待っていた部屋
電車は、朝の街をゆっくり離れていった。
通勤ラッシュが終わったばかりの車内には、少し疲れた静けさが残っている。
空いた吊り革。
読みかけの新聞を膝へ置いたまま眠る老人。
ドア付近では、制服姿の高校生がイヤホンを耳へ押し込んでいた。
暖房の熱で、窓ガラスが薄く曇っている。
悠人は窓側の席へ座り、流れていく景色をぼんやり見ていた。
灰色のビル群。
渋滞した道路。
コンビニの駐車場。
朝の光を反射するマンションの窓。
景色だけが、一定の速さで後ろへ流れていく。
悠人は小さく息を吐いた。
膝の上には、佳菜子から渡された写真立てがある。
透明なフィルム越しに、去年の春が閉じ込められていた。
桜並木。
少し眩しそうに笑う母親。
缶ビールを持って笑っている父親。
大きく手を振る佳菜子。
そして、その隣で不機嫌そうな顔をしている自分。
悠人の指が、写真立ての端を静かになぞる。
その時だった。
スマートフォンが、小さく震えた。
画面を見る。
佳菜子からのメッセージだった。
悠人は少しだけ迷ってから、それを開く。
『今まで言うタイミングなかったけど』
短い文。
続きが、ゆっくり表示される。
『お父さん、お母さん怪我したん、自分のせいやと思ってる』
悠人の視線が止まる。
車輪の規則的な音だけが耳へ残った。
『私、前に聞いたことあるの』
『お母さんが、パート掛け持ちしてるのは、俺の給料だけじゃ足りんからって』
悠人は黙ったまま画面を見つめていた。
窓の外では、高架下の古い住宅街が流れていく。
洗濯物。
小さな公園。
閉まったままのシャッター商店街。
どこにでもある朝の景色だった。
佳菜子から、もう一件届く。
『階段から落ちたんも、疲れてたからやって……』
『だから、お父さんずっと自分責めてる』
最後の一文だけ、少し時間を空けて送られてきた。
『たぶん、お兄ちゃんには言えんかったんやと思う』
悠人はスマートフォンを閉じた。
それから、窓へ額を軽く預ける。
ガラスが少し冷たい。
父親の顔が浮かぶ。
病院の資料を見つめていた横顔。
疲れた声。
車から降りる時、明るく出した「元気でな、ちゃんとやれよ」。
あの人もずっと、自分の中で何かを抱え続けていたのかもしれない。
電車が長いトンネルへ入る。
窓ガラスに、自分の顔だけが暗く映った。
悠人は目を伏せ、小さくメッセージを打つ。
『お父さんのせいじゃないよ』
少し迷ってから、もう一文。
『誰のせいでもない』
送信。
既読はすぐについた。
けれど返信は来なかった。
やがて電車はトンネルを抜ける。
その先には、鈍い色をした冬の海が静かに広がっていた。
港町は、もう近かった。
その頃、悠人のアパートでも春を予感させる薄い陽射しが窓から静かに差し込んでいた。
澪は悠人の部屋で、ユキの餌を替えていた。
ケージの中の白いウサギが、小さく鼻を動かしている。
「ちゃんと食べてるね。悠人君、今日、帰って来るよ。良かったね。」
澪は少しだけ笑って、水の容器を新しいものへ替えた。
窓を少し開ける。
潮の匂いを含んだ冷たい風が、カーテンを揺らした。
そのあと、澪は部屋を見回す。
小さな丸いテーブルの上へ置かれた本。
脱ぎっぱなしの部屋着。
流し台に伏せられたマグカップ。
最初は少し整えるだけのつもりだった。
けれど気づけば、掃除機をかけ、机を拭き、本を揃えていた。
洗濯物まで綺麗に畳み終えてから、澪はふと手を止める。
自分が、男の人の部屋を普通に掃除している。
そのことに、今さら気づいた。
少し前までの自分なら、きっとこんなことしなかった。
澪は小さく息を吐く。
「……何やってるんやろ、私」
そう呟いて、少しだけ照れたように笑った。
澪は小さく息を吐き、机の上へ視線を向ける。
ユキの餌が入った棚の上に古い書類が何枚か重なっていた。
片付けようと思って手を伸ばす。
その時、一番上の紙が滑り落ちた。
拾い上げる。
何気なく目に入った文字に、澪の手が止まった。
“生活保護決定通知書”
一瞬、意味が入ってこない。
澪は静かに瞬きをする。
もう一度、紙を見る。
そこには、悠人の名前が書かれていた。
部屋の音が、急に遠くなる。
澪は慌てて書類を戻そうとした。
けれど、手が止まる。
重なった紙の隙間から、別の書類が見えた。
“収入申告書”
“就労支援”
“ケースワーカー”
見慣れた言葉が並んでいる。
澪はその場へ座り込んだまま、小さく息を呑んだ。
悠人は、働いていないとは言っていた。
同じ港街に暮らしていると知った時は、心を癒す為に、この街にやって来たと自分に言い聞かせていた。
けれど――
そこまで苦しい生活をしているとは思っていなかった。
澪は静かに部屋を見回す。
古い暖房。
少ない家具。
使い込まれたカーテン。
ずっと“質素な部屋”だと思っていた。
でも違った。
それは、自分と一緒、必要なものだけで、なんとか暮らしている部屋だった。
澪は唇を噛む。
