春までの距離
再手術が終わって、ニ週間が経った。
その日、病院の外壁には朝の薄い光が静かに張りついていた。
母親は、少しだけ話せるようになっていた。
でも、意識が戻った時は、言葉もほとんど返せなかったらしい。
視線も合わず、呼びかけにも反応が薄かったと、看護師から聞いていた。
けれど最近は、問いかけへ短く返事をしたり、水が欲しいと自分で言える日もあるという。
ただ、記憶にはまだ混乱が残っていた。
昨日のことと何年も前のことが、曖昧に混ざってしまうらしい。
人の顔も、ときどき分からなくなる。
悠人は自動ドアの前で、一度だけ足を止めた。
白い息が、すぐ消える。
入口には大きく、
『感染症対策のため、面会は短時間・少人数でお願いします』
と書かれた張り紙が貼られていた。
悠人は、顔の半分が隠れるぐらいの大きさの白いマスクを耳にかけた。
受付で名前を書いて、面会許可証を首にかけてエレベーターへ乗る。
閉まる扉へ映った自分の顔は、少し疲れて見えた。
病室のある階へ着くと、廊下は静まり返っていた。
ナースステーションで看護師に声をかけて病室番号を確認しながら、ゆっくり歩いた。
足音だけが床へ小さく響く。
病室の前で立ち止まる。
ドアの横には、木崎明子と書かれた名札が掛かっていた。
悠人は小さく息を吸い、扉を開ける。
「失礼します……」
個室だった。
窓際のベッドに、母親が座っている。
ドアが開く音に反応して、窓の外をぼんやり見ていた母親が、ゆっくりこちらを向く。
その目が、悠人を捉える。
点滴の管が細い腕へ繋がっていた。
ベッドの上の母は、以前よりずっと小さく見えた。
肩は細くなり、頬も痩せている。
髪は短くまとめられていて、傷跡は髪に隠れて見えなかった。
顔の半分を覆う白いマスク。
そして――右目。
閉じたままの瞼には、まだ薄く赤みが残っていた。
悠人の呼吸が止まる。
記憶の中の母は、いつも忙しそうに家の中を動き回っていた。
階段の下から「悠人、佳菜子、起きなさい!」と大きな声で叫んでいた。
その面影が、目の前の姿とうまく結びつかない。
母親も、じっと悠人を見ていた。
けれど――
そこに浮かんだのは、戸惑いだった。
まるで、知らない相手を見るみたいな。
母親は小さく首を傾げる。
悠人は一瞬だけ言葉を失った。
喉が乾く。
それでも、静かに笑おうとした。
「……僕だよ」
母親は瞬きをする。
それから、困ったように視線を揺らした。
「……ごめんなさい」
掠れた声だった。
「どこかで……会いましたか……?」
悠人は、何も言えなくなる。
病室の時計の音だけが聞こえた。
秒針が、静かに時間を削っていく。
母親は不安そうに眉を寄せていた。
知らない人へ失礼がないようにしているみたいに。
悠人は小さく目を伏せる。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
自分の知っていたものが、静かに消えてしまった気がした。
悠人は短く息を吐き、もう一度だけ笑う。
「……そっか」
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「また、来るね」
母親は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
悠人は病室を出る。
扉が静かに閉まった。
廊下の窓から、薄い冬の光が差し込んでいる。
悠人はしばらく、その場で動けなかった。
消毒液の匂いだけが、静かな病院の中へ漂っていた。
実家へ戻る頃には、外はもう薄暗くなっていた。
玄関を開けると、暖房の熱と、味噌汁の匂いが静かに流れてくる。
父親は居間にいた。
ローテーブルの上には、病院の資料らしい封筒が置かれている。
テレビは点いていたが、音は消されていた。
悠人がコートを脱ぐと、父親は小さく顔を上げる。
「……会ってきたか」
悠人は短く頷いた。
それ以上、うまく言葉が出なかった。
父親も無理には聞かなかった。
