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止まっていた春

青年は、彼女から来たメッセージを見ながら、昨日のことを思い出していた。

喫茶店を出たあとも、しばらく海沿いの道を歩いていた。

冬の海は灰色で、空との境目が曖昧だった。

潮風は冷たかったが、不思議と嫌ではない。

両手をコートのポケットへ入れたまま、ゆっくり坂道を上っていく。

頭の中では、さっきまでの会話が何度も繰り返されていた。

クリームソーダ。

ウサギの話。

彼女の笑い声。

「寒そう」

そう言いながら笑った横顔。

全部、ほんの少し前の出来事なのに、もう遠い夢みたいだった。

店を出る時、彼女は小さく頭を下げて言った。

「今日は、本当にありがとうございました」

それだけだった。

本当なら、あの時、何か言えたはずなのだ。

“また会いませんか”とか。

たった、それだけ。

けれど、その言葉が喉の奥で引っかかって出てこなかった。

断られたらどうしよう。

困らせたらどうしよう。

もし、自分だけが楽しかったのだとしたら――。

そんな考えばかり浮かんでしまった。

彼女もまた、何も言わなかった。

ただ、マフラーに口元を埋めたまま、少し困ったように笑っていた。

「じゃあ……また」

その“また”が、本当にまたなのか、それともただの挨拶なのか、僕には分からなかった。

彼女は小さく手を振ると、海沿いの坂道を下っていった。

長い髪が潮風に揺れていた。

その後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

そして今――。

暗い部屋の中。

布団の上でスマートフォンを見つめている。

白いウサギが、布団の端で丸くなって眠っていた。

画面には、彼女から届いた短いメッセージ。

『昨日、ありがとうございました』

その文字を静かに目で追う。

そして、その下に続く一文を見た瞬間、呼吸が少し止まった。

『……また会いたいです』

しばらく動けなかった。

海の音だけが、遠くで微かに聞こえている。

あの時、自分が言えなかった言葉。

怖くて、喉の奥へ飲み込んでしまった言葉。

それを彼女の方から送ってきた。

スマートフォンを握ったまま、小さく俯いた。

胸の奥が、じんわり熱い。

まるで凍っていた場所へ、少しずつ春の水が流れ込んでくるみたいだった。


青年は、この街へ来るのは初めてではなかった。

ここで暮らす、数か月前。

青年はニ度、この漁師町を訪れている。

もちろん、彼女には言っていない。

SNSのやり取りの中で、彼女が何気なく口にした地名。

一度目は、本当にただの興味だった。

どんな場所で暮らしているんだろう。

毎日、どんな海を見ているんだろう。

そんな軽い気持ちだったと思う。

けれど本当は、少し違ったのかもしれない。

青年は、どこか逃げられる場所を探していた。

電車を乗り継ぎ、小さな無人駅で降りた。

冬が始まる少し前だった。

改札を出ると、潮の匂いがした。

遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。

駅前には古びた商店と、小さな郵便局しかない。

観光地みたいな派手さは何もなかった。

でも、不思議と落ち着く街だった。

青年は海沿いの道を、あてもなく歩いた。

漁港には何隻もの船が並び、年配の漁師たちが網を片づけていた。

誰かが冗談を言ったのか、笑い声が上がる。

別の男が「おい、ちゃんとやれ」と笑いながら肩を叩く。

その空気に、怒鳴り声の鋭さはなかった。

みんな、ちゃんと疲れている顔をしているのに、どこか穏やかだった。

港の近くでは、小さな食堂のおばちゃんが店先を掃除していた。

通り過ぎた小学生たちが「こんにちはー」と声をかける。

おばちゃんは箒を持ったまま笑顔で手を振っていた。

その光景を見た時、青年は少し驚いた。

こんなふうに笑って働いている人を、ずいぶん長い間見ていなかった気がしたからだ。

都会では、みんな余裕がなかった。

電車の中でも、会社でも、誰もが疲れた顔をしていた。

怒られないように。

置いていかれないように。

壊れないように。

そんなふうに息を殺して生きていた。

青年もそうだった。

けれど、この街の人たちは違って見えた。

上手く言えない。

青年には、ただ、“生きること”が、もう少し人間らしく見えた。

夕方になると、防波堤の向こうへゆっくり夕日が沈んでいく。

オレンジ色に染まった海を見ながら、青年は缶コーヒーを握っていた。

潮風が冷たい。

でも、胸の奥が少しだけ静かだった。

その時、ふと思った。

ここなら、やり直せるかもしれない。

ちゃんと朝を迎えられるかもしれない。

誰かに怯えながらじゃなく、生きられるかもしれない。

もちろん、そんな簡単に人生が変わるわけじゃない。

