余計なことを言えば、達也はまた暴れるかもしれない。

彼女は黙って電子レンジから弁当を取り出す。

窓の外では、冬の風が鳴っていた。

モカは彼女の足元で、小さく丸くなっている。

その温もりだけが、この家の中で唯一、壊れていないもののように思えた。

彼は今頃、どこで何をしているのだろう。

そんなことを考えてしまった自分に、彼女は小さく息を吐く。

会わない方がいい。

ちゃんと分かっていた。

それでも。

消えた画面を、もう一度開きたくなっている自分が、少しだけ嫌だった。





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