胸の奥が、少し痛かった。
あの日。
自分は軽い気持ちで、海の写真見せた。
「一度、見に来ませんか」
そう言った。
けれど悠人は、その時どんな気持ちだったのだろう。
澪は急に、自分がひどく無神経だった気がした。
その時だった。
足元で、ユキが小さく身体を起こす。
眠そうに澪を見上げ、それから静かに近づいてくる。
白い鼻先が、澪の手へ触れた。
澪は我に返ったように、小さく笑う。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
澪はそっと書類を重ね直す。
見なかったことにするみたいに、静かに机の端へ戻した。
その時だった。
机の上へ置いていたスマートフォンが、小さく震える。
画面を見る。
悠人からだった。
澪は少し驚いたように目を瞬かせる。
メッセージを開く。
『ユキのこと、ほんとにありがとうございました。』
短い文章。
そのあと、もう一件届く。
『部屋が汚くって、ごめんなさい。』
澪はしばらく画面を見つめていた。
それから、小さく笑う。
窓の外では、遠くで波の音が静かに聞こえていた。
電車は、ゆっくり港町の駅へ滑り込んだ。
ブレーキの低い音。
揺れが、小さく止まる。
車内アナウンスが流れ、ドアが開いた。
その瞬間、潮の匂いがした。
冷たい海風が、ホームへ流れ込んでくる。
悠人は小さく息を吐いた。
見慣れた駅だった。
古い待合室。
色褪せた観光ポスター。
小さな売店。
何も変わっていない。
それなのに、少しだけ遠い場所へ戻ってきた気がした。
悠人はボストンバッグを持ち直し、駅前の和菓子屋へ立ち寄る。
小さな菓子折りを買って、そのままアパートへ向かった。
海沿いの道には、まだ少し雪が残っている。
遠くでカモメの鳴き声が聞こえた。
アパートへ着くと、悠人は、裏に回って大家の家の前で立ち止まる。
ガラス戸を軽く叩いた。
「すみません」
中から大家さんが顔を出す。
「ああ、木崎さん!」
ぱっと表情が明るくなった。
「戻ってきたんやね」
悠人は小さく頭を下げる。
「色々ありがとうございました」
菓子折りを差し出すと、大家さんは驚いたように笑った。
「そんな気ぃ遣わんでいいのに」
そう言いながらも、嬉しそうに受け取る。
それから、ふと思い出したように言った。
「水島さん、さっき帰ったとこだよ」
悠人の動きが少し止まる。
「毎日ちゃんと来て、ウサギの世話しとったよ。」
大家さんは感心したように頷いた。
「あの子、ほんと真面目で優しいねぇ」
それから、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「木崎さん、いいお友達できたねぇ……いや、彼女かな?」
悠人は一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑した。
「そんなんじゃないです」
空気が、少しだけ暖かくなった。
悠人は軽く頭を下げ、自分の部屋へ向かう。
鍵を開ける。
扉を開いた瞬間、少し驚いた。
部屋が綺麗だった。
テーブルの上も。
台所も。
散らかっていた本や書類まで、きちんと揃えられている。
窓際には、洗濯物まで綺麗に畳まれていた。
悠人は静かに部屋を見回す。
まだ少し、人の気配が残っている気がした。
机の上に、一枚のメモが置かれている。
丸い字だった。
『最近のユキ』
悠人はバッグを床へ置き、その紙を手に取る。
『ちゃんと食べてます』
『ウンチもオシッコもしています』
『元気です』
最後に、小さく。
『でも、たぶん寂しかったんだと思います』
悠人はしばらく、その文字を見つめていた。
それから静かにケージを開ける。
ユキがすぐ足元へ寄ってきた。
「……ただいま」
小さく呟く。
白い頭を撫でると、ユキは安心したみたいに目を細めた。
窓の外では、遠くで波の音が静かに聞こえていた。
悠人はふと机の上へ置いたスマートフォンへ視線を向けた。
佳菜子から返信が来ていた。
悠人は静かにそれを開く。
『それから、お父さん』
続きが表示される。
『お兄ちゃんがこうなった事も、後悔してた』
悠人の指が少し止まる。
部屋の中には、時計の音だけが小さく響いていた。
『悠人が大変な時に、何もしてやれなかったって』
『ずっと言ってた』
そのあと、少し時間を空けたみたいに、最後の一文が届く。
『でも、きっと誰も悪くないよね』
悠人はしばらく画面を見つめていた。
ユキが足元へ身体を寄せてくる。
その温かさを感じながら、悠人は小さく息を吐いた。
それから、ウサギが笑っているスタンプを一つだけ送る。
すぐに既読がついた。
けれど、それ以上の言葉はなかった。
悠人はスマートフォンを伏せ、窓の外を見る。
瓦葺きの屋根の間から見える海は、今日も鈍い色をしていた。
遠くで、カモメがゆっくり旋回している。
部屋の中には、静かな夕方の光が少しずつ広がっていた。




