日曜日の朝
朝、スマートフォンの着信音で目を覚ました。
枕元へ手を伸ばす。
画面には動物カフェの名前が表示されていた。
「もしもし……」
寝ぼけた声で応じる。
電話の内容は採用の連絡だった。
悠人は何度も頭を下げながら話を聞き、通話を終える。
とりあえず、週に三日。
体調のことを考慮して勤務時間も短い。
それでも悠人にとっては大きな一歩だった。
しばらく天井を見上げたまま動けなかった。
やがて身体を起こし、壁に掛かったカレンダーへ目を向ける。
日曜日。
街は休日の穏やかな空気に包まれている。
窓の外では、どこかへ出掛ける家族連れの姿が見える。
以前なら、その光景をどこか遠く感じていたかもしれない。
それでも今日は少し違う。
数日後から、新しい仕事が始まる。
悠人はもう一度カレンダーを見た。
春は、少しずつ近付いていた。
スマートフォンの画面を開く。
送り先は佳菜子。
少し迷ってから文字を打ち込む。
『動物カフェで働くことになった』
指が止まる。
それだけでは味気ない気がした。
少し考えて付け加える。
『まだ少しずつやけど』
送信。
画面が静かになる。
悠人は苦笑した。
「報告だけやな」
そう呟いてスマートフォンを置いた。
ケージの中ではユキが牧草を食べていた。
しゃく、しゃく、と小さな音が響く。
悠人は新しい牧草を入れながら苦笑した。
「仕事、決まったわ」
そう言っても、ユキは相変わらず牧草を食べ続けている。
けれど、その穏やかな時間が妙に心地良かった。
窓の外では、静かな日曜日の朝が始まっていた。
その時、通知音が鳴った。
佳菜子からだった。
『ちょっと待って!』
続けてもう一件。
『動画送る!』
「動画?」
悠人が首を傾げた瞬間、一本の動画が届いた。
何だろうと思いながら再生する。
画面が揺れる。
病院の白い天井。
少しぶれた映像。
そして佳菜子の元気な声が響いた。
『さぁ悠人くん!』
悠人は思わず吹き出した。
『本日の主役はこちらです!』
画面がぐるりと回る。
『お母さん登場! ジャンジャーン!』
ベッドの上に座る母が映った。
悠人の目が大きく開く。
母だった。
リハビリ病院の病室。
まだ、少し痩せている。
でも、右目の瞼が、少し開きかけている。
以前よりずっと表情が明るい。
そして――笑っていた。
佳菜子や父からも、少しずつ回復しているとは聞いていたが、その母の姿は想像していたよりもずっと元気そうだった。
『ほら、お母さん』
佳菜子の声。
『言うことあるやろ?』
母は少し照れたように笑う。
言葉を探すように口を動かした。
以前はうまく話せなかった。
言葉が出て来ないことも多かった。
けれど今は違った。
少しゆっくりと。
けれど確かに。
『ゆう、と……』
悠人の呼吸が止まる。
母が自分の名前を呼んだ。
『おめでとう』
母は笑った。
『お仕事……おめでとう』
その瞬間、悠人は画面から目を離せなくなった。
以前、病院で会った時。
母は自分を見ても分からなかった。
まるで他人を見るような目だった。
それが悲しくて。
苦しくて。
何も言えなかった。
けれど今。
母は自分の名前を呼んでいた。
『頑張ったね』
少し言葉はたどたどしい。
それでも。
一言一言が確かだった。
画面の向こうで佳菜子が笑う。
『ちゃんと覚えとるやろ?』
『うん』
母が頷く。
『悠人』
もう一度。
今度ははっきりと。
悠人は唇を噛んだ。
画面が少し揺れる。
その奥には父の姿も映っていた。
相変わらず無愛想な顔。
佳菜子がカメラを向ける。
『お父さんも何か言って!』
『なんでや』
『いいから!』
父は露骨に嫌そうな顔をした。
病室に笑い声が広がる。
やがて父は頭を掻いた。
『……無理だけはするな』
それだけ言う。
佳菜子が不満そうな声を出す。
『短っ!』
『十分やろ』
父はそう言いながら視線を逸らした。
そして小さく付け加える。
『ほんまに良かったな』
病室が少し静かになる。
母が笑う。
佳菜子も笑う。
父も少しだけ笑っていた。
動画はそこで終わった。
部屋の中に静寂が戻る。
悠人はスマートフォンを見つめたまま動けなかった。
胸の奥が熱かった。
何度も再生する。
母の声。
父の声。
佳菜子の笑い声。
何度も。
何度も。
やがて悠人はスマートフォンを胸の上へ置いた。
ケージの中ではユキが牧草を食べている。
しゃく、しゃく、と小さな音。
悠人は目を細めた。
「今度こそ、頑張らんとな」
ユキの耳がぴくりと動く。
それだけだった。
けれどその温かな静けさが、新しい季節の匂いを少しだけ感じさせていた。
澪は、朝の光で目を覚ました。
布団の中でゆっくりと目を開く。
窓の外では、小鳥の鳴き声が聞こえる。
しばらく天井を見つめていた澪は、小さく息を吐いて身体を起こした。
いつもなら早朝から聞こえてくるトラックの音や人の声もない。
港町は、どこかゆっくりとした空気に包まれていた。
日曜日だった。
市場は休み。
そう思った時だった。
ふわりと味噌の香りが漂ってくる。
澪は眉をひそめた。
こんな時間に?
