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逃げるように、進むように

数日後の午後だった。

窓の外では、薄い雲の向こうに少し暖かくなった光が滲んでいる。

悠人のアパートは静かだった。

餌を食べたばかりのユキは、ゲージの中で丸まっていた。

テーブルの上には、開かれた書類。

向かい側には、佐伯が座っていた。

緑色のファイルを開きながら、佐伯は落ち着いた声で話を続ける。

「精神障害者保健福祉手帳は、等級によって受けられる支援が変わります」

悠人は黙ったまま頷いた。

前回より、ちゃんと話を聞こうとしていた。

「税金の控除とか、交通機関の割引とか、自治体によって違いはありますけど、利用出来る制度はいくつかあります」

佐伯は淡々としている。

変に励ます訳でもない。

けれど、その説明は妙に現実的だった。

“特別な人になる為のもの”ではなく、“生活を続ける為の制度”として話している感じがした。

佐伯は書類を一枚取り出す。

「申請には、医師の診断書が必要になります。初診日とか、通院歴も確認されますね」

紙の擦れる音が、小さく響く。

悠人はテーブルの上の書類を見つめた。

以前なら、途中で頭が止まっていたと思う。

難しい話だと思った。

自分には関係ないと思った。

でも今日は違った。

ちゃんと、“自分のこれから”として聞いていた。

「一般的には、申請してから決定までは、数ヶ月かかる事が多いですが、この街は小さいので、それよりも早いと思います」

佐伯は静かにページをめくる。

「今後の選択肢として持っておくのは悪くないと思いますよ」

悠人は小さく目を伏せる。

部屋の外では、風が古い窓を小さく鳴らしている。

しばらくしてから、佐伯はファイルを閉じた。

そして、少しだけ柔らかい声で言う。

「悠人さんは、“夢”ってありますか」

その言葉を聞いた瞬間、悠人の表情が止まる。

夢。

あまりにも久しぶりに聞く言葉だった。

悠人はすぐに答えられなかった。

視線が、テーブルの上へ落ちる。

夢。

そんなものを考える余裕なんて、ずっと無かった。

生きるだけで精一杯だった。

働けなくなってからは、未来の事を考えるのも苦しくなっていた。

だから、“夢”と言われても、何を答えればいいのか分からなかった。

悠人の沈黙を見て、佐伯は小さく息を吐いた。

「ごめんなさい。急すぎましたね」

責めるような口調ではなかった。

むしろ、慣れている感じだった。

“夢”という言葉を前にすると、黙ってしまう人を何人も見てきたのかもしれない。

佐伯は少しだけ考えるように視線を落とし、それから静かに言った。

「じゃあ……」

ファイルの上へ手を置いたまま、悠人を見る。

「これから、やってみたい事はありますか」

夢、よりもずっと小さな聞き方だった。

悠人は目を伏せたまま、すぐには答えられない。

やってみたい事。

そんな事を考えたのも、いつ以来だっただろうと思う。

ずっと、“出来なくなった事”ばかり考えていた。

働けない。

眠れない。

上手く話せない。

続かない。

周りと同じように出来ない。

そんな事ばかりだった。

だから、“これから”の話をされる事自体に、まだ慣れていなかった。

窓の外で、風が小さく鳴る。

悠人はしばらく黙ったあと、小さく口を開いた。

「……動物は、好きです」

それが正直な答えだった。

佐伯は何も言わず、視線をゲージの中で丸まっているユキへ移して、静かに続きを待っている。

悠人は視線を落としたまま、ゆっくり言葉を探した。

「ユキの世話をしている時間は……楽になる時があります」

言い終わったあと、少し恥ずかしくなった。

こんな答えでいいのか分からなかった。

けれど佐伯は、小さく頷いた。

「いいと思います」

静かな声だった。

「そういうの、大事ですよ 動物に関係する職業だって、いっぱいありますし」

部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる

春先の午後の光が静かに差し込んでいた。


夕方の台所には、油の匂いが薄く残っていた。

換気扇が、古い音を立て続けている。

澪は流し台へ寄りかかりながら、ぼんやり湯気の上がる味噌汁を見つめていた。

玄関の扉が開く。

「……疲れた」

小さな声と一緒に、美咲が帰ってきた。

スーパーの制服の上へ、くたびれたピンク色のウインドブレーカーを羽織っている。

澪は振り返る。

「おかえり」

美咲は返事の代わりみたいに小さく頷き、そのまま椅子へ座り込んだ。

