未読の朝
夜の部屋は静かだった。
古い暖房の音だけが、小さく響いている。
澪は布団へ入ったまま、枕元に置いたスマートフォンを見つめていた。
画面は暗いまま。
悠人へ送った最後のメッセージ。
『もう、ユキちゃんに会えなくなると思うと、少しさみしいです。』
あのあと、返事は来なかった。
澪は小さく目を伏せる。
別に、責めたいわけじゃなかった。
困らせたいわけでもない。
ただ、本当のことを少しだけ書いただけだった。
けれど――
もし、このあと、
『また会いませんか?』
そんな言葉が届いたら。
澪は、自分がどう返事をしてしまうのか分からなかった。
だから、スマートフォンを裏返す。
見なければ、考えんで済む気がした。
窓の外では、遠くで船のエンジン音が鳴っている。
港町の夜は、ゆっくり更けていった。
翌朝。
漁港の市場には、冷たい潮風が吹いていた。
濡れたコンクリート。
発泡スチロールの箱。
魚を運ぶ台車の音が、朝の市場へ響いている。
胸の奥に何かが引っかかったまま、澪は久しぶりに市場へ戻っていた。
澪はエプロンの紐を結び直しながら、小さく息を吐いた。
「澪ーっ!」
突然、後ろから大きな声が飛んでくる。
振り返ると、美咲が手を振りながら走ってきていた。
白い短めのダウンジャケット。
中には派手なピンクのパーカー。
耳には小さなシルバーのピアス。
傷んだ茶色い髪が、潮風で揺れている。
その姿は、どこか不良っぽい格好なのに、不思議と子どもっぽさが残っていた。
「どしたん?」
澪が少し驚いたように聞くと、美咲は息を切らしながら笑う。
「なあ、聞いてぇ!」
その顔だけで、嬉しいことがあったのが分かる。
「バイト受かったんよ!」
澪の目が少し丸くなる。
「え、ほんまに?」
「ほんまほんま!」
美咲は何回も頷いた。
「さっき、電話きたんよ!」
その顔が、本当に嬉しそうだった。
澪もつられるみたいに少し笑う。
「よかったやん」
「うん!」
美咲は嬉しそうに肩を揺らしてから、少し得意げに続けた。
「中学の裏にある、小っさいスーパー分かる?」
「あぁ、“なかやま”?」
「そうそう!」
そこは、市場の人たちもよく使う、昔からある小さなスーパーだった。
夕方になると、学生や近所の年寄りが集まる店。
美咲は両手をぎゅっと握る。
「初めは、品出しなんやけど、ちゃんと頑張るけぇ」
その声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。
澪はそんな美咲を見ながら、小さく目を細める。
「わざわざ、それ言いに来たん?」
そう聞くと、美咲は少し照れたみたいに笑った。
「……うん」
それから、誤魔化すみたいに鼻をこする。
「最初に澪ちゃんに言お思うたし」
市場の向こうで、カモメの鳴き声が響いた。
朝の光が、濡れた地面へ薄く反射している。
澪は小さく笑ったまま、美咲の頭を軽く小突く。
「ちゃんと続けるんやで」
「分かっとるって、生活保護から卒業するぞー おー」
美咲は、小さく拳を上げながら笑った。
その明るさに触れていると、澪の胸の奥に張り付いていた重たいものが、少しだけ薄くなる気がした。
「何、それ?」
少し間を空けてから、澪は何気ないふうに聞く。
「で……あの二人は、どうしとる?」
美咲は一瞬だけ目を逸らした。
けれど、すぐにいつもの調子で肩をすくめる。
「あいつは、まだ寝とる」
それから、少し呆れたみたいに笑った。
「達ちゃんは、朝方帰ってきて、死んだみたいに寝とるし」
市場の向こうで、フォークリフトの音が響く。
澪は黙ったまま、その話を聞いていた。
美咲は鼻をこすりながら、小さく続ける。
「まぁ、でも最近ちょっと静かなんよ」
「前みたいに、毎日怒鳴っとるわけやないし」
その言葉に、澪は少しだけ安心したように目を細めた。
「……そっか」
潮風が吹き抜ける。
美咲は急に思い出したみたいに顔を上げた。
「今日な、うち晩飯作るんよ」
「え?」
「バイト決まったけぇ、お肉、食べたいとうなった」
少し照れたように笑う。
「何なんそれ?」
澪はその顔を見て、小さく笑った。
冬の港町へ、少しだけ柔らかい朝の光が差し込んでいた。
その時だった。
近くの机へ置いていたスマートフォンが、小さく震える。
澪の視線が、反射みたいにそちらへ向く。
画面が光っていた。
胸が、小さく跳ねる。
表示された名前を見た瞬間、澪の呼吸が止まりそうになる。
――悠人。
「じゃ、うち行くわ」
美咲は、何かを思い出したように言った。
「……うん」
「澪ちゃんも、無理せんのよ」
そう言って、美咲は市場の奥へ走っていく。
澪は返事をしないまま、スマートフォンを見つめていた。
画面には、未読の通知。
昨日から、一度も見ていなかった名前。
指先が、少しだけ冷たくなる。
開けばいいだけだった。
それだけなのに、なぜか怖い。
『また会いませんか?』
もし、そんな言葉だったら。
期待してしまう気がした。
でも逆に、事務的な返事だけだったら、それはそれで苦しくなる気もした。
澪は小さく息を吐き、スマートフォンを伏せる。
「……あとで」
誰に言うでもなく呟いた。
市場では、次々に魚箱が運ばれていく。
威勢のいい声。
氷の砕ける音。
澪は気持ちを誤魔化すみたいに、作業へ戻った。
発泡スチロールの箱を運ぶ。
濡れた床を避けながら歩く。
魚を並べる。
手は動いているのに、頭のどこかでは、ずっとスマートフォンのことを考えていた。
今なら、まだ見なくて済む。
でも。
もし、大事な話だったら。
もし、悠人が珍しく勇気を出して送ってきた言葉だったら。
そう思ってしまった瞬間、胸の奥が落ち着かなくなる。
澪は小さく唇を噛んだ。
それから、作業台へ置いていたスマートフォンへ、もう一度視線を向ける。
画面は暗いままだった。
それなのに、そこに悠人がいるみたいに思えてしまった。




