春への分かれ道
夕方の光が、静かな部屋へゆっくり広がっていた。
ユキは悠人の足元で、小さく鼻を動かしている。
窓の外では、波の音が遠くに聞こえていた。
その時、机の上へ置いていたスマートフォンが震える。
画面を見る。
澪からだった。
悠人は静かにメッセージを開く。
『お母さん、大丈夫ですか?』
短い文。
そのあとに、
『無理しないでくださいね』
と続いていた。
悠人はしばらく画面を見つめる。
それから、小さく文字を打った。
『ありがとうございます』
少し迷ってから、もう一文。
『母親、少しだけ話せるようになりました』
送信。
既読はすぐについた。
しばらくして、また小さく画面が光る。
『よかったです』
その短い言葉のあと、少し時間を空けて、もう一件届く。
『でも』
悠人は視線を落としたまま、続きを待った。
『もう、ユキちゃんに会えなくなると思うと、少しさみしいです。』
部屋の中が、急に静かになった気がした。
ユキが足元へ身体を寄せてくる。
悠人はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
また、いつでも来てください。
その一言くらい、簡単に送れるはずだった。
けれど、指が動かない。
期待させるのが怖かった。
自分の中途半端な気持ちで、澪を引き止めてしまう気がした。
窓の外では、薄暗い海が静かに揺れている。
悠人は小さく目を伏せたまま、結局、何も送れなかった。
数日後。
港町の空には、薄い雲が広がっていた。
海から吹く風はまだ冷たい。
少し青みがかった波が、防波堤へ静かに打ち寄せている。
悠人は久しぶりに、海岸清掃の集合場所へ来ていた。
軍手をはめながら、小さく息を吐く。
冬の海岸には、相変わらず色んなものが流れ着いていた。
「木崎さん!」
後ろから声がする。
振り返ると、いつものスタッフの女性が立っていた。
「あぁ、よかった……」
少し安心したような顔だった。
「お母さん 大丈夫ですか 心配してました」
悠人は軽く頭を下げる。
「すみませんでした なんとか……命は助かりました」
それから、少し間を空ける。
「でも、まだ色々……」
女性は静かに頷いた。
「そうですか…… でも、怪我は日にち薬ですから」
それ以上は深く聞かなかった。
代わりに、少しだけ柔らかく笑う。
「木崎さんも、無理しすぎないでくださいね」
悠人は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その言葉は、自然に出た。
心配してくれる人がいることが、少しだけありがたかった。
清掃が始まる。
悠人はトングを片手に、黙々と砂浜を歩いた。
冷たい風が頬を掠める。
足元には、細かな貝殻が散らばっていた。
拾い上げた空き缶を袋へ入れる。
その単純な動作を繰り返しながら、悠人はぼんやり考えていた。
病院の白い廊下。
父親の疲れた横顔。
佳菜子からのメッセージ。
そして、静かに掃除された自分の部屋。
『もう、ユキちゃんに会えなくなると思うと、少しさみしいです。』
あの一文が、まだ頭のどこかへ残っていた。
潮風が吹く。
悠人は小さく目を細め、遠くの海を見た。
空はまだ冬の色をしている。
けれど、その向こうに、少しだけ春の光が滲んでいる気がした。
帰り道だった。
海沿いの道路を歩いていると、ポケットの中でスマートフォンが震える。
悠人は足を止め、画面を見る。
ケースワーカーの佐伯からだった。
少しだけ迷ってから、通話ボタンを押す。
「……はい」
『木崎さん、お疲れさまです』
落ち着いた声。
いつもの穏やかな話し方だった。
『少し、お話したいことがありまして』
悠人は黙って聞いていた。
海風が、電柱の間を抜けていく。
『明日の11頃、アパートへ伺っても大丈夫ですか?』
悠人は小さく眉を寄せる。
「……何かありましたか?」
電話の向こうで、佐伯は少しだけ間を空けた。
『制度のことも含めて、一度ゆっくりお話できればと思ってます』
その言い方が、少しだけ引っかかった。
悠人は遠くの海を見つめたまま、小さく答える。