テーブルへバッグを置く音。

それから、深いため息。

「お客、めっちゃ多かった……」

疲れ切った声だった。

「今日、特売日だったし」

澪は小さく笑う。

美咲は頬杖をついたまま、ぼんやり床を見る。

「あとさ……店長、同じ事ばっか何回も言うんだけど」

「ミスしたの?」

「してない。してないけど、“笑顔でお願いします”って何回も、品出しに笑顔、必要かなー」

美咲は面倒そうに口を尖らせる。

その顔が少しだけ子供っぽくて、澪はまた小さく笑った。

前より、美咲の表情は少し明るくなっていた。

外へ出るようになってから、部屋へ閉じこもる時間も減った。

疲れてはいる。

でも、“何も無い顔”ではなくなっていた。

それだけで、澪は少し安心していた。

その時だった。

奥の部屋で、何かが倒れる音がする。

ガタン、と鈍い音。

台所の空気が、一瞬で固まった。

美咲の表情が止まる。

澪も動かなかった。

そのあと、低い男の声が聞こえる。

達也だった。

何を言っているのかまでは聞き取れない。

けれど、酒の入った時の声だとすぐ分かった。

続いて、母親の苛立った声。

言い返すような声。

また何かがぶつかる音。

美咲が小さく目を伏せる。

さっきまでの空気が、静かに消えていく。

澪は唇を噛んだ。

せっかく、美咲が少しずつ外へ出始めたのに。

この家は、すぐに全部を引き戻そうとする。

奥の部屋では、まだ低い怒鳴り声が続いている。

澪は小さく息を吐き、それから静かに味噌汁の火を弱めた。

しばらくして、奥の部屋の音が少し静かになった。

けれど、空気は張ったままだった。

美咲は椅子へ座ったまま、黙ってテーブルを見つめている。

制服の袖口を、無意識に指で弄っていた。

澪は鍋の火を止め、小さく息を吐く。

「ご飯、先に食べる?」

出来るだけ普通の声で聞いた。

美咲は少し間を空けてから、小さく頷く。

その時だった。

奥の襖が乱暴に開く音。

達也がふらついた足取りで台所へ入ってくる。

酒の匂いが、一気に流れ込んだ。

伸びかけた髪。

無精ひげ。

赤い目。

達也は澪たちを見るなり、苛立った声を出す。

「何や!」

美咲の肩が小さく揺れる。

澪は何も言わなかった。

達也は舌打ちしながら、冷蔵庫を乱暴に開ける。

中を見て、さらに機嫌悪そうに眉を寄せた。

「ビール無いの?」

返事はない。

達也は冷蔵庫の扉を強く閉める。

鈍い音が、狭い台所へ響いた。

奥の部屋から、母親の声が飛ぶ。

「もう飲まんって言ってたやろ!」

達也は振り返りもせず、苛立った声を返した。

「分かっとるわ」

その瞬間、美咲が小さく身を縮める。

制服の袖を、無意識に握っていた。

澪はそれを見て、胸の奥が静かに重くなる。

せっかく外で働き始めて。

少しずつ、前を向き始めていたのに。

家へ帰れば、またこれだ。

達也はテーブルの上へ視線を向ける。

それから、疲れ切った顔の美咲を見て、小さく鼻で笑った。

「何、お前も死んだみたいな顔して」

その言葉に、澪の指先が小さく強張る。

美咲は俯いたまま動かない。

達也はもう一度舌打ちすると、そのまま部屋を出て行った。

襖が乱暴に閉まる。

しばらく、誰も喋らなかった。

換気扇の音だけが、古い台所へ静かに響いている。

やがて、美咲がぽつりと言う。

「……この家、疲れる」

小さな声だった。

澪は何も言えなかった。

その言葉が、自分の胸の奥にもそのまま落ちてきたからだった。

窓の外では、港町の空がゆっくり夕暮れへ変わり始めていた。

しばらくして、美咲は「ちょっと、コンビニ行ってくる」と小さく言って立ち上がった。

澪は黙って頷く。

廊下を歩く足音。

扉の閉まる音。

それからまた、家の中へ重たい静けさが戻ってくる。

奥の部屋では、達也と母親の低い声がまだ続いていた。

言い争いなのか、愚痴なのかも分からない。

澪は流し台の前で、小さく目を閉じる。

換気扇の音。

酒の匂い。

古い蛍光灯の白い光。

息が詰まりそうだった。

澪はゆっくり上着を掴む。

「私も、ちょっと外、行ってくる」

返事は無かった。

澪はそのまま玄関を開ける。

夜の空気は冷たかった。

けれど、家の中より少しだけ息がしやすい。

港町の向こうから、波の音が聞こえている。

澪は小さく息を吐き、それから暗くなり始めた海の方へ歩き出した。

冬の終わりの風が、静かな夜の街を吹き抜けていた。









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