生きる方へ
冬の海は、今日も灰色だった。
防波堤へ打ち寄せた波が、鈍い音を立てる。
青年は古びたコンクリートの上へ腰を下ろし、ぼんやり海を見つめていた。
潮風は冷たい。
けれど、この街の冷たさには、どこか息苦しさがなかった。
少し離れた魚市場から、人々の声が聞こえてくる。
発泡スチロールを運ぶ音。
フォークリフトのバック音。
魚を並べる威勢のいい声。
青年は、その賑わいを遠くに聞きながら、膝を抱えた。
この街へ来てから、時々こうして防波堤へ座るようになった。
何も考えたくない時、海を見ていると少しだけ呼吸が楽になった。
海を見ていると、不意に、あの日のことを思い出した。
生活保護を受ける。
そう両親へ話した夜のことだった。
外では雨が降っていた。
食卓には、味噌汁の湯気が静かに立っている。
焼き魚。
漬物。
いつもの夕食だった。
けれど青年は、ほとんど箸を動かせなかった。
喉が詰まって、うまく飲み込めない。
母親は何も言わず、ご飯をよそっていた。
父親はテレビを見ている。
ニュースキャスターの声だけが、部屋に流れていた。
青年は何度も口を開きかけて、閉じた。
言わなければ。
でも、言った瞬間、自分は本当に終わる気がした。
“生活保護”
その言葉を口にした途端、もう普通の人生には戻れなくなる気がしていた。
やがて青年は、湯呑みを握ったまま、小さく言った。
「……話がある」
テレビの音だけが流れる。
父親はリモコンを手に取り、静かに電源を切った。
部屋が妙に静かになる。
青年は俯いたまま続けた。
「……海辺の街へ行こうと思う」
母親の手が止まる。
青年は視線を落としたまま言った。
「そこで……生活保護、受ける」
「家族と一緒に住んだままやと、受けられへんみたいやから……」
言った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
もう戻れない。
そんな感覚だった。
母親はしばらく何も言わなかった。
味噌汁の湯気だけが揺れている。
やがて、小さな声で聞いた。
「……体、そんなにしんどいの?」
青年は答えられなかった。
代わりに、小さく頷く。
本当は違った。
身体だけじゃない。
心の方が、もう限界だった。
でも、それを言葉に出来なかった。
父親は腕を組んだまま黙っていた。
怒るかもしれないと思った。
情けないと言われるかもしれないと思った。
働けと言われるかもしれないと思った。
でも父親は、長い沈黙のあと、小さく息を吐いただけだった。
「……そうか」
それだけだった。
青年は思わず顔を上げる。
父親は視線を落としたまま、静かに言う。
「生きとるだけでええ時もある」
青年の喉が小さく震えた。
父親は続ける。
「今は、無理して戻ろうとせんでええ」
母親は俯いたまま、目元を押さえていた。
泣いているのだと分かった。
青年は胸の奥が締めつけられる。
情けなかった。
申し訳なかった。
本当なら、自分が親を安心させる側だったはずなのに。
なのに今、自分は親に生かされようとしている。
その時、母親が小さく言った。
「ちゃんと……ご飯食べるんよ」
その言葉で、青年は何も言えなくなった。
責められるより、ずっと苦しかった。
その夜。
青年は近所の公園へ出た。
雨は止んでいた。
濡れたブランコが、街灯に照らされている。
滑り台の上には、水滴が細かく光っていた。
吐く息は白い。
ベンチには、妹が座っていた。
コンビニで買った缶コーヒーを両手で持っている。
青年は少し離れた場所へ腰を下ろした。
しばらく、お互い何も喋らなかった。
遠くで電車の音が聞こえる。
やがて妹が、小さく言った。
「お母さん、泣いてたね」
青年は黙ったまま頷く。
妹は缶コーヒーを見つめながら続けた。
「でも、お父さんは……ちょっと安心してた気もする」
青年は眉をひそめた。
「安心?」
「うん」
妹は静かに頷いた。
「ちゃんと、“生きる方”選んだからじゃない?」
青年は何も言えなかった。
妹は昔から、時々こういうことを言う。
核心みたいなことを、何でもない顔で。
公園の木々が、夜風に揺れている。
妹はふいに笑った。
「お兄ちゃん、昔から頑張り過ぎるし」
「……そんなことない」
「あるよ」
即答だった。
青年は小さく俯く。
妹は続けた。
「普通ってさ、そんな大事?」
その言葉に、青年はゆっくり顔を上げた。
妹は夜空を見ている。
「みんな、普通っぽい顔してるだけじゃん」
少し笑いながら、そう言った。
青年は小さく息を吐く。
冬の空には、雲の切れ間から少しだけ星が見えていた。
妹は立ち上がり、軽く背伸びをする。
「また、山に行かないでよ。あっ、今度は海だよね。」
冗談みたいな口調だった。
でも、その声は少し震えていた。
青年は思わず笑う。
「……わかった。」
妹も笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、青年は少しだけ救われた気がした。
壊れてしまっても。
普通じゃなくなっても。
それでも、自分の居場所は、まだ少しだけ残っているのかもしれない。
防波堤へ波がぶつかる音で、青年は静かに現実へ戻る。
市場では、働く人々が忙しそうに動いていた。
白い長靴が行き交う。
誰かが笑いながら声を張り上げる。
冬の潮風が、強く吹き抜けた。
青年はコートの襟を押さえながら、小さく目を細める。
この街のどこかで。
彼女も今日、生きている。
ふと、そんなことを思った。
灰色の海を見つめながら、青年は静かにそう考えていた。