「……分かりました」
通話が切れる。
波の音だけが、静かに残っていた。
次の日、港町の空は青かった。
窓の外では、風に押された薄い雲がゆっくり流れている。
悠人は小さなやかんで湯を沸かしながら、時計を見上げた。
その時、玄関のチャイムが鳴る。
悠人は火を止め、静かに扉を開けた。
「こんにちは」
佐伯はいつもの落ち着いた笑顔で立っていた。
薄めのピンクのコート。
手には、緑色のファイルが挟まれている。
「すみません、お昼前に」
「いえ……」
悠人は小さく首を振り、中へ通した。
佐伯は部屋を見回し、少しだけ安心したように頷く。
「綺麗にされてますね」
その言葉に、悠人は少しだけ視線を逸らした。
澪の顔が頭を過る。
佐伯は小さな丸いテーブルへファイルを置く。
しばらくは、体調や母親のことを静かに聞いていた。
無理に踏み込まず、答えを急がせない話し方だった。
やがて佐伯は、ファイルの中から一枚の資料を取り出す。
「今日は、制度の話を少しだけ」
悠人の表情が、わずかに固くなる。
佐伯は、それに気づいていたが、声色は変えなかった。
「木崎さんは、長くご病気が続いておられますので、何も今すぐ何かを決める必要はありません。ただ、“こういう選択肢もある”という話です」
資料には、障害者支援制度について書かれていた。
悠人は、その文字をぼんやり見つめる。
“精神障害者保健福祉手帳”
その名前だけが、少し重く感じた。
佐伯は静かに続ける。
「以前よりは、働き方も色々増えてきています」
「体調に合わせて短時間から始めたり、支援を受けながら働ける場所もあります」
「障害者雇用という形だと、周囲へ配慮をお願いしながら働ける場合もありますし……」
悠人は黙ったまま聞いていた。
窓の外では、カモメの鳴き声が小さく聞こえる。
佐伯は、言葉を選ぶように少し間を空けた。
「木崎さんは、ずっと“普通に戻らなきゃ”って頑張ってこられたと思うんです」
「でも、使える制度を使うことは、諦めることじゃありません」
その声は、どこまでも静かだった。
悠人は、テーブルの上の資料を、じっと見つめていた。
そして、しばらくして、悠人は小さく口を開いた。
「……障害者って、言われるほどなんですかね、僕」
その声は、自分へ確認するみたいだった。
佐伯はすぐには答えなかった。
それから、穏やかに言う。
「今は、“名前”を決めることよりも、木崎さんが、無理せず生活を続けられることのほうが大事だと思っています」
部屋の中へ、静かな沈黙が落ちた。
遠くで、波の音だけが聞こえていた。
佐伯が帰ったあと、部屋の中には静かな空気だけが残っていた。
テーブルの上には、緑色のファイルと数枚の資料。
窓の外では、遠くの海が鈍く光っている。
悠人はしばらく、その紙をぼんやり見つめていた。
“精神障害者保健福祉手帳”
その文字だけが、妙に頭へ残る。
まるで、自分とは別の誰かについて書かれているみたいだった。
けれど同時に、どこか逃げられない気もしていた。
悠人は小さく息を吐き、壁にもたれかかる。
その足元へ、ユキが寄ってきた。
白い鼻が、悠人の手へ小さく触れる。
悠人はしゃがみ込み、静かに頭を撫でた。
「……なぁ、ユキ」
小さく呟く。
「俺、そんなふうに見えるんかな」
ユキは答えない。
ただ、安心したみたいに目を細めている。
部屋の中へ、波の音がかすかに聞こえていた。
悠人はしばらく黙ったままユキを撫で続ける。
それから、机の上のスマートフォンへ視線を向けた。
指が止まる。
澪の名前。
少し迷う。
こんな話をしていいのか分からなかった。
重たいと思われるかもしれない。
困らせるだけかもしれない。
それでも――
今は、誰かと繋がりたかった。
悠人はスマートフォンを手に取る。
画面を開き、ゆっくり文字を打った。
『急にごめんなさい』
少し消して、また打ち直す。
『今、少しだけ相談したいことがあります』
送信ボタンの前で、指が止まった。
数秒迷ってから、小さく息を吐く。
そして、静かに送信を押した。
窓の外では、冬の終わりみたいな風が、ゆっくり海を揺らしていた。




