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父と海

春の陽射しがホームへ降り注いでいた。

悠人は駅の改札前でスマートフォンを確認した。

父から届いたメッセージ。

『あと五分で着く』

休日の駅は思ったより人が多い。

行楽地へ向かう家族連れ。

部活動へ向かう学生たち。

そんな人波を眺めながら待っていると、改札の向こうに見慣れた姿が見えた。

いつもの黒いジャンパー姿の父だった。

少し猫背な歩き方も昔と変わらない。

父も悠人に気付いたらしく、小さく手を上げる。

悠人も軽く会釈した。

改札を出てきた父は、照れくさそうに頭を掻く。

「元気そうやな」

「うん なんとか」

それだけの会話だった。

けれど、どこか懐かしい空気が流れる。

父は駅前を見回した。

「とりあえず、何か食うか?」

「うん」

二人は並んで歩き出す。

父の隣を歩くのは久しぶりだった。

春の風が駅前通りを吹き抜けていた。


駅前の食堂は昼時を過ぎていたが、それなりに賑わっていた。

二人は窓際の席へ腰を下ろす。

店員が水を置いていく。

父はメニューを開きながら言った。

「何食う?」

「何でもいいよ」

「そうか」

結局、二人とも焼き魚定食を頼んだ。

料理が来るまでの間、少しだけ沈黙が流れる。

気まずいわけではない。

ただ、父と二人きりで話すのが久しぶりなだけだった。

やがて父が口を開く。

「母さんな」

悠人は顔を上げた。

「だいぶ落ち着いてきた」

その言葉に、胸の奥の力が少し抜ける。

「そうなんだ」

「ああ」

父は頷いた。

「まだ通院は続くけどな」

湯呑みに手を伸ばす。

「先生も順調や言うとる」

悠人は静かに頷いた。

長い冬だった。

本当に長かった。

けれど少しずつ前へ進んでいる。

そんな気がした。

父は続ける。

「それから、佳菜子、看護学校行きたい言うてな」

「うん」

「担任に相談したら、『今の学力じゃ相当頑張らんと難しい』言われたらしい」

「落ち込んでた?」

「いや」

父は首を振る。

「帰ってきたその日に参考書買いに行った」

二人は顔を見合わせて笑った。

その光景が目に浮かぶ。

「佳菜子らしいな」

「ああ」

父も少し笑った。

その時、定食が運ばれてきた。

焼き魚の香ばしい匂いが広がる。

しばらく二人は黙って箸を動かした。

食事をしながら話す。

それは昔から変わらない親子の時間だった。

やがて父が言う。

「お前はどうや」

悠人は少し考えた。

「仕事は続いてる」

「そうか」

「動物カフェ」

父は頷く。

「どんなことしとるんや」

悠人は少しずつ話し始めた。

ウサギやモルモットの世話。

店長のこと。

常連客のこと。

最初は不安だったこと。

今は自然に通えるようになったこと。

父は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。

そして話が終わると、

「そうか」

とだけ言った。

けれど、その声は少し嬉しそうだった。

父は湯呑みを持ち上げる。

そして不意に視線を落とした。

「母さんが入院した頃な」

悠人は顔を上げる。

父はしばらく黙っていた。

言葉を探しているようだった。

「正直、どうしたらええか分からんかった」

珍しく弱音だった。

悠人は何も言わずに聞く。

「母さんが働けんようになったら、どうしようかと 生活保護も考えた。情けない話や」

父は苦笑した。

「そんな時、会社の同僚から年金の繰り上げ受給の話を聞いて それで何とか行けそうや」

そして少しだけ目を細める。

「でも、あの時、お前がおって助かった」

悠人の手が止まる。

「洗濯もしてくれた」

「飯も作ってくれた」

「家のこと、よう手伝ってくれた」

父は照れくさそうに笑った。

「ありがとうな」

悠人は言葉が出なかった。

父から感謝を伝えられたことなど、ほとんどなかった。

胸の奥がじんわり熱くなる。

しばらくしてから、ようやく声を出した。

「僕も」

父が顔を上げる。

「父さんには感謝してる」

父は少し照れたように鼻を鳴らした。

「そうか」

それだけだった。

それで十分だった。

窓の外では春の陽射しが柔らかく街を照らしている。

二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。

言葉は少ない。

それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。


食堂を出た後。

父が駅へ向かおうとした時だった。

