冬の途中
雨の降る午後だった。
玄関の郵便受けが、乾いた音を立てる。
青年はしばらく動かなかった。
布団の上で横になったまま、ぼんやり天井を見つめている。
部屋の隅では、白いウサギが毛布の上で丸くなって眠っていた。
もう何日も、まともに外へ出ていない。
時間の感覚も曖昧だった。
やがて青年は重たい身体を起こし、ゆっくり廊下へ出る。
郵便受けには、白い封筒が一通だけ入っていた。
差出人を見た瞬間、心臓が小さく縮む。
あの海辺の街の福祉事務所。
青年は無意識に唾を飲み込んだ。
少しだけ震える指で封を切る。
中の紙を開く。
『生活保護開始決定通知書』
その文字を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
しばらく意味が理解出来なかった。
許可された。
本当に。
青年は玄関に立ったまま、紙を見つめ続ける。
嬉しいのか。
情けないのか。
安心したのか。
自分でも分からなかった。
ただ、全身から力が抜けていく。
これで生きていける。
少なくとも、すぐには死ななくて済む。
その安堵が、胸の奥へ静かに広がっていく。
けれど同時に、別の感情もあった。
本当に、自分はここまで来てしまったのだ。
国に助けてもらわなければ、生きられない人間になった。
普通じゃなくなった。
その事実が、重たく胸に沈んでいた。
青年はゆっくり部屋へ戻る。
ウサギが目を覚まし、小さく鼻を動かした。
青年はその白い背中を撫でながら、通知書を見つめる。
海辺の街。
あの灰色の海。
静かな漁港。
夕暮れの防波堤。
何故だか、あの街なら息が出来る気がした。
青年は小さく息を吐いた。
そして数日後。
実家の自分の部屋。
段ボール箱がいくつも積まれている。
必要な物と、置いていく物。
その仕分けをしているだけなのに、ひどく疲れた。
部屋の隅では、白いウサギが毛布の上で丸くなっていた。
時々、長い耳だけが小さく動く。
青年は床へ座り込み、開きかけた段ボール箱をぼんやり見つめた。
衣類。
古い本。
薬。
食器。
生活を始める為に必要なものは少ないはずなのに、なぜか荷物は増えていく。
海辺の街へ行けば、本当にやり直せるのだろうか。
そんな考えが、何度も頭を過った。
窓の外では、夕方の雨が静かに降っている。
階下からは夕食の支度をする音が聞こえていた。
包丁の音。
換気扇の低い音。
父親と母親の小さな会話。
その何でもない生活の音が、今の青年には少し遠かった。
押し入れの奥に、古い段ボール箱が残っているのに気づいた。
引っ越してきた時から、ずっとそこにあった気がする。
色褪せたガムテープ。
箱には父親の字で、小さく「書類」とだけ書かれていた。
青年は何気なく箱を引き寄せる。
軽い埃が舞った。
その音に反応したのか、ウサギがゆっくり顔を上げる。
黒い目で青年を見たあと、また安心したように丸くなった。
中には古い封筒や書類が無造作に詰め込まれていた。
生命保険。
年金。
公共料金の明細。
その下に、茶色く変色した封筒が見える。
何となく手に取った瞬間、中から紙が滑り落ちた。
履歴書だった。
父親の名前が書かれている。
写真の中の父親は、今よりずっと若い。
けれど、どこか疲れた目をしていた。
職歴欄には、短い期間の会社名がいくつも並んでいた。
半年。
八か月。
一年。
転職を繰り返している。
青年は少し眉をひそめた。
父親が転職していたことは知っている。
けれど、こんなに何度もだったとは知らなかった。
その下から、別の紙が出てくる。
「退職証明書」
「一身上の都合により――」
似たような紙が何枚もあった。
その時だった。
封筒の奥から、一枚の診断書が見えた。
青年の指が止まる。
白い紙は古く折れ曲がっていた。
病院名。
精神科。
そして、その中央に書かれていた文字。
『抑うつ状態』
一瞬、意味が理解出来なかった。
ゆっくり視線を落とす。
診断日。
それは、自分が小学校へ入学した頃の日付だった。
青年は黙ったまま、もう一枚紙をめくる。
『環境調整及び休養を要する』
『強い不安症状』
『就労困難』
心臓が小さく脈打った。
箱の中には、薬袋まで残っていた。
知らない薬の名前が並んでいる。
その数の多さに、息が詰まりそうになった。
青年はしばらく動けなかった。
雨の音だけが聞こえる。
父親がうつ病だった。
そんなこと、一度も聞いたことがなかった。
記憶の中の父親は、いつも静かな人だった。
怒鳴ることはほとんどない。
成績が悪くても怒らない。
就職してからも、何も言わなかった。
会社を辞めた時ですら、責めなかった。
「少し休め」
ただ、それだけだった。
青年は、ずっと不思議だった。
普通なら、もっと怒ると思っていた。
情けないと思われているはずだと思っていた。
なのに父親は、一度もそう言わなかった。
箱の中の紙を見つめながら、青年はゆっくり思い出していた。
小学生の頃。
夜中、目を覚ますと、台所の電気だけが点いていた。
父親が一人で煙草を吸っていた。
暗い横顔だった。
日曜日、ずっと寝込んでいた時期もあった。
急に仕事を辞めたこともあった。
引っ越しの日。
母親は笑っていたけれど、父親はほとんど喋らなかった。
子供だった青年には、理由なんて分からなかった。
