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春を待つ蕾

桜の蕾が、少しずつ膨らみ始めていた。

海から吹く風はまだ冷たかったが、冬の終わりは確かに近付いていた。

悠人は窓の外を眺めながら、小さく息を吐く。

澪からの返信は、もうずっと来ていなかった。

最後に送ったメッセージも既読のまま止まっている。

何度か画面を開いた。

何度か閉じた。

けれど、もう送ることはしなかった。

クリニックや薬局、そして、街角でも、見かけることはなかった。

でも、悠人にとって、澪が同じ街で暮らしていると言う事実だけで十分だった。

いつか、どこかで会えるかもしれない。

そんな小さな希望が、まだ残っていた。


小さな丸いテーブルの向こうで、ケースワーカーの佐伯が書類を整理している。

テーブルの上には、新しく交付された精神障害者福祉手帳が置かれていた。

淡い緑色の表紙。

悠人は、その手帳を何となく見つめる。

まだ自分のものだという実感はなかった。

「木崎さん」

佐伯が書類から顔を上げる。

「少し気になる求人がありまして」

悠人は視線を向けた。

佐伯はクリアファイルを一枚取り出す。

「隣町にある動物カフェです」

悠人は少し眉をひそめた。

「動物カフェ……ですか」

「はい。犬や猫、それからウサギもいます」

その言葉に、悠人の視線がわずかに動く。

部屋の隅では、ユキが牧草を齧っていた。

しゃく、しゃく、と小さな音。

悠人は少し迷ってから言う。

「でも……接客は苦手です」

正直な気持ちだった。

知らない人と話すのは、今でも緊張する。

言葉が詰まることもある。

視線を合わせるのも得意ではない。

佐伯は静かに頷いた。

「分かっています」

そう言って求人票へ指を置く。

「最初から接客ではありません」

悠人は顔を上げる。

「犬や猫、ウサギたちの世話が中心です」

佐伯は穏やかな声で続けた。

「掃除や餌やり、健康管理のお手伝いですね」

窓の外で、風が小さく鳴った。

悠人は求人票へ視線を落とす。

そこには、動物たちの写真が載っていた。

犬。

猫。

そして、小さなウサギ。

悠人の目が、わずかに揺れた。

「一度、見学だけでも行ってみませんか」

部屋の中が静かになる。

悠人は求人票を見つめたまま動かなかった。

写真の中の動物たちは、どれも穏やかな顔をしている。

部屋の隅では、ユキが牧草を食べ続けていた。

「……僕でも、出来ますかね」

ぽつりと漏れた言葉だった。

佐伯は少しだけ笑う。

「だから見学なんです」

悠人は顔を上げる。

「働けるかどうかを決める場所じゃありません」

佐伯は穏やかに続けた。

「どんな場所か見て、無理そうなら断っても大丈夫です」

窓の外で風が鳴る。

桜の枝が小さく揺れていた。

悠人はもう一度、求人票へ目を落とす。

動物たちの写真。

その中の子ウサギ。

不意に、ユキを初めて抱き上げた日のことを思い出した。

小さな体。

温かい鼓動。

怯えた赤い目。

あの日、自分は上手く世話なんて出来ると思っていなかった。

それでも今、ユキはこの部屋で眠り、食べて、生きている。

悠人は小さく息を吐いた。

「……見学だけなら」

佐伯は何も言わない。

急かさず、ただ待っている。

悠人は少し迷ってから続けた。

「行ってみます」

その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ驚いた。

けれど不思議と嫌な気持ちはしなかった。

窓の外では、春を待つ桜の蕾が静かに揺れていた。


佐伯が帰った後、部屋の中は急に静かになった。

冷蔵庫の低い唸り。

窓の外を走る車の音。

悠人はテーブルの上へ置かれた精神障害者福祉手帳と求人票を見つめていた。

動物カフェ。

見学。

頭の中では分かっている。

佐伯は無理をさせようとしているわけではない。

それでも、不安だった。

悠人は小さく息を吐く。

「なぁ、ユキ」

ケージの中では、ユキが前足を揃えて座っていた。

赤い目が静かにこちらを見ている。

悠人は苦笑する。

「どうしたらいい?」

ユキは何も答えない。

ただ鼻をひくひく動かした。

「動物カフェやって」

悠人は求人票を持ち上げる。

写真の中には犬や猫が写っていた。

「犬とか猫とか……」

少し間が空く。

「お前と一緒のウサギもいるらしい」

その瞬間、ユキの耳がぴくりと動いた。

悠人は思わず小さく笑う。

「お前、友達欲しいか?」

もちろん返事はない。

けれど、その沈黙が少し可笑しかった。

しばらくして、悠人は床へ座り込む。

ケージ越しにユキを見つめた。