この街へ来たからって、突然元気になれるわけでもない。

働けなくなった自分が消えるわけでもない。

それでも――。

もう少しだけ、生きてみたいと思った。

その気持ちは、本当に久しぶりだった。

青年は波の音を聞きながら、小さく息を吐いた。


そして、その数週間後。ニ度目。

青年は、この街の福祉事務所の前に立っていた。

曇り空だった。

海から吹いてくる風が冷たい。

古いコンクリートの建物を見上げながら、青年は何度もポケットの中の診断書を握り直していた。

最初に病院で言われたのは、「適応障害」だった。

環境を変えて、ゆっくり休めば良くなるかもしれません。

医者は静かな口調でそう言った。

青年も最初は、そう思っていた。

少し休めば戻れる。

また働けるようになる。

みんなそうやって乗り越えているんだから、自分も大丈夫だと。

けれど、駄目だった。

朝、目が覚めない。

会社を辞めて自分の部屋にいるのに、目は覚めているのに身体が動かなかった。

カーテンの隙間から朝日が差し込むだけで、胸が苦しくなる。

スマートフォンの通知音が鳴るたび、心臓が縮み上がった。

食事もほとんど喉を通らない。

風呂にも入れない日が増えた。

何もしていないのに、ずっと疲れている。

ただ生きているだけで、重たい石を身体に括りつけられているみたいだった。

眠れない夜も続いた。

ようやく眠っても、会社の夢を見る。

怒鳴り声。

パソコンの画面。

終わらない仕事。

夢の中でも謝っていた。

ある日の診察で、医者はカルテを見ながら静かに言った。

「鬱の症状が強くなっていますね」

その瞬間、頭の中が真っ白になった。

うつ病。

テレビやネットでは何度も見た言葉だった。

でも、自分とは関係ないと思っていた。

もっと弱い人がなるものだと思っていた。

本当に駄目な人間がなるものだと。

けれど今、その言葉は自分へ向けられていた。

青年は診察室で、小さく頷くことしか出来なかった。

病院を出たあと、しばらく公園のベンチに座っていた。

人が行き交っている。

みんな普通に歩いている。

普通に働いている。

それなのに、自分だけが世界から落ちてしまったような気がした。

ポケットの中で診断書が折れ曲がる。

うつ病。

その文字を認めた瞬間、本当に人生が終わった気がした。

処方された、大量の薬が入った袋を見つめる。

もう普通には戻れないんじゃないか。

もう働けないんじゃないか。

この先、ずっと家族に迷惑をかけ続けるんじゃないか。

そんな考えばかり浮かんだ。

そして、青年は福祉事務所の前に立っている。

生活保護。

その言葉には、ずっと怖いイメージがあった。

人生から落ちた人間。

普通じゃなくなった人間。

社会からはみ出した人間。

そんなふうに思っていた。

いや、本当は今でも少し思っている。

だから足が動かなかった。

入口の自動ドアの前で立ち尽くしたまま、何分も空を見ていた。

スーツ姿の男が横を通り過ぎる。

買い物袋を下げたおばあさんが、中へ入っていく。

みんな普通に生きている。

ちゃんと働いて。

ちゃんと朝起きて。

ちゃんと社会の中にいる。

それに比べて、自分は何をしているんだろう。

親に金を出してもらって。

逃げるように知らない街へ来て。

今から、国に助けてくださいと言おうとしている。

情けなかった。

惨めだった。

もし昔の自分が見たら、軽蔑するかもしれない。

高校生の頃の僕は、もっと普通だった。

ちゃんと働いて。

ちゃんと結婚して。

普通の大人になると思っていた。

まさか、自分がこんな所で立ち尽くす日が来るなんて、想像もしていなかった。

このことを、父に言えば何と思うだろう。

母は何と思うだろう。

妹は何と思うだろう。

責めもしなかった。

今、以上に情けない息子、情けない兄だと思われるのではないか。

青年はゆっくり目を閉じた。

本当は、まだ怖い。

もし「働けますよね?」と言われたらどうしよう。

怠けていると思われたらどうしよう。

否定されたらどうしよう。

でも――。

もう限界だった。

このまま都会にいたら、多分、本当に死んでしまう。

ロープを握って山へ入った夜のことを思い出す。

暗い森。

湿った土の匂い。

震える手。

死にたいはずなのに、怖くて泣きそうになっていた自分。

あの時から、本当はずっと助けを求めていたのかもしれない。

青年はゆっくり息を吐いた。

そして、小さく震える指で、自動ドアを押した。

機械音と共に、静かに扉が開く。

暖房の匂いがした。

もう後戻りは出来ないと思った。

けれど同時に――。

ほんの少しだけ。

これで、生き延びられるかもしれないとも思っていた。





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