潮風の街
淡い緑色のソーダ。
溶けかけた白いアイス。
赤いさくらんぼ。
冬には少し冷たすぎる飲み物。
でも、その不釣り合いさが、少しだけ子供みたいな時間を与えてくれる。
傷ついた人間が、ほんの少しだけ普通に戻れる時間。
それが、“冬のクリームソーダ”。
海の匂いで目が覚めた。
青年は薄い布団の中でしばらく天井を見つめていた。古いアパートの天井には小さな染みが広がっている。窓の外では、遠くを走る漁船のエンジン音が低く響いていた。
知らない街の朝だった。
けれど、静かだった。
怒鳴り声もない。
電話の着信に怯える必要もない。
「ちゃんと働け」という視線もない。
青年はゆっくりと起き上がると、部屋の隅へ目を向けた。
小さなケージの中で、白いウサギが丸くなって眠っている。
「……おはよう」
声をかけると、ウサギはぴくりと耳を動かした。
青年は少しだけ笑った。
最近、自分が笑ったのはいつだっただろう。
六畳一間の部屋には、最低限の物しかない。小さな冷蔵庫。安いテーブル。段ボール箱。父親が車で運んでくれた荷物は、それだけだった。
故郷を出た日のことを思い出す。
母は玄関で泣いていた。
妹は無理に笑おうとしていた。
父だけが何も言わず、黙って荷物を積み込んでいた。
寡黙な父だった。でも、優しかった。
青年は、その時も「ごめん」が言えなかった。
働けなくなった自分を、家族がどう思っているのか分かっていたからだ。
高校を卒業して入った会社で、毎日のように怒鳴られた。
仕事が遅い。
使えない。
何をやっても駄目だ。
最初は我慢できると思っていた。
けれど、朝になると吐き気がした。電車に乗るだけで息が苦しくなった。夜も眠れなくなり、病院で「適応障害」と診断された。
転職を繰り返した。
それでも駄目だった。
最後には、何も出来なくなった。
ある日、ロープを持って近くの山へ行った。
このまま消えてしまえたら楽だと思った。
けれど――死ねなかった。
怖かったのかもしれない。
それとも、本当は誰かに止めてほしかったのかもしれない。
青年は布団の横に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面には、一件のメッセージが表示されていた。
『今日、仕事終わるの昼過ぎです』
短い文章だった。
その下には、ウサギの写真。
茶色い毛並みの小さなウサギが、座布団の上で丸くなっている。
青年は自然と口元を緩めた。
彼女と知り合ったのは、SNSだった。
動物の写真ばかり投稿している、不思議なアカウント。
最初は、ただウサギの話をするだけだった。
好きな餌のこと。
病院代が高いこと。
換毛期は毛だらけになること。
けれど、少しずつ話すようになった。
眠れない夜のこと。
何も食べられない日のこと。
誰にも言えない苦しさのこと。
彼女もまた、心を壊していた。
青年はスマートフォンを見つめたまま、小さく息を吐いた。
海風が、わずかにカーテンを揺らしている。
今日、彼女と初めて会う。
海辺の古い喫茶店で。
知らない誰かと会うことが、こんなにも怖いのは久しぶりだった。
それなのに、少しだけ会いたいと思っている自分がいた。
その喫茶店は、海沿いの坂道を少し下った場所にあった。
古びた木の看板。潮風で白く曇った窓ガラス。店の前には「COFFEE」と書かれた錆びたプレートが揺れている。
青年は扉の前で立ち止まり、一度だけ深呼吸した。
心臓が妙にうるさい。
逃げようと思えば、まだ逃げられる。
けれど、ポケットの中のスマートフォンには、
『窓際の席にいます』
という彼女からのメッセージが残っていた。
青年は静かに扉を押した。
小さなベルの音が鳴る。
店の奥、窓際の席に、彼女は座っていた。
写真で見た通り、少し猫背で、長い髪を肩に落としている。窓の向こうの海を見ていた彼女は、青年に気づくと小さく頭を下げた。
「あ……どうも」
「……こんにちは」
青年もぎこちなく頭を下げる。
どちらも笑うタイミングが分からない。
青年は向かいの席へ座った。
水屋の上に置かれたラジオから古いフォークソングが流れている。
コーヒーの香りと、微かに混じる潮の匂い。
沈黙が落ちた。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
「……本当に来てくれたんですね」
彼女がぽつりと言った。
「え?」
「なんか……途中で嫌になるかなって」
「いや……それは、僕も思ってました」
彼女が少しだけ笑う。
「ですよね」
青年もつられて笑った。
少しだけ空気が和らぐ。
店の女主人が、水の入ったグラスを置きながらメニューをテーブルへ置いていった。
