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決断の朝

朝の光が、洗面所の小さな窓から差し込んでいた。

悠人は鏡の前に立っていた。

何度目か分からないくらい、自分の顔を見る。

いつもと変わらない顔。

少し痩せた頬。

短く切った髪。

それでも今日は違って見えた。

動物カフェでの初出勤の日だった。

洗面台に両手をつく。

胸の奥が落ち着かない。

緊張しているのだと、自分でも分かった。

鏡の中の自分が不安そうに見える。

その瞬間。

ふいに過去の記憶が蘇った。

朝の駅。

人混み。

息苦しさ。

ホームへ向かう途中で足が動かなくなったこと。

トイレへ駆け込み、吐いたこと。

震える手で会社へ電話したこと。

「すみません……行けません」

あの日の声。

情けなさ。

悔しさ。

何もかもが胸の奥から蘇る。

悠人は目を閉じた。

ゆっくり息を吐く。

そして蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。

顔を上げる。

鏡の中には、やはり自分がいた。

けれど、あの日の自分ではない。

テーブルの上に置かれた薬を手に取った。

水と一緒に飲み込む。

薬が喉を通る感覚。

それだけで少しだけ気持ちが落ち着いた。

部屋の隅ではユキが牧草を食べている。

しゃく、しゃく、と小さな音。

悠人はケージの前にしゃがみ込んだ。

「今日からや」

ユキの耳がぴくりと動く。

その姿に少しだけ肩の力が抜けた。

悠人は立ち上がる。

使い古したリュックを手に取る。

玄関へ向かう。

靴を履く。

ドアノブに手を掛ける。

ほんの少しだけ躊躇した。

けれど。

ゆっくりと扉を開く。

春の風が頬を撫でた。

悠人は小さく息を吸う。

そしてアパートを後にした。


市場には朝から活気が戻っていた。

威勢の良い声。

魚を並べる音。

発泡スチロールの箱を運ぶ音。

澪は店先で魚を並べていた。

「澪ちゃん、今日は元気やな」

軽トラックから漁師が笑う。

「いつも元気です」

澪は笑いながら答えた。

港から吹く風はまだ少し冷たい。

けれど冬の頃とはどこか違う。

ふと空を見上げる。

青空が広がっていた。

母が味噌汁を作った朝から数日。

達也も少しずつ変わり始めている。

何もかもが解決したわけではない。

それでも。

春は近付いている気がした。

「澪ー!」

店の奥から声が飛ぶ。

「はいはい!」

澪は慌てて振り返る。

そしていつもの仕事へ戻っていった。


駅のホームには朝の人波ができていた。

スーツ姿の会社員。

学生。

買い物へ向かう人。

様々な人が、それぞれの目的地へ向かおうとしている。

悠人はホームの端に立っていた。

足が強張る。

胸の奥がざわつく。

それは、何度も経験した感覚だった。

ホームへ吹き込む風。

電車の到着を知らせるアナウンス。

遠くから聞こえてくる走行音。

その全てが、過去の記憶を呼び起こす。

足が動かなくなった朝。

人混みの中で息ができなくなったこと。

駅のトイレへ駆け込んだこと。

震える指で会社へ電話したこと。

『すみません……』

あの日の声が耳の奥で蘇る。

悠人は無意識に拳を握った。

電車がホームへ滑り込んでくる。

風が吹く。

扉が開く。

乗客が降りる。

そして人の流れが動き始めた。

悠人の足は動かなかった。

心臓の音だけが大きく響く。

怖い。

今でも怖かった。

また途中で駄目になるかもしれない。

また逃げ出すかもしれない。

不安は消えない。

きっと今日も消えない。

それでも。

悠人は小さく息を吸った。

今朝、鏡の前に立った自分を思い出す。

ユキの耳がぴくりと動いたことを思い出す。

母の声を思い出す。

父の声を思い出す。

佳菜子の笑い声を思い出す。

動物カフェで出会った小さな動物たちを思い出す。

そして、澪が言ったあの言葉を思い出す。

『どうしたら幸せになれるのか、それを良く考えて決断をして下さい』

目の前を何人もの人が通り過ぎて行く。

「決断したやろ」

悠人は一歩前へ出た。

続いてもう一歩。

人の流れに混ざる。

電車の扉が目の前にある。

ほんの一瞬だけ躊躇した。

けれど。

悠人は電車へ乗った。

扉が閉まる。

電車がゆっくりと動き出す。

窓の向こうでホームが遠ざかっていく。

悠人は吊り革を握りながら、小さく息を吐いた。

まだ怖かった。

それでも。

今日は、前へ進んでいた。





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