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君に似た目

春の風が少しずつ暖かくなっていた。

動物カフェで働き始めて、一か月ほどが過ぎていた。

悠人は開店前の店内でウサギやモルモットたちの様子を確認していた。

牧草は十分。

水も問題ない。

体調に変わった様子もない。

「木崎さん、本当に動物の扱い上手ですよね」

スタッフの女性が感心したように言う。

「そうですか」

「この子たち、木崎さんにはすぐ懐いてますし」

悠人は少し照れたように笑った。

動物の世話は昔から好きだった。

ユキと暮らしていた時間は、今でも大切な記憶だった。

だから動物たちといる時間は苦にならない。

むしろ落ち着く。

変わったのは別のことだった。

最初の頃は、朝になるたびに不安だった。

本当に行けるだろうか。

途中で具合が悪くならないだろうか。

迷惑を掛けないだろうか。

そんなことばかり考えていた。

けれど今は違う。

気付けば自然に制服へ着替え、電車へ乗り、この店へ来ている。

それが少し不思議だった。

休憩時間。

悠人は窓際の席から店内を見渡した。

平日の昼間。

それでも店内には何人ものお客さんがいた。

猫を撫でながら微笑む女性。

ウサギを見つめる年配の男性。

静かに本を読みながらモルモットのいるスペースで過ごす若い男性。

穏やかな時間が流れている。

その光景を見ていると、ふと初日のことを思い出した。

店長と休憩室で話していた時だった。

店長は店内を見つめながら言った。

「ここに来るお客さんもね」

悠人は顔を上げる。

「傷ついた心を癒しに来ている人が結構いるんですよ」

店長は静かに笑った。

「仕事で疲れたり、人間関係で悩んだり、それから、失恋したり、理由は人それぞれですけどね」

そして店内でくつろぐ人たちを見ながら続けた。

「動物たちは人の心を傷つけませんからね」

その言葉が今も心に残っていた。

動物たちは何も責めない。

何も求めない。

ただ、そこにいる。

だから人は安心できるのかもしれない。

あの日、店長のこの言葉に救われたのは、自分だったのかもしれない。

悠人は窓辺で牧草を食べるウサギを見た。

そして小さく笑う。

癒されているのは、お客さんだけじゃない。

きっと自分も同じだった。

この場所へ来るようになってから。

少しずつ前を向けるようになっていた。


市場の慌ただしさも、ようやく落ち着き始めていた。

朝から並んでいた魚もほとんど売れ、仲買人たちは片付けを始めている。

澪は空になった発泡スチロールの箱を重ねながら小さく息を吐いた。

「澪ちゃん」

不意に声を掛けられる。

振り返ると、近くで片付けをしていた市場の男性が笑っていた。

「何ですか」

「最近、機嫌ええな」

澪の手が止まる。

「は?」

思わず顔をしかめた。

「別に」

「そうか?」

男性は魚を入れていたケースを洗いながら笑う。

「何か前よりよう笑うようになった気がするけどな」

「気のせいやろ」

「ええ男でも、でけたか?」

「アホ!」

澪は箱を抱え直した。

「まあ、ええことや」

そう言って、男性は作業へ戻っていった。

澪は首を傾げる。

そんなに変わっただろうか。

自分では分からなかった。

仕事は相変わらず忙しい。

朝は早いし、疲れる日もある。

それでも。

以前ほど息苦しくない気がしていた。

最後の片付けを終え、澪はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。

何気なく画面を見る。

そこには数日前に届いた写真が残っていた。

黒いウサギが牧草を頬張っている。

『最近、この子が気に入ってます』

悠人からの短いメッセージ。

澪は思わず小さく笑った。

ユキの写真を送ってきていた頃と変わらない。

それが何だか少し嬉しかった。

「元気そうやな」

誰に言うでもなく呟く。

春の風が市場を吹き抜ける。

澪はスマートフォンを見つめたまま空を見上げた。