しばらく、時計の音だけが部屋へ流れる。
やがて父親は、テーブルの封筒へ視線を落とした。
「今日、先生と話してきた」
低い声だった。
「今の病院は、長く置けんらしい」
父親は資料を一枚引き抜く。
それは、リハビリ専門病院の案内だった。
「身体だけやのうて……記憶とか、言葉とか、そっちのほうも時間かけて診なあかんて」
紙を見つめる父親の横顔は、ひどく疲れて見えた。
ここ何週間も、病院と仕事を往復している。
髪にも、少し白いものが増えていた。
「回復するにしても、すぐには無理みたいや……一生、介護かな」
それは、“前みたいには戻らないかもしれない”ことを、少しずつ受け入れ始めている声だった。
悠人が、ゆっくり顔を上げる。
「……そんな言い方するのやめて」
低い声だった。
父親は苦く笑う。
「そやけん、現実やろ」
その言葉に、悠人の表情が少しだけ強張った。
居間の空気が、静かに冷えていく。
悠人は黙ったまま座っていた。
ストーブの音が小さく鳴っている。
父親はしばらく黙ったあと、ゆっくり口を開く。
「お前は……港へ帰ってええぞ」
悠人が顔を上げる。
父親は視線を合わせないまま続けた。
「こっちは俺がいる、佳菜子もな」
短い言葉だった。
けれど、その中に色んなものが滲んでいた。
疲れ。
責任。
そして、息子をこれ以上ここへ縛りつけたくない気持ち。
悠人は小さく目を伏せる。
港町を離れてからの時間が頭を過った。
潮の匂い。
雪の積もる坂道。
あの静かなアパート。
ユキ。
そして、澪。
父親が湯呑みに手を伸ばす。
「お前も、向こうで生活あるだろ」
その言い方は、不器用だった。
帰れ、ではなく。
戻っていい。
そう聞こえた。
悠人はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……うん」
それだけ言う。
父親も頷いた。
テレビの黒い画面に、居間の灯りだけがぼんやり映っていた。
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
家の前の細い道に、くすんだ白い軽自動車が止まっている。
エンジンの低い振動だけが、静かな住宅街に小さく響いていた。
運転席には父親。
助手席には悠人が座っている。
膝の上には、小さなボストンバッグ。
窓の外では、佳菜子が玄関先に立ったまま、両手をぎゅっと握っていた。
「……ちゃんと食べるんだよ」
佳菜子が言う。
悠人は小さく笑った。
「子供じゃないって」
「そういう顔してないから言うんや」
少しだけ強い口調。
けれど、その声は泣きそうだった。
父親はハンドルに手を置いたまま、前を向いている。
「向こう着いたら連絡せぇよ」
「うん」
短いやり取り。
それだけなのに、車の中には妙な静けさが残った。
その時だった。
「あ、待って」
佳菜子が小走りで玄関へ戻る。
数秒後、両手で何かを抱えて戻ってきた。
助手席の窓が開く。
「これ」
渡されたのは、小さな写真立てだった。
去年の春。
川沿いの桜並木。
少し眩しそうに笑う母親。
その隣で不機嫌そうな顔をしている悠人。
後ろでは父親が缶ビールを持って笑っていて、佳菜子だけがカメラへ向かって大きく手を振っていた。
悠人の指が、写真立ての端を静かになぞる。
「……こんなん、あったんや」
「昨日、百均で写真立て買って、入れといた。」
佳菜子は少し笑って、それから言った。
「また、みんなでお花見いこう」
その言葉に、悠人はすぐ返事ができなかった。
ただ、小さく頷く。
父親が、わざとらしいくらい明るい声を出した。
「ほら、行くぞ」
キーを回す。
エンジン音が少し大きくなる。
父親は窓の外へ顔を向けた。
「駅前の薬局寄って、紙オムツ買うてくるわ」
佳菜子が、うん、と頷く。
車がゆっくり動き出す。
佳菜子は見えなくなるまで、その場から動かなかった。
春を予感させる薄い陽射しだけが、静かな家の前に残っていた。




