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壊れる前の景色

雪は、まだ静かに降り続いていた。

澪はマフラーへ口元を埋めたまま、足早に坂道を下っていく。

港町の朝は白く霞んでいた。

道路脇の植え込みにも、薄く雪が積もり始めている。

スマートフォンを握る手が冷たかった。

警察。

保護。

城山中央公園。

頭の中で言葉だけが何度も繰り返される。

澪は信号待ちで立ち止まり、小さく息を吐いた。

白い吐息が、すぐに雪へ溶けていく。

あの女のことを、“母”って呼んだの、いつが最後だっただろう。

ふと思う。

最近はもう、「あいつ」だった。

達也も美咲もそうだった。

雪を踏む音だけが、静かな朝へ続いていた。

城山中央公園は、白く煙ったみたいに静まり返っていた。

広場の遊具にも雪が積もり始めている。

子供の頃、何度も走り回った場所だった。

澪は濡れた階段を上がり、公園事務所へ向かう。

ガラス扉の向こうには暖房の灯りが見えていた。

ドアを開ける。

暖かい空気が頬へ触れた。

事務机の奥では、年配の警察官が書類を整理していた。

その手前の長椅子に、美咲が座っている。

スマートフォンを見ながら、足を組んでいた。

澪に気づくと、小さく顔を上げる。

少しだけ目の下に疲れが見える。

そして、澪は視線を奥へ向けた。

達也が、毛布に包まって椅子へ座っていた。

その隣に、母親がいる。

澪は小さく息を止める。

茶色い髪は、乱れ、目の下には濃い隈が出来ていた。

それでも達也の肩へ、上着を掛けてやっている。

達也は澪に気づくと、ぱっと顔を上げた。

「ああ」

その声だけは、いつもと同じだった。

達也はゆっくりと立ち上がり、澪の方へ寄ってくる。

「雪すごいよ! 公園、真っ白!」

澪は少しだけ目を細める。

「……そうだね」

思わず澪は、達也の髪を軽く撫でる。

冷たかった。

警察官が椅子から立ち上がる。

「見つかって良かったです」

穏やかな声だった。

「お母様もお兄さんも、特に怪我などはありません。ただ、かなり冷えておられましたので」

澪は小さく頭を下げる。

「ありがとうございました……」

警察官は書類を閉じる。

「少し休まれたので、落ち着いておられます」

そう言って、空気を読むように少し距離を取った。

事務所の中には、ストーブの音だけが響いている。

澪はゆっくり母親を見る。

母親も、こちらを見ていた。

その目は、もう強い怒気はなかった。

ただ、ひどく疲れている。

しばらく沈黙が続いた。

達也だけが、窓の外の雪を見ながら嬉しそうにしている。

やがて母親が、小さく口を開いた。

「達也……きっと、ここにいると思って」

掠れた声だった。

その横顔は、弱々しかった。

怒鳴る力すら、もう残っていないみたいだった。

澪は唇を小さく噛む。

責めたい気持ちがないわけじゃない。

男と消えた夜のこと。

お金をせびりに来る日のこと。

でも今、目の前にいるのは、ただ疲れ切った一人の女だった。

窓の外では、雪が静かに降っている。

達也がふいに振り返る。

「澪、帰ったら雪だるま作ろ」

無邪気な声だった。

澪は思わず、小さく笑ってしまう。

「うん……作ろうな」

達也が笑う。

その様子を見ながら、母親がほんの少しだけ目を細めた。

昔、家族四人で弁当を広げていた春の日みたいに。

ほんの一瞬だけ。

壊れる前の空気が、そこへ戻ってきた気がした。

澪は、雪の話をして笑っている達也を静かに見つめていた。

少し前までの達也は、もっと尖っていた。

すぐ怒鳴って。

壁を蹴って。

物に当たって。

誰にでも怒鳴り返すこともあった。

家の中へ、あの荒れた空気が広がるたび、澪はずっと気を張っていた。

でも今、目の前にいる達也は、拍子抜けするくらい幼かった。

雪を見てはしゃいで。

毛布へ包まって。

「雪だるま作ろ」と笑っている。

まるで、ずっと前の子供みたいだった。

澪は小さく目を伏せる。

怖かったのかもしれない。

母親がいなくなる夜。

帰ってこない朝。

知らない男の気配。

怒鳴り声。

散らかった部屋。

達也はずっと、家の中で怯えていたのかもしれない。

でも、男だから。

兄だから。

泣く代わりに、怒るしかなかった。

暴れることでしか、自分を守れなかった。

澪は静かに息を吐く。

達也は今、母親の隣へ座りながら、安心したみたいに雪を見ている。

それは多分、子供へ戻ったんじゃない。

ようやく、子供に戻れたのだ。

美咲は顔を伏せた。

誰も、その表情を見ていなかった。

長椅子の端へ座ったまま、その頬に涙が零れ落ちた。







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