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扉の向こう側

市場には威勢の良い声が響いていた。

澪は、トラックから降ろされた発泡スチロールの箱を並べながら小さく息を吐いた。

ふと昨夜のことを思い出す。

仕事を終えて部屋へ戻った後。

スマートフォンに一件のメッセージが届いた。

送り主は悠人だった。

『明日から動物カフェで働くことになりました』

たった一行。

それだけだった。

頑張りますも。

不安ですも。

何も書いていない。

けれど澪には分かった。

その短い文章を送るまでに、どれだけ悩んだのか。

どれだけ勇気を出したのか。

悠人らしいな。

澪は昨夜、『ガンバ』と自分らしくもない応援の言葉を送ったことを思い出して少し照れたように笑った。

「澪ちゃん、ぼーっとしとるぞ」

運転席から声が飛んでくる。

「しとらんし」

澪は慌てて魚を並べ直した。

けれど、その顔には小さな笑みが残っていた。

空を見上げる。

春の青空が広がっている。

今頃。

悠人はどうしているだろう。

無事にアパートから出れただろうか。

無事に着いただろうか。

そんなことを考えてしまう自分に苦笑する。

「よし」

小さく呟く。

悠人が頑張るなら。

自分も頑張ろう。

市場の朝は忙しい。

澪は、魚の入った発泡スチロール箱を持ち上げた。


その頃――。

悠人は動物カフェの前に立っていた。

ガラス張りの扉。

入口の横には小さな看板が置かれている。

店内からは、かすかに動物たちの鳴き声が聞こえてきた。

見学に来た時と同じ場所。

けれど、今日は違う。

今日は見学ではない。

働くんだ。

悠人はリュックの肩紐を握り直した。

胸の鼓動が速い。

手のひらが少し汗ばんでいる。

ここまで来たのに。

扉の向こうへ入るだけなのに。

足が重かった。

もし失敗したら。

迷惑を掛けたら。

途中で体調が悪くなったら。

そんな考えばかりが浮かんでくる。

悠人は小さく息を吐いた。

ガラス越しに店内を見る。

受付の奥ではスタッフが準備をしていた。

動物たちも、それぞれの場所で朝を過ごしている。

ウサギが牧草を食べている。

その姿を見た瞬間。

ふとユキのことを思い出した。

今頃はケージの中で牧草を食べているだろうか。

そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた。

悠人は空を見上げる。

春の青空が広がっている。

そして、ゆっくりと息を吸った。

「よし」

誰に言うでもなく呟く。

もうここまで来た。

あとは進むだけだ。

悠人は扉へ手を伸ばした。

店内へ入る。

動物たちの匂い。

牧草の匂い。

見学の時と同じはずなのに、今日は胸の鼓動が違った。

「おはようございます」

声を掛けられて顔を上げる。

そこには店長の女性が立っていた。

四十代くらいだろうか。

肩の辺りで揃えた黒髪。

優しそうな目元。

猫の刺繡が入ったエプロン。

派手さはない。

けれど、どこか安心させる雰囲気があった。

「お、おはようございます」

悠人は慌てて頭を下げる。

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」

店長はそう言って受付の奥へ案内した。

その日、悠人に任されたのは掃除や餌の準備だった。

ケージを拭く。

水を替える。

牧草を補充する。

動物たちの様子を確認する。

それは、普段通りの慣れた作業ばかりだった。

「やれるかも」

悠人の中に小さな希望が芽生えた。

ウサギたちが牧草を食べる音。

モルモットの小さな鳴き声。

猫たちが気ままに歩く姿。

見ているだけで少し気持ちが落ち着いた。

昼前。

休憩室で水を飲んでいた時だった。

店長が隣へ腰を下ろす。

「どうですか?」

「緊張してます」

正直に答える。

店長は笑った。

「みんな最初はそうですよ」

そして少しだけ声の調子を変えた。

「実はね」

悠人が顔を上げる。

「ここで働いている人の中には、以前、心の病気で仕事に行けなくなった人もいます」

悠人は黙って聞いていた。

「だから無理しなくて大丈夫です」

悠人は思わず目を瞬いた。

店長は笑う。

「木崎さんだけじゃありません」

その一言が胸に残った。

悠人はずっと、自分だけが立ち止まっているような気がしていた。

自分だけが弱いような気がしていた。

けれど違った。

ここには同じように苦しんだ人たちがいる。

同じように迷いながら前へ進んでいる人たちがいる。

それを知っただけで、胸の奥の力が少し抜けた。

午後も仕事は続いた。

小さな失敗もした。

餌の量を間違えたり。

道具の場所が分からなくなったり。

そのたびにスタッフが笑いながら教えてくれる。

「最初はみんなそうですよ」

何度も聞いた言葉だった。

気付けば緊張する暇もなく時間が過ぎていた。

そして、午後2時。

「お疲れさまでした」

店長の声が響く。

悠人は思わず時計を見た。

終わった。

たった、5時間だったが、長かったような。

あっという間だったような。

「初めにしては、なかなか、やるやん!」

店長が笑った。

「はい お疲れ様でした」

店の外へ出る。

昼下がりの風が頬を撫でた。

疲れていた。

それでも。

動物たちに囲まれた幸せな時間だった。

今朝、この扉の前で立ち尽くしていた自分を思い出す。

悠人は小さく笑った。

「よし!」

誰に言うでもなく呟く。

空は少しずつ春の色へ変わり始めていた。


その頃。

市場の慌ただしさもようやく落ち着いていた。

澪は最後の片付けを終え、小さく息を吐く。

「お疲れさん」

「お疲れさまでした」

市場の人たちへ挨拶をして外へ出た。

港町の空は青かった。

春の風がゆっくりと吹いている。

澪はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。

何気なく画面を見る。

通知が一件。

悠人からだった。

澪の指が止まる。

メッセージを開く。

『何とか終わりました』

たったそれだけだった。

短い文章。

けれど、その一行を見た瞬間。

澪の頬がふっと緩んだ。

無事だった。

ちゃんと行けたんだ。

ちゃんと最後まで働けたんだ。

朝から気になっていたものが、胸の奥で静かにほどけていく。

澪は思わず空を見上げた。

春の光が眩しい。

『お疲れさま』

思わず、そう打ち込む。

そして、少し考えて。

『よう頑張ったね』

と付け加えた。

送信。

それだけなのに、何だか嬉しかった。

スマートフォンをポケットへしまう。

港から吹く風が髪を揺らした。

澪は歩き出す。

足取りが軽い。

気付けば、小さく鼻歌を歌っていた。

そして。

誰も見ていない道で、ほんの少しだけスキップをした。

自分でも驚いて思わず笑う。

「何しとるんやろ、私」

そう呟きながらも、笑みは消えなかった。

春の風が吹く。

空はどこまでも青かった。






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