ただ、“大人はそういうもの”なのだと思っていた。
でも違った。
あの頃、父親も壊れていたのだ。
壊れかけながら、それでも働こうとしていた。
家族を養おうとしていた。
何度も転職して。
何度も履歴書を書いて。
上手くいかなくても、また働こうとしていた。
青年は、手の中の古い履歴書を見る。
角が擦り切れている。
何度も鞄へ入れていたのかもしれない。
その時、ふと、自分の姿が重なった。
病院の診断書。
働けなくなった身体。
未来が消えていく感覚。
「普通じゃなくなった」と思った日。
父親も、同じ景色を見ていたのだろうか。
青年は小さく俯いた。
胸の奥が、静かに痛かった。
部屋の隅では、ウサギが毛布から出て来て、青年の足元へ近づいてくる。
そして何も言わず、その足に身体を寄せた。
青年はぼんやりしたまま、その白い背中を撫でる。
父親は、優しかったのではない。
優しくならざるを得なかったのかもしれない。
自分も、一度壊れてしまったから。
自分も、「普通」に戻れなくなる怖さを知っていたから。
その時、階下から父親の声が聞こえた。
「おーい、飯できるぞ」
いつも通りの声だった。
青年は慌てて書類を封筒へ戻した。
けれど、手が少し震えていた。
箱を押し入れへ戻し、立ち上がる。
すると、ウサギが引っ越し用の段ボール箱の隙間へ入り込み、中で小さく丸くなった。
青年は思わず、少しだけ笑う。
「お前も行くんだよ」
そう呟くと、ウサギは静かに鼻を動かした。
襖を閉める直前、もう一度だけ、古びた履歴書が目に入った。
青年はしばらく、その場を動けなかった。
そして小さく息を吐く。
父親もまた、ずっと必死に生き延びてきたのだ。
自分と同じように。
翌朝。
父親の運転する古い軽自動車は、海沿いの国道をゆっくり走っていた。
空は薄い曇り空だった。
窓の向こうには、冬の海が広がっている。
灰色の波が静かに揺れていた。
遠くには、小さな漁船がいくつも浮かんでいる。
防波堤には釣り人の姿が見えた。
潮風に混じって、どこか磯の匂いがする。
助手席で、青年はぼんやり窓の外を見ていた。
父親はハンドルを握ったまま、不器用な調子で言った。
「……酔ってないか」
「大丈夫」
短い返事。
それきり、また車内は静かになった。
カーラジオから、小さく天気予報が流れている。
「午後からは、さらに冷え込むでしょう――」
父親は無言のまま、ワイパーを動かした。
青年は横顔をちらりと見る。
少し白髪が増えていた。
いつの間にか、背中も小さくなった気がする。
昨日見た、古い履歴書の写真を思い出す。
若かった父親。
疲れた目。
何度も書き直された文字。
青年は視線を窓へ戻した。
海沿いの道を、小学生たちが歩いている。
黄色い帽子。
大きなランドセル。
その姿を見ていると、不意に昔の記憶が浮かんだ。
転校した日の朝。
知らない教室。
知らない方言。
うまく笑えなかった自分。
その時の父親も、今みたいな顔をしていたのだろうか。
青年は小さく息を吐く。
やがて車は、古びた商店街へ入った。
昔ながらのアーケード。
魚屋。
乾物屋。
シャッターの閉まった店も多い。
それでも、八百屋の前ではおばあさん達が立ち話をしていた。
商店街のスピーカーから、古い演歌が流れている。
父親が前を見たまま言う。
「……こういう街の方が、お前には合ってるかもしれんな」
青年は少し黙ったあと、小さく答えた。
「……分からない」
父親は小さく頷くだけだった。
責めるでもなく。
励ますでもなく。
ただ、その言葉をそのまま受け取るみたいに。
やがて車は、商店街の端にある小さな不動産屋の前で止まった。
ガラス戸には、色褪せた賃貸情報が並んでいる。
『1K 3万8千円』
『風呂トイレ別』
『高齢者相談可』
手書きの文字が少し傾いていた。
でも、青年にとって一番の魅力は、『ペット可』の一文だった。
それは、ウサギのユキは、その時、彼の唯一の友達だったからだ。
「ユキと一緒に暮らせる。」
青年の心の中に、おぼろげながら新しい生活の風景が見えた。
しかし、敷金、礼金は、保護費から出ない。
父親はエンジンを切る。
「何とか、してやる。心配するな。」
ぽつりと、そう言った父親の横顔を、青年は、涙をこらえて見ていた。
しばらく誰も動かなかった。
静かな車内。
遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。
父親は前を向いたまま、小さく言った。
「……無理はするなよ」
青年は返事をしなかった。
出来なかった。
その代わり、膝の上で拳を小さく握る。
父親は続ける。
「働くとかは……そのあとでええ」
その声は、どこまでも普通だった。
まるで特別なことを言っていないみたいに。
でも青年には分かった。
その言葉が、どれだけ長い時間を通って来たものなのか。
父親もまた、一度、立ち止まった人間だった。
壊れて。
働けなくなって。
それでも、生き延びてきた。
だから今、自分にこう言っている。
“まだ終わりじゃない”と。
青年はゆっくりドアへ手をかけた。
外へ出ると、冷たい潮風が頬に当たる。
商店街の向こうに、冬の海が少しだけ見えていた。
灰色の空の下。
それでも海は、静かに光っていた。




