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柔らかな光

夜の公園には、誰もいなかった。

古いブランコが、風もないのに小さく軋む。

澪は、錆びたベンチへ腰を下ろしたまま、両手をコートの袖へ隠していた。

街灯の白い光が、乾きかけた涙を薄く照らしている。

ここは、子供の頃によく遊んだ公園だった。

小さな滑り台。

色の剥げたジャングルジム。

砂の減った砂場。

何も変わっていない。

変わったのは、自分だけだった。

澪は静かに息を吐く。

母は、夜の店で働いていた。

暗くなると、友達は母親に呼ばれて帰っていく。

それでも澪は、帰りたくなくて、一人でこの公園に残っていた。

街灯が点く時間。

遠くで電車の音がして。

知らない家の窓から、夕飯の匂いが流れてくる。

それが、嫌だった。

羨ましくて。

苦しくて。

だから、ブランコを漕いでいた。

何も考えないように。

「……変わってないな」

小さく呟いた声は、誰にも届かず夜へ消えた。

澪は目を閉じる。

あの頃から、自分はずっと、一人だったのかもしれない。

そう思った瞬間、また涙が溢れた。

膝の上へ落ちた雫を見つめながら、澪は唇を噛む。

だけど、不思議だった。

今日は、完全な一人には感じなかった。

悠人へ送った言葉が、まだ胸のどこかに残っていた。

『どうしたら幸せになれるのか、それを良く考えて決断をして下さい』

澪はゆっくり顔を上げる。

夜空は何も答えなかった。

それでも、少しだけ。

本当に少しだけ。

この街の風景が、昔ほど冷たく感じなかった。


澪は、しばらく動かなかった。

冷えたベンチへ座ったまま、街灯に照らされた地面をぼんやり見つめている。

やがて、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には、悠人とのメッセージが残っていた。

短いやり取り。

途切れた言葉。

何度も開いて、何度も閉じた画面。

澪は、それを消そうとする。

指先が、「削除」の文字の上で止まった。

消せなかった。

小さく息を吐き、スマートフォンを握り直す。

そのまま立ち上がると、澪は無意識に歩き出していた。

どこへ向かうのか、自分でも分からないまま。

夜の住宅街を抜け、コンビニの灯りを通り過ぎ、気づけばバス停の前に立っていた。

しばらくして、路線バスがやって来る。

澪は何も考えないまま乗り込んだ。

窓の外へ、夜の街がゆっくり流れていく。

見慣れた景色だった。

この道は、つい最近まで何度も通った道だった。

ユキの世話をするために。

何度も、何度も。

悠人のアパートへ向かうために。

そのことに気づいた時、澪は小さく目を伏せた。

バスが止まる。

降車ボタンを押したのは、ほとんど反射だった。

静かな下町。

揺れる赤提灯。

冷たい夜風。

澪はゆっくり歩く。

細い道を曲がった先。

見慣れた古いアパートが見えた。

澪は、その場で足を止める。

二階の部屋。

窓から、柔らかな光が漏れていた。


その頃。

悠人は、狭いアパートの部屋で一人、スマートフォンを見つめていた。

テーブルの上には、飲みかけの缶コーヒー。

小さな暖房の音だけが、静かな部屋に響いている。

悠人の指が、ゆっくり画面を滑っていく。

そこに並んでいたのは、澪が昔投稿していた写真だった。

茶色のウサギのモカ。

眠たそうな犬のシロ。

窓辺で丸くなる猫のチャコ。

どの写真も、どこか優しかった。

澪自身は、あんなに不器用で、苦しそうに笑うのに。

動物を見つめる時だけは、少しだけ柔らかい顔をしていた。

悠人は、小さく息を吐く。

指先が、一つの動画で止まった。

再生ボタンを押す。

少し揺れた画面の向こうで、ユキが小さく鳴いていた。

「ほら、ちゃんと食べないと駄目だよ」

動画の中で、澪が困ったように笑う。

膝の上へユキを抱き上げ、ゆっくり餌を食べさせている。

「わがままだなぁ、お前」

優しい声だった。

悠人は、無意識に画面へ触れそうになる。

もう一度、小さく動画が流れる。

澪の笑い声。

その音だけが、静かな部屋に残った。

やがて、悠人の指が止まる。

次の写真。

淡い緑色のクリームソーダ。

グラスの中で揺れる炭酸。

丸いバニラアイス。

窓際の光。

あの日。

初めて会った喫茶店で、澪が撮った写真だった。

コメントには、こう書かれていた。

「冬なのにクリームソーダを頼んでしまいました。何だか子供みたいですね。」


アパートの下では、澪もまた、スマートフォンを見つめていた。

冷たい夜風が、髪を静かに揺らしていく。

二階の窓から漏れる柔らかな光を、ときどき視界の端へ感じながら、澪は無言で画面を指先で辿っていた。

そこに並んでいたのは、悠人が投稿した写真だった。

毛布に包まれて眠るユキ。

窓際で欠伸をしている姿。

どの写真にも、穏やかな時間が流れていた。

次の写真。

夕陽に染まる冬の海。

赤く光る波。

防波堤の影。

人気のない砂浜。

悠人らしい写真だった。

寂しいのに、どこか優しい。

澪は、静かに画面を滑らせる。

そして、最後の写真で指が止まった。

小さな緑色のシーグラス。

丸く削られたガラスが、掌の上で淡く光っている。

海岸清掃の時に拾ったものだった。

その下には、悠人の短いコメント。

『海岸でみつけたシーグラス。クリームソーダに似てますね。』

澪の目が、わずかに揺れる。

クリームソーダ。

あの日の喫茶店。

窓際の席。

ぎこちない会話。

静かな時間。

忘れようとしていた記憶が、胸の奥でゆっくり揺れた。

澪は、何も言わないまま、その写真を見つめ続けていた。

画面へそっと指を添える。

まるで、遠い日の記憶へ触れるみたいに。

二階の窓からは、変わらず柔らかな光が漏れている。

その灯りを見上げながら、澪は小さく息を吐いた。

会いたい。

ふと、そんな言葉が胸を過ぎる。

だけど澪は、唇を噛み、静かに首を横へ振った。

今はまだ、その勇気がなかった。

それでも。

もう一度だけ。

もう一度だけ、悠人とクリームソーダを飲みたいと思った。

その時、自分は笑えるだろうか。

少しだけでも、幸せになれているだろうか。

澪は、スマートフォンを胸へ抱く。

冷たい夜風が吹く。

だけど、さっきまでより少しだけ、その風は優しかった。

澪はゆっくり踵を返す。

そして、柔らかな灯りの残るアパートを背に、静かな夜の道を歩き始めた。

消えたかった夜は、まだ終わっていない。

それでも澪は、生きてみようと思った。







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