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一人じゃない海

昼下がりの港町は、白っぽい冬の光に包まれていた。

市場帰りのトラックが、海沿いの道をゆっくり走っていく。

仕事を終えた澪は、防寒着の袖へ手を入れながら、防波堤のほうへ歩いていた。

潮風は冷たい。

けれど、昼の海には夜とは違う静けさがあった。

ポケットの中のスマートフォンが、ずっと気になっていた。

結局、仕事中は開けなかった。

何度も視線を向けた。

そのたびに、怖くなってやめた。

でも、もう限界だった。

澪は防波堤の端へ腰を下ろす。

薄い水色の海が、午後の光を鈍く反射している。

遠くでカモメの鳴き声がした。

澪はゆっくりスマートフォンを取り出す。

冷えた指で、画面を開いた。

悠人からのメッセージ。

胸が、小さく音を立てる。

澪は一度だけ息を止めてから、そっと画面へ触れた。

『急にごめんなさい』

短い文章。

その下に続く言葉を見た瞬間、澪の目が止まる。

『今、少しだけ相談したいことがあります』

そのあとに続いていたのは、長い文章ではなかった。

途切れ途切れの、迷いながら打ったみたいな文。

『今日、ケースワーカーの人が来ました』

『障害者手帳の話をされました』

澪は静かに画面を見つめる。

波の音だけが聞こえていた。

そして。

次の一文を読んだ瞬間、澪の呼吸が浅くなる。

『精神障害者って言われるほどなんかなって、少し分からなくなってます』

その文字だけが、妙に白く浮いて見えた。

精神障害者。

潮風が、防波堤を吹き抜ける。

澪は小さく唇を噛んだ。

あの時、あの喫茶で、悠人が、時々うまく話せなくなったこと。

急に黙り込んだこと。

そして、SNSで何時も言っていた、働けていないことと眠れない夜があること。

色んなものが、頭の中で静かに繋がっていく。

けれど同時に、澪の中には別の感情もあった。

そんなことを。

こんな話を、自分へ送ってきたこと。

悠人が誰かに頼ろうとしている。

その事実が、胸の奥へ静かに残った。

冬の海は、午後の光の中で静かに揺れていた。

澪はスマートフォンを握ったまま、しばらく海を見つめていた。

水色の波が、防波堤へ静かにぶつかっている。

何て返せばいいのか分からなかった。

軽い言葉では返したくない。

でも、何も返さないままなのも違う気がした。

澪は小さく息を吐き、ゆっくり画面へ指を置く。

冷たい潮風が髪を揺らす。

澪は視線を落としたまま、文字を打つ。

『私も、前に、一回だけ考えたことあります』

指先が、小さく止まる。

『障害者申請の事』

その文字を見つめながら、澪は静かに唇を噛んだ。

家族が壊れ始めた頃。

何も出来なくなって、部屋から出られなくなった時期。

働けなくなった自分を、誰にも見られたくなかった。

けれど結局、役所へ行く勇気も出なかった。

周りからどう見られるのかが怖かった。

“普通じゃない”と思われる気がして。

澪はゆっくり目を伏せる。

それから、もう一度画面へ視線を戻した。

『でも、周りの目ばっかり気にして、結局行けなかったです』

『勇気が無かったんだと思います』

送るか迷う。

こんな話をしていいのか分からなかった。

けれど、悠人だけに言わせるのも違う気がした。

澪は小さく息を吐く。

そして最後に、短く打ち足した。

『だから、相談してくれて、少し嬉しかったです』

指先が止まる。

胸の奥が、少しだけ熱かった。

澪は静かに送信ボタンを押す。

午後の海は、冬の光の中で静かに揺れていた。


昼下がりの海は、静かだった。

少しだけ春に近づいた日の光が、水面へ白く滲んでいる。

悠人は、山の上にある神社の石段に腰を下ろしたまま、ぼんやり遠くに広がる海を眺めていた。

まだ、風は冷たい。

けれど、部屋にいるより少しだけ息がしやすかった。

遠くを貨物船がゆっくり進んでいく。

その時だった。

ポケットの中で、スマートフォンが小さく震える。

悠人の肩が、わずかに揺れた。

画面を見る。

――澪。

その名前を見た瞬間、胸の奥が静かに締めつけられる。

