灰色の朝
夜明け前の魚市場は、白い息で満ちていた。
空はまだ暗い。
港へ並ぶ漁船の灯りだけが、黒い海へ揺れている。
市場の床は濡れていた。
長靴が歩くたび、水が小さく跳ねる。
彼女は発泡スチロール箱を抱え、無言で通路を歩いていた。
眠い。
身体が重い。
胸の奥に、鉛みたいな疲れが沈んでいる。
でも、止まる訳にはいかなかった。
止まると、色んなことを考えてしまう。
だから彼女は、毎朝こうして身体を動かしていた。
魚を並べる声。
競り人の怒鳴り声。
トラックのエンジン音。
騒がしい場所にいる方が、少しだけ楽だった。
その時だった。
市場の入口に、見慣れた女の姿が見えた。
彼女は思わず目を伏せる。
母親だった。
安っぽい毛皮のコート。
派手な口紅。
少し崩れた化粧。
ヒールの音を鳴らしながら、市場の中へ入って来る。
男のところへ行ったはずなのに。
金が無くなると、時々こうして現れる。
彼女は気づかないふりをして、箱を運び続けた。
でも母親は、まっすぐ彼女の方へ歩いて来る。
「ちょっと」
低い声だった。
彼女は立ち止まらなかった。
母親は後ろから続ける。
「聞こえとるやろ」
周囲の人間たちは、見て見ぬふりをしていた。
市場では珍しい光景じゃない。
誰も口を挟まない。
彼女は小さく息を吐き、ようやく振り返った。
「……何」
母親は周囲を気にするように視線を動かし、小声で言った。
「ちょっと金貸して」
彼女は何も言わなかった。
母親は続ける。
「すぐ返すけん」
その“すぐ”が、一度も返って来たことがないのを彼女は知っていた。
彼女は濡れた床を見つめたまま、小さく言う。
「今月、もう無理」
母親の顔が少しだけ歪む。
「は?」
彼女は黙っていた。
母親は苛立ったように舌打ちする。
「働いとるんやろ?」
彼女の胸の奥が、じわりと冷える。
働いている。
でも、それだけだった。
生活保護も受けている。
薬を飲まないと、朝起き上がれない日もある。
それでも働いているのは、家にいると壊れそうになるからだった。
けれど、そんなことを母親へ説明する気にはなれなかった。
母親は煙草の匂いを漂わせながら近づく。
「親が困っとるのに、冷たいなあ」
その言葉で、彼女の中で何かが少しだけ擦れた。
親。
その言葉を、この人はまだ使うんだ。
彼女はゆっくり顔を上げた。
「……兄貴の達ちゃん、この前また暴れた」
「美咲、もう何日も帰って来てこん」
市場の奥で、誰かが笑っている。
フォークリフトの警告音が響く。
そんな騒がしさの中で、そこだけが静かだった。
母親は少し黙り込み、煙草の匂いを漂わせたまま、小さく聞いた。
「……達也、ちゃんと病院行っとるん?」
「そんなん知らん。やけど、昨日も壁殴っとった。行っとらんかもね。」
彼女は続ける。
「達ちゃんの事も、美咲の学校の事も、シロの餌も、チャコの病院代も、全部こっち」
母親は目を逸らした。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
責めても意味がない。
もう、とっくに分かっていた。
母親は気まずそうに髪をかき上げると、小さく舌打ちした。
「……もうええわ」
そう言って踵を返す。
ヒールの音が、市場の床へ乾いて響いた。
彼女はその背中を見送らなかった。
ただ、静かに箱を持ち上げる。
冷たい発泡スチロールが、指先へ食い込む。
その時、ふと視線の先に、防波堤が見えた。
灰色の海。
防波堤に、小さな人影が座っていた。
目を凝らしてよく見ると、それはクリームソーダの彼だった。
じっと海を見ている。
釣りをしている訳でもない。
ただ、動かずに海を見ていた。
彼女は発泡スチロール箱を抱えたまま、少しだけ視線を向ける。
こんな寒い日に、何してるんだろ。
ふと、そんなことを思った。
彼はこちらに気づいていない。
市場の喧騒から少し離れた場所で、灰色の海を見つめている。
冬の風が吹き抜けた。
彼女は小さく息を吐き、また歩き出す。
止まってしまったら。
きっと、彼に会いたくなると思ったから。