時計を見る。
まだ朝の七時過ぎだった。
母が起きているにしては早い。
不思議に思いながら部屋を出る。
階段を降りると、台所から小さな物音が聞こえていた。
包丁がまな板を叩く音。
鍋の中で何かが煮える音。
その音は、この家ではしばらく聞いていなかった音だった。
澪は思わず足を止めた。
もしかして――。
澪は慌てて隣の部屋へ向かう。
布団の中では美咲が気持ち良さそうに眠っていた。
「美咲!」
肩を揺する。
「んー……」
「起きて! あいつが!」
美咲がうっすら目を開ける。
「あいつ?」
「台所で何か作っとる!」
その言葉に美咲は一瞬だけ眉を動かした。
しかし次の瞬間。
「……バイト……今日は夕方から……」
うわ言のように呟く。
「違うって!」
「あと五分……」
そう言うと、美咲は布団を抱きしめるように丸くなった。
数秒後。
すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえてくる。
「寝た……」
澪は呆然と立ち尽くした。
そしてもう一度、台所の方を見る。
味噌の香りが漂ってくる。
胸が少しだけ騒いだ。
ゆっくりと廊下を歩く。
何だか見てはいけないものを見るような気がした。
台所の入口まで来て足を止める。
そこには母がいた。
パジャマ姿で鍋をかき混ぜている。
朝の光が横顔を照らしていた。
母も澪に気付く。
一瞬だけ目が合った。
少し気まずそうに視線を逸らす。
「……あ」
母は小さく声を漏らした。
そして照れたように頭を掻く。
「珍しく早う目が覚めてな」
鍋の中を見ながら続ける。
「なんや、お腹空いてもうて」
まるで言い訳をするような口調だった。
澪は何も言えなかった。
ただ、その姿を見つめる。
母は少し困ったように笑った。
「味噌汁くらいなら、まだ作れるわ」
鍋から立ち上る湯気が、朝の光の中へゆっくり溶けていった。
澪はしばらく何も言えなかった。
母が台所に立っている。
ただそれだけのことなのに、不思議なくらい胸が熱くなる。
母はそんな澪の視線に気付いたのか、居心地が悪そうに眉をひそめた。
「何や、その顔」
「別に……」
澪は慌てて視線を逸らした。
母は小さく笑う。
そして味噌汁を椀によそう。
その手つきはまだ少しぎこちなかったが、それでも確かに母の手だった。
「達也と美咲は、まだ、寝とるんか?」
「うん 美咲は寝てる 達ちゃんは、わからん」
その時。
玄関の方から犬の鳴き声が聞こえた。
ワンッ。
続いて、猫の鳴き声。
澪は窓の外を見る。
庭では達也がしゃがみ込んでいた。
シロの餌皿へドッグフードを入れている。
足元ではチャコがしきりに身体を擦り付けていた。
「おい、待てって」
達也が苦笑する。
さらにその隣では、モカがケージの中で立ち上がり、鼻をひくひく動かしている。
「お前もか」
達也はそう言いながら牧草を入れた。
モカがすぐに食べ始める。
母も窓の外へ目を向けた。
しばらく無言だった。
やがて小さく呟く。
「達也も、少し顔つき変わったな」
澪は頷いた。
「うん」
本当に少しだけ。
劇的な変化ではない。
けれど以前の達也なら、朝から動物たちの世話をする気力すらなかったかもしれない。
母は静かに味噌汁の椀を並べる。
達也は庭でシロの頭を撫でている。
チャコは足元を歩き回り、モカは牧草をかじっている。
その光景を見ながら、澪は思った。
この家はまだ元通りじゃない。
傷も問題も、何ひとつ消えてはいない。
それでも。
止まっていた時間は、少しずつ動き始めているのかもしれなかった。
その時だった。
二階から足音が聞こえてくる。
ぱたぱた、と慌ただしい音。
そして。
「おはよー……」
美咲が大きな欠伸をしながら台所へ入ってきた。
髪は寝癖だらけ。
まだ半分眠っているような顔だった。
「味噌汁の匂いする……」
そう呟きながら椅子へ座ろうとして――止まる。
母を見る。
味噌汁を見る。
もう一度母を見る。
数秒の沈黙。
「……え?」
美咲の目がゆっくり大きくなる。
「え?」
もう一度。
今度は本気だった。
「あんたが作ったん!?」
母は少し困ったような顔をした。
「そんな驚かんでもええやろ」
「驚くやろ!」
美咲は完全に目が覚めていた。
「何これ!?」
澪が思わず吹き出す。
達也も庭から戻ってきて苦笑した。
母は照れ臭そうに味噌汁をかき混ぜる。
「たまたま早う起きただけや」
「絶対違うやん!」
美咲は椀を覗き込む。
「しかもちゃんと具が入っとる!」
「当たり前やろ」
「すご!」
「何がや」
母は呆れたように言う。
けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。
美咲は椅子へ座る。
澪も座る。
達也も席につく。
窓の外では、シロが尻尾を振っていた。
チャコは縁側で丸くなり、モカは牧草をかじっている。
何でもない日曜日の朝。
けれど、この家には久しぶりに家族の笑い声が響いていた。