「ご注文お決まりになりましたら、お呼びください」
静かな声だけを残して、カウンターの方へ戻っていく。
青年はメニューを手に取ったものの、ほとんど文字が頭に入ってこなかった。
久しぶりだった。
誰かと喫茶店にいること自体が。
何を頼めばいいのかさえ分からなくなる。
「あ……何、飲みますか?」
青年はぎこちなく彼女に聞いた。
「え?」
「いや、その……」
彼女は、恥ずかしそうにうつむいた。
メニューを見下ろす。
古い紙のメニューには、
ブレンドコーヒー
カフェオレ
クリームソーダ
レモンスカッシュ
など、昔ながらの喫茶店らしい名前が並んでいる。
「……クリームソーダ、ありますね」
彼女がぽつりと言った。
「はい」
「ちょっと気になります」
「頼みます?」
「いや……でも、一人で頼むのちょっと恥ずかしいです」
青年は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、僕も頼みます」
「えっ」
「一人じゃないなら平気ですよね」
彼女は少し目を丸くして、それから小さく笑った。
「なんですか、それ」
「いや、なんとなく」
青年はメニューで口元を隠すようにしながら言った。
彼女はまだ少し笑っている。
その表情を見て、青年の胸の奥がわずかに軽くなる。
さっきまで感じていた緊張が、少しだけ薄れていた。
「でも、冬にクリームソーダって変ですよね」
「いいんじゃないですか」
「寒そう」
「暖房効いてるし」
「確かに……」
彼女は窓の外の海を見ながら、小さく呟いた。
「なんか、子供の頃みたいですね」
青年はその言葉に、少しだけ視線を止めた。
彼女の横顔は笑っているのに、どこか寂しそうだった。
あの女が近づいてくる。
青年は小さく息を吸った。
「あの……クリームソーダ、二つお願いします」
言い終えると、少女が吹き出した。
「本当に頼んだ」
「言い出したの、そっちですよ」
「でも、なんか可笑しくて」
彼女は肩を震わせながら笑っていた。
その笑い声を聞きながら、青年はふと思った。
この人、ちゃんと笑えるんだな、と。
青年は何を話せばいいのか分からず、クリームソーダが二つ並んだテーブルを見つめた。
すると彼女が、小さな声で言った。
「白い子、元気ですか?」
「あ……はい。朝、めちゃくちゃ走り回ってました」
「かわいい……」
その瞬間だけ、少女の表情が柔らかくなる。
「うちの子、最近ずっと毛が抜けてて」
「換毛期ですか?」
「多分。服、毛だらけです」
「ああ、分かります。コロコロ何本あっても足りないですよね」
少女が吹き出した。
「それです」
青年は少し驚いた。
画面越しではなく、誰かとこうして普通に話したのはいつ以来だろう。
「名前、なんて言うんですか?」
「え?」
「ウサギ」
「あ……ユキです」
「雪みたいだから?」
「単純ですよね」
「いい名前だと思います」
彼女はコップを両手で包みながら言った。
「うちのはモカです。茶色いから」
「それも分かりやすいですね」
「はい」
二人はまた少し笑った。
窓の外では、灰色の海が静かに揺れている。
青年は、その時間が思っていたより落ち着くことに戸惑っていた。
人といるのは苦手だった。
視線も、会話も、沈黙も怖かった。
なのに彼女の前では、不思議と息が詰まらない。
彼女は窓の外を見ながら、小さく言った。
「……私、夜が苦手で」
青年は顔を上げた。
「寝ようとすると、色々考えちゃうんです」
彼女の指先が、コップを持つ手の中で少し震えている。
「分かります」
青年は自然にそう言っていた。
「僕も、朝が来るの怖かったです」
彼女はゆっくり視線を向けた。
その目は、どこか安心したようにも見えた。
「……変ですよね」
「何がですか?」
「初めて会った人なのに、こういう話してるの」
青年は少し考えてから、小さく笑った。
「でも、ウサギ好きに悪い人いない気がするので」
少女は一瞬きょとんとして、それから声を殺して笑った。
その笑い声は、とても静かで、少し寂しそうだった。
暗い事務所だった。
蛍光灯の白い光が、やけに眩しい。
青年はパソコンの前に座り、震える指でキーボードを打っていた。
時計を見る。
午後9時17分。
終わらない。
何度やっても終わらない。
「おい」
背後から声がした。
青年の肩がびくりと震える。
「まだ終わってねぇのか?」
振り返ることが出来なかった。
喉がひりつく。
「……すみません」
「すみませんじゃねぇんだよ お前が 終わらないと俺も帰れなんだよ。」
低い声。
苛立ちを押し殺した声。
「お前さ、何回同じミスしてんの?」
周囲の視線が刺さる。