「正直……怖いんよな。動物だけならええけど、人もおるやろ」

小さな声だった。

誰にも聞かれない声。

「また失敗するかもしれないし」

視線が落ちる。

「続かなかったらどうしようとか……また、迷惑かけるし」

窓の外で風が鳴った。

ユキは静かに牧草を齧り始める。

しゃく、しゃく、と小さな音。

悠人はその音を聞きながら続けた。

「でも」

言葉が止まる。

しばらく考えてから、小さく笑った。

「動物の世話なら、少しだけやってみたい気もする」

ユキが牧草を食べる。

相変わらず何も言わない。

けれど悠人には、その姿が少しだけ頼もしく見えた。

「なぁ」

悠人はケージへ指を伸ばす。

ユキが近付いて来て、指先へ鼻を触れた。

温かかった。

悠人は目を細める。

その温もりは、不思議と少しだけ背中を押してくれる気がした。


初春の陽射しが、古い平屋建て一軒家を照らしていた。

窓の外では、小さな桜の蕾が風に揺れている。

部屋の中では、美咲が鏡の前で難しい顔をしていた。

「……無理だろ」

ぽつりと呟く。

鏡の中の自分を睨む。

口の端を上げてみる。

何か違う。

もう一度やる。

やっぱり違う。

「気持ち悪いな」

美咲は顔をしかめた。

テーブルの上には、スーパーの名札が置かれている。

昨日、店長に言われたのだ。

――そろそろレジも覚えてみる?

その瞬間、美咲は心の中で悲鳴を上げた。

品出しならいい。

段ボール運びもいい。

重い荷物も平気だった。

けれど接客だけは苦手だった。

昔は喧嘩ばかりしていた。

笑顔より先に睨みつける方が得意だった。

相手にガンを飛ばすことは出来ても、愛想よく笑うことは出来ない。

「いらっしゃいませー」

棒読み。

「ありがとうございましたー」

さらに棒読み。

美咲は頭を抱える。

「終わった……」

その様子を、少し離れた場所から澪が見ていた。

思わず、小さく笑う。

久しぶりだった。

こんなふうに誰かを見て自然に笑ったのは。

美咲は気付いて振り返る。

「何や」

「別に」

澪は肩をすくめる。

「ちゃんと頑張ってるなと思って」

美咲は照れ臭そうに顔を逸らした。

「うるさい」

そう言いながら、もう一度鏡を見る。

ぎこちない笑顔。

けれど前より少しだけ柔らかかった。

窓の外では、春を待つ風が静かに吹いていた。

澪はその光景を眺めながら、ほんの少しだけ目を細めた。

美咲は鏡の前で何度も笑顔を作っていた。

口元を引き上げる。

失敗する。

もう一度やる。

また失敗する。

「だから無理なんだって……」

頭を抱えながら呟く姿に、澪は思わず小さく笑った。

「前よりマシ」

「どこがや」

「怖くなくなった」

「それ褒めてる?」

美咲が不満そうに睨む。

その顔が可笑しくて、澪はまた少しだけ笑った。

部屋の中は相変わらずだった。

母は昼過ぎまで眠っている。

達也はいつ帰って来るか分からない。

家の空気は、何も変わっていない。

けれど美咲がいる時だけは、少しだけ息がしやすかった。

一服の清涼剤。

そんな古い言葉が、不意に頭をよぎる。

澪は窓の外へ目を向ける。

春の風が、カーテンを小さく揺らしていた。

その時だった。

不意に、悠人の顔を思い出す。

ぎこちない笑顔。

困ったような表情。

上手く言葉に出来なくて黙り込むところ。

思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

あれから、連絡は取っていない。

取れなかった。

何を送ればいいのか分からなかった。

悠人も何も送って来なかった。

SNSの更新も止まったまま。

でも、澪にとっても、悠人が同じ街で暮らしていると言う事実だけで十分だった。

いつか、どこかで会えるかもしれない。

澪にも、そんな小さな希望が、まだ残っていた。

澪は無意識にスマートフォンを手に取る。

いつもの癖だった。

期待しているわけじゃない。

そう自分へ言い聞かせながら画面を開く。

その瞬間だった。

澪の指が止まる。

新しい投稿が一件、表示されていた。

投稿者の名前は――悠人。

澪は小さく息を呑む。

そこに写っていたのは、見たことのない動物たちだった。

茶色い犬。

窓辺で眠る三毛猫。

それから、小さな黒いウサギ。

この下には、こんなコメントが書いてあった。

柔らかな光の中で、どの動物たちも穏やかな顔をしていた。

「今日は動物に囲まれていました。犬も猫もウサギも、人間より話しやすい気がします。」

澪は画面を見つめたまま動けなくなる。

悠人の時間が、少しだけ前へ進んでいる気がした。






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