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波の見える場所

電話を切った後も、悠人はしばらくスマートフォンを耳へ当てたまま動けなかった。

山の上の神社には、冷たい風が吹いている。

石段の途中。

悠人は小さく息を吐き、ゆっくりスマートフォンを下ろした。

『今すぐ決めなくて大丈夫ですよ』

電話越しの佐伯の声が、まだ耳の奥へ残っている。

『もう一度、ちゃんと説明しますから』

淡々とした口調だった。

無理に勧める感じではなかった。

それなのに、不思議と前回より言葉が胸へ残った。

前に話を聞いた時は、どこか他人事みたいだった。

障害者手帳。

支援とか、制度とか。

それは、自分とは少し離れた場所の話に聞こえていた。

でも今日は違った。

澪が言ってくれた“自分が幸せになれる”手段として、その話を聞いてみたかった。

潮風が、石段を静かに吹き抜ける。

悠人はゆっくり顔を上げた。

眼下に、海に張り出した防波堤が見える。

晩冬の午後の海。

白波が、防波堤へ静かに砕けていた。

悠人は黙ったまま、その景色を見つめる。

ほんの少し前まで、自分は一人で沈んでいくものだと思っていた。

誰にも言えず。

誰にも分かられず。

でも今は、遠くのどこかに、自分の言葉を受け止めてくれた人がいる。

それだけで、胸の奥の息苦しさが少しだけ薄れていた。

遠くで、カモメの鳴き声が聞こえる。

悠人は石段へ座り直し、小さく空を見上げた。

空はまだ冷たい。

けれど、その奥に滲む光だけは、少しだけ春に近かった。


潮風が、静かに吹き抜ける。

澪は防波堤へ座ったまま、ぼんやり海を眺めていた。

『どうしたら幸せになれるのか、それを良く考えて決断をして下さい』

自分で送ったその言葉が、まだ胸の奥へ残っている。

澪は小さく目を伏せた。

本当は、自分自身へ言いたかった言葉なのかもしれないと思った。

波が、白く砕ける。

家へ帰れば、また、達也と母親がいる。

機嫌が悪ければ、何かが始まる。

昔から、家の空気ばかり気にして生きてきた。

怒らせないように。

面倒にならないように。

波風を立てないように。

気付けば、“自分がどうしたいのか”を考えることが少なくなっていた。

幸せなんて、ちゃんと考えたこともなかった。

ただ。

苦しくない場所へ逃げたいとだけ思っていた。

澪は膝の上で、指を小さく握る。

もし。

もし、自分も“幸せになれる方”を選んでいいのなら。

そんなことを考えた瞬間、胸の奥が少しだけ怖くなった。

そんな生き方を、本当に選んでいいのか分からなかった。

遠くで、船の汽笛が小さく響く。

澪はゆっくり顔を上げた。

山の上の神社が、午後の光の中で小さく見えている。

あの場所からなら、この防波堤もきっと小さく見える。

世界が少し遠くなるあの感じを、澪は昔から嫌いじゃなかった。

冬の海は、静かに揺れていた。

澪は隣へ置いていたスマートフォンを手に取り、防寒着のポケットへしまう。

画面は静かなままだった。

けれど、不思議と少しだけ安心していた。

悠人に、自分の気持ちが、ちゃんと届いた気がしていた。

澪はもう一度だけ海を見つめる。

午後の光の中で、水面が白く揺れている。

その向こうには、淡く滲んだ春前の空。

澪は小さく息を吐く。

それから、防波堤をゆっくり歩き始めた。

靴底が、乾いたコンクリートを小さく鳴らす。

背後では、波が静かに砕け続けている。

澪は一度だけ立ち止まり、山を見上げた。

神社の石段が、午後の光の中で小さく見えている。

澪は目を細め、それからまた歩き始めた。

帰れば、いつもの家がある。

変わらない現実が待っている。

それでも今日は、ほんの少しだけ胸の奥が違っていた。

冬の終わりの潮風が、港町を静かに吹き抜けていく。


悠人は、空を見上げた。

薄く青い空。

冷たい風が松の枝を揺らしている。

ポケットへスマートフォンをしまい、小さく息を吐く。

眼下には、海へ長く伸びた防波堤。

波が、一定のリズムで静かに砕けている。

悠人は石段の途中で立ち止まり、しばらくその景色を見つめていた。

あの防波堤へ行けば、潮の匂いがもっと強くする。

風も、きっと冷たい。

そんなことをぼんやり考える。

遠くで、カモメが鳴いた。

悠人は小さく目を細める。

今まで、自分の人生はもう止まったものだと思っていた。

普通に働くことも。

誰かと笑うことも。

何かを選ぶことも。

全部、遠い場所へ置いてきた気がしていた。

けれど今は、ほんの少しだけ違う。

何かが変わった訳じゃない。

苦しさが消えた訳でもない。

それでも。

もう少しだけ、考えてみようと思っていた。

悠人はゆっくり石段を降り始めた。

一段ずつ。

確かめるみたいに。

山を降りた先には、いつもの港町がある。

変わらない海がある。

そして、まだ名前にならない小さな春の気配が、午後の光の中へ静かに滲み始めていた。











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