誰も助けてくれない。
聞こえないふりをしている。
青年はモニターを見つめたまま、何も言えなかった。
「使えねぇな」
その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
使えない。
使えない。
使えない。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
指先が冷たい。
場面が変わる。
朝の駅だった。
人の波が、絶え間なく改札へ吸い込まれていく。
青年はスーツ姿のまま、人混みの端に立ち尽くしていた。
電車のブレーキ音。
アナウンス。
ホームに響く足音。
全部が頭の中で混ざり合っていく。
胸の奥がざわついた。
息が苦しい。
駄目だ。
今日も駄目かもしれない。
青年は俯いたまま、早足で駅のトイレへ向かった。
個室に入り、鍵を閉める。
次の瞬間、堪えていたものが一気に込み上げた。
胃の中はほとんど空だった。
それでも何度も吐いた。
喉が焼ける。
目の奥が熱い。
個室の外では、誰かが何事もないように手を洗っている。
世界は普通に動いている。
なのに自分だけが壊れている気がした。
「……っ……」
青年は便器に手をついたまま、荒い呼吸を繰り返した。
会社へ行かなければならない。
働かなければならない。
ちゃんとしなければならない。
家族に迷惑をかけてはならない。
分かっているのに、身体が動かない。
ネクタイを締めるだけで息が詰まる。
電車に乗るだけで涙が出そうになる。
その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、妹からのメッセージ。
『無理しすぎんでね』
短い文章だった。
青年はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして――。
次の瞬間、青年ははっと目を開けた。
荒い呼吸。
汗で濡れたシャツが肌に張り付いている。
暗い天井。
薄いカーテンの向こうから、わずかに朝の光が差し込んでいた。
「……夢か」
掠れた声が漏れる。
けれど、吐き気だけはまだ身体の奥に残っていた。
青年はゆっくり身体を起こす。
すると、布団の横で白いウサギがこちらを見上げていた。
赤い瞳が静かに揺れている。
青年は小さく笑い、そっとその背中を撫でた。
「大丈夫……今は、もうあそこじゃないから」
けれど、その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
青年は小さく笑い、そっとウサギの背中を撫でた。
「大丈夫……今は、もうあそこじゃないから」
けれど、その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、曇った朝の海がぼんやりと光っている。
青年は重たい身体を引きずるようにして立ち上がり、流し台で水を飲んだ。
まだ少し気分が悪い。
夢の中の吐き気が、身体の奥に残っている気がした。
スマートフォンを見るのも少し怖かった。
昔は、通知音が鳴るたびに心臓が縮み上がった。
会社からの連絡。
上司からの着信。
催促のメール。
未読が増えるほど息が苦しくなった。
青年はしばらく画面を伏せたまま見つめ、それからゆっくり手を伸ばした。
通知が一件。
表示された名前を見た瞬間、青年は少しだけ目を見開いた。
彼女だった。
『昨日、ありがとうございました』
短い文章。
その下に、もう一件続いている。
『……また会いたいです』
青年は、その文字をしばらく見つめていた。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
誰かに「また会いたい」と言われたのは、いつ以来だろう。
しかも、それが嫌じゃなかった。
むしろ――少し嬉しかった。
青年はスマートフォンを握ったまま、窓の外へ視線を向けた。
灰色だった海の向こうに、薄く朝日が差し始めている。
ウサギが足元へやって来て、鼻先で青年のスウェットをつついた。
青年は思わず笑った。
「……どうしような」
呟きながら、もう一度画面を見る。
たった一行のメッセージなのに、不思議と心が落ち着かなかった。
怖いのかもしれない。
また誰かと繋がることが。
期待してしまうことが。
でも、それ以上に――。
もう少し、この人と話してみたいと思っている自分がいた。
青年はゆっくり指を動かした。
『こちらこそ。僕も、また会いたいです』
送信ボタンを押したあと、胸が少しだけ高鳴った。
まるで、止まっていた何かが、静かに動き始めたみたいだった。