悠人はすぐには開けなかった。

もし、困らせてしまっていたら。

重かったと思われていたら。

返事が来ないことも覚悟して送った。

だから、通知が来ただけで少し怖かった。

潮風が、静かに吹き抜ける。

悠人は小さく息を吐き、ゆっくり画面へ触れた。

『私も、前に、一回だけ考えたことあります』

その一文を読んだ瞬間、悠人の目が止まる。

白い波が、遠くの防波堤へ小さく砕けた。

悠人は黙ったまま、続きを読む。

『障害者申請の事』

『でも、周りの目ばっかり気にして、結局行けなかったです』

『勇気が無かったんだと思います』

悠人はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。

澪も。

同じことを考えていた。

その事実が、胸の奥へ静かに落ちていく。

“普通じゃなくなること”が怖かったのは、自分だけじゃなかった。

波の音が、ゆっくり響く。

悠人は小さく目を伏せた。

それから、最後の一文を読む。

『だから、相談してくれて、少し嬉しかったです』

その瞬間。

胸の奥に張りついていた何かが、少しだけ緩む。

悠人は、海を見つめたまま小さく息を吐いた。

冷たい風だった。

でも、不思議とさっきまでより苦しくなかった。

遠くの海は、午後の光の中で静かに揺れている。

悠人はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく何も打てなかった。

ただ。

一人じゃないのかもしれないと、少しだけ思っていた。

その時だった。

小さく、もう一度画面が震える。

悠人はゆっくり視線を落とした。

澪からの追加のメッセージ。

短い一文だった。

『どうしたら幸せになれるのか、それを良く考えて決断をして下さい』

悠人の指が止まる。

波の音だけが、静かに続いていた。

“幸せ”

その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。

悠人は、その文字を黙ったまま見つめていた。

自分には、もう関係ないものだと思っていた。

普通に働くことも。

普通に生きることも。

誰かと笑うことも。

どこか遠い場所の話みたいになっていた。

けれど澪は、そんな自分に向かって、当たり前みたいに“幸せ”という言葉を使った。

それが、少しだけ不思議だった。

そして、少しだけ救われる気がした。

潮風が、防波堤を静かに吹き抜ける。

悠人はスマートフォンを胸の前で握りしめ、小さく目を閉じた。

冬の海の向こうで、午後の光がゆっくり揺れていた。

悠人はスマートフォンを胸の前で握りしめ、小さく目を閉じた。

松の枝が午後の光でゆっくり揺れていた。

しばらくしてから、悠人は静かに画面へ視線を落とす。

何か返したかった。

うまく言葉には出来なかったけれど。

澪の言葉が、ちゃんと届いていたことだけは伝えたかった。

悠人は小さく息を吐き、ゆっくり文字を打つ。

『ありがとうございます』

それだけでは足りない気がして、少し迷う。

冷たい風が、指先を掠めた。

悠人は海を見つめ、それからもう一文だけ打ち足す。

『少しだけ、考えてみます』

送信。

画面が静かに暗くなる。

悠人はしばらくスマートフォンを握ったまま、波の音を聞いていた。

“どうしたら幸せになれるのか、それを良く考えて決断をして下さい”

その言葉が、まだ胸の奥へ残っている。

幸せ。

自分には遠いものだと思っていた。

でも――

もし、本当に少しでも変われるなら。

悠人はゆっくり顔を上げ、冬の海を見つめた。

水色の絵の具が滲んだような空の向こうに、暖かい光が滲んでいる。

それから、静かにスマートフォンを開いた。

連絡先の一覧。

指が、一つの名前の前で止まる。

――佐伯さん。

悠人は数秒迷ったあと、小さく息を吐いた。









そして、通話ボタンを押す。


呼び出し音が、静かな海のそばで小さく響いていた。







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