「父さん」

悠人が呼び止める。

「ん?」

「見せたいものがあるんだ」

父は少し不思議そうな顔をした。

「見せたいもん?」

「うん」

二人は駅とは反対方向へ歩き始めた。

春の風が港町を吹き抜ける。

やがて辿り着いたのは海だった。

青い海が午後の陽射しを受けて静かに輝いている。

防波堤へ上がる。

父は海を見ながら小さく息を吐いた。

「ええ天気やな」

「うん」

二人は並んで海を眺めた。

波の音だけが聞こえる。

しばらくして。

悠人はポケットへ手を入れた。

小さな布袋を取り出す。

父が首を傾げた。

「何や、それ」

悠人は袋を開く。

中から現れたのは、小さなシーグラスだった。

淡い緑色。

陽射しを受けると、どこか懐かしい色に見える。

父は目を細めた。

「これ、海岸清掃の時に拾ったんだ」

父はガラス片を見つめる。

角はすっかり丸くなっていた。

長い時間を掛けて波に磨かれたのだろう。

悠人は静かに言った。

「子供の頃、お母さんとデパートの食堂で飲んだクリームソーダみたいな色だと思って」

父が少し笑う。

「母さんもよう連れて行っとったな」

悠人はシーグラスを父へ差し出した。

「母さんに渡してほしい」

父は驚いたように顔を上げた。

「母さんに?」

「お守り代わり」

少し照れくさそうに笑う。

父は何も言わなかった。

ただ、その小さなシーグラスを受け取る。

しばらく見つめた後。

「分かった」

とだけ言った。

その声は少し優しかった。

再び二人は海を眺める。

春の海は穏やかだった。

遠くを船がゆっくり進んでいく。

「母さんも喜ぶわ」

父がそう言う。

悠人は少し照れたように笑った。

「なら良かった」

春の風が防波堤を吹き抜ける。

その頃。

防波堤の後ろを通る海沿いの道を、一人の女性が歩いていた。

仕事を終えた澪だった。

市場からの帰り道。

少し疲れたように肩を回しながら歩いている。

空を見上げる。

どこまでも青い春の空だった。

澪は小さく息を吐く。

そして、そのまま海沿いの道を通り過ぎていく。

防波堤の上では悠人と父が海を見ている。

けれど二人は気付かない。

澪もまた気付かない。

ほんの少しだけ離れた場所。

同じ春の海を見ながら。

それぞれの時間が静かに流れていた。

波の音だけが変わらず響いている。

父はシーグラスをポケットへしまった。

「そろそろ帰るか」

「うん」

悠人は最後にもう一度だけ海を見る。

青い海は穏やかだった。

長かった冬が終わろうとしている。

そんな気がした。


駅へ戻る頃には、午後の陽射しが少し傾き始めていた。

休日の駅は相変わらず人が多い。

改札の向こうでは電車を待つ人たちが行き交っている。

二人は改札の前で立ち止まる。

朝に会った時と同じ場所だった。

けれど、不思議と少しだけ違って見えた。

父はポケットへ手を入れる。

そこには、クリームソーダ色のシーグラスが入っていた。

悠人もそれに気付いて、小さく笑う。

「お母さんと佳菜子によろしく」

「ああ」

父は頷いた。

しばらく沈黙が流れる。

何か言おうとして。

けれど、お互いに言葉が見つからない。

そんな時間だった。

やがてホームへ向かう案内放送が流れる。

父は小さく息を吐いた。

「じゃあな」

「うん」

父は改札へ向かう。

数歩進んだところで足を止めた。

そして振り返る。

悠人を見つめる。

昔より少し痩せた顔。

それでも、以前よりずっと穏やかな表情だった。

父は照れくさそうに頭を掻く。

「悠人」

「うん」

父は少しだけ笑った。

「また、帰って来い」

その言葉は静かだった。

けれど、悠人の胸へ真っ直ぐ届く。

この街に来た時は、もう帰ってはいけないと思っていた。

けれど違った。

離れていても。

傷付いていても。

ちゃんと帰れる場所は残っていた。

悠人は小さく頷く。

「うん」

それだけだった。

けれど十分だった。

父も頷く。

そして、改札を通り抜けていく。

悠人はその背中を見送った。

ホームへ向かう階段を上っていく父の姿が人混みの中へ消えていく。

春の陽射しが駅へ差し込んでいた。

悠人はしばらくその場に立ち尽くす。

胸の奥に残っていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。

駅の外には青い空が広がっている。

悠人はその空へ目を向け、小さく息を吐いた。

春は、もうすぐそこまで来ていた。








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