そういえば。

悠人が働いているところを見たことはない。

それどころか、海辺の喫茶店で会って以来、顔すら見ていない。

どんな顔で仕事をしているのだろう。

動物たちと一緒にいる時は、きっと今みたいに穏やかな顔をしているのかもしれない。

そんなことを考えてしまう。

「何考えとるんやろ、私」

澪は苦笑した。

スマートフォンをポケットへしまう。

そして、少しだけ軽くなった足取りで市場を後にした。

港町の空は、どこまでも青かった。


夕方の陽射しが部屋へ差し込んでいた。

悠人はテーブルの前に座り、スマートフォンを眺めていた。

休みの日になると、何となく動物カフェで撮って投稿した写真を見てしまう。

今日も何気なく画面を開く。

先日投稿した黒いウサギの写真。

窓際で牧草を頬張っている一枚だった。

コメントが一件付いている。

悠人の指が止まった。

投稿者の名前を見る。

澪だった。

『この子の目、誰かに似てませんか』

短い文章。

それだけだった。

悠人は思わず写真を見直した。

黒い毛並み。

丸い目。

少しだけ気の弱そうな表情。

誰かに似ているだろうか。

しばらく考える。

けれど答えは分からなかった。

スマートフォンを持ち直す。

コメントへ返事を書こうとして止まる。

そして、メッセージの画面を開いた。

『あの子の目、誰に似てますか?』

送信。

それだけなのに少し緊張した。

返事はすぐには来なかった。

夕方が過ぎる。

窓の外の空は少しずつ茜色へ変わっていった。

悠人は気にしないようにしながら夕食の準備を始める。

冷蔵庫から、少しばかりの豚肉とキャベツを取り出す。

そして、フライパンに油を引いて炒めだした。

けれど時々、スマートフォンへ視線が向いてしまう。

自分でも苦笑した。

そして、コンロの火を消した頃だった。

テーブルの上で通知音が鳴る。

悠人は手を止めた。

スマートフォンを手に取る。

澪からだった。

短い文章が表示される。

『君です』

悠人は画面を見つめたまま動けなかった。

たった三文字。

それだけなのに胸の奥が少し熱くなる。

思わず黒いウサギの写真を開く。

もう一度見てみる。

丸い目。

少しだけ頼りなさそうな顔。

確かに似ている気もした。

悠人は小さく笑った。

そしてスマートフォンを置く。

何と返せばいいのか分からなかった。

野菜炒めをフライパンから皿に乗せる。

それでも。

『君です』

という言葉だけが頭から離れない。

しばらくして。

悠人は再びスマートフォンを手に取った。

文字を打つ。

消す。

また打つ。

何度か繰り返した後。

ようやく短い文章を送る。

『じゃあ、実物を見に来ませんか?』

送信。

これは、動物カフェの紹介。

きっとそうだ。

そう自分に言い聞かせる。

けれど送った直後。

胸の鼓動が少しだけ速くなっていることに気付いた。

悠人はスマートフォンを見つめた。

少し言い過ぎただろうか。

そんなことを考えながら画面を閉じようとして、ふと手が止まる。

海辺の喫茶店。

窓の向こうに広がる冬の海。

そして。

テーブルの上に置かれていたクリームソーダ。

あの日。

澪は美味しそうにストローをくわえていた。

悠人は思わず小さく笑う。

そういえば。

動物カフェにはクリームソーダがない。

悠人は再びスマートフォンを手に取る。

少し迷う。

わざわざ送ることでもない気がした。

けれど、何となく伝えておきたかった。

文字を打ち込む。

『でも、クリームソーダはないです』

送信。

それだけだった。

送った後、自分でも少しおかしくなる。

何を送っているんだろう。

少しだけ笑ってしまう。

窓の外では夕暮れの色が濃くなっていた。

悠人はスマートフォンを置く。

そして、一人分の野菜炒めが乗った皿をテーブルへ運んだ。














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