雪になる前のこと
雨は、深夜になっても降り続いていた。
天気予報では、翌朝には雪にかわると言うことだった。
二階の自分の部屋。
悠人は古い机の前へ座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
『わかりました』
短い返信。
でも、その一文を見た瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
悠人は小さく息を吐く。
「……よかった」
誰にも聞こえない声だった。
ユキを一人にしなくて済む。
それだけじゃない。
澪が、ちゃんと部屋へ来てくれている。
ユキを見てくれている。
その事実が、不思議なくらい心を落ち着かせた。
机の隅には、小さな写真立てが置かれている。
悠人は何気なくそれを手に取った。
まだ子ウサギだった頃のユキ。
隣町のおばあちゃんから譲ってもらった子だった。
耳だけが大きくて、毛並みも今よりふわふわしている。
段ボール箱の中から顔を出している写真だった。
悠人は小さく笑う。
「……ちっちゃかったな」
写真の中のユキは、今よりずっと頼りなさそうだった。
それでも、初めて部屋へ連れて帰った日のことは、今でも覚えている。
ケージの隅で丸まっていた小さな命。
あの頃の自分も、今よりずっと危うかった気がする。
悠人は写真を机へ戻す。
窓の外では、雨粒が街灯に照らされていた。
しばらくぼんやりしていたが、喉が渇いていることに気づき、静かに部屋を出る。
階段を音を立てないように降りていく。
一階は薄暗かった。
キッチンの小さなテーブルだけに灯りがついている。
父親が、一人で缶ビールを飲んでいた。
父親は悠人に気づくと、小さく目を細めた。
「起きてたのか」
悠人は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、小さく頷く。
父親の前には、飲みかけの缶ビールが一本。
その横に、生命保険の書類が置かれていた。
悠人は椅子へ腰を下ろす。
少し迷ってから、静かに言った。
「……良かったね」
父親は一瞬だけ動きを止める。
それから、小さく笑った。
「ああ……」
掠れた声だった。
「まだ安心はできんけどな。でも、母さんが保険に入ってくれていて良かったよ。」
そう言いながらも、その顔には少しだけ力が抜けていた。
母親の手術代。
それが、頭から離れなかったのだろう。
父親は缶ビールを一口飲む。
それから、ぽつりと聞いた。
「お前は……最近どうなんだ」
悠人は少し驚いたように父親を見る。
こうして、親から自分の話を聞かれることは、昔からあまり好きではなかった。
父親は視線を缶へ落としたまま続ける。
「一人暮らし、ちゃんとやれてんのか」
悠人は少し考える。
麦茶の入ったコップを指先で回しながら、ゆっくり口を開いた。
「……なんとか」
父親は黙って聞いていた。
「海岸清掃のボランティア、今も参加してるし、週一くらいだけど。知り合いも増えた」
言いながら、自分でも少し不思議だった。
少し前の自分なら、そんな話を誰かへすることもなかった気がする。
父親は静かに頷く。
「そうか」
短い言葉。
でも、否定はしなかった。
悠人は少し視線を落とす。
それから、ぽつりと続けた。
「……あと、新しい友達も出来た」
父親が顔を上げる。
「友達?」
悠人は小さく頷いた。
「同じ動物好きの人」
澪の顔が浮かぶ。
雨の中。
静かな部屋。
ユキへ向ける優しい声。
『ユキちゃん……元気だよ』
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
父親はそんな悠人を見ながら、小さく笑った。
「……そうか」
その声は、どこか安心したみたいだった。
キッチンの窓の外では、まだ雨が降り続いている。
けれど家の中には、少しだけ穏やかな時間が流れていた。
澪が大家に鍵を返した頃には、雨は少しだけ弱くなっていた。
濡れたアスファルトに街灯の光が滲んでいる。
澪は白いマフラーへ顔を埋めながら、足早に家へ向かった。
古いアパートの階段を上がる。
玄関の灯りはついていた。
ドアノブを回すと、部屋の奥からテレビの音が聞こえてくる。
居間では、美咲がソファへ寝転びながらスマートフォンを見ていた。
テーブルの上には、食べかけのコンビニ弁当。
暖房はついているのに、部屋の空気はどこか冷えていた。
美咲は澪に気づくと、ちらりと顔を上げる。
「おかえり」
「……ただいま」
澪はコートを脱ぎながら、部屋の中を見渡した。
妙に静かだった。
「あいつ まだ 寝てんの?」
美咲はスマートフォンを見たまま答える。
「いなくなった」
澪の手が少し止まる。
「……また?」
「うん」
それだけだった。
美咲は特に慌てた様子もない。
テレビの光が、その横顔をぼんやり照らしている。
澪は小さく息を吐く。
母親が突然いなくなることは、今までも何度もあった。
数時間で戻る時もあれば、そのまま帰らないこともある。
昔は、そのたびに探し回っていた。
電話を掛けて。
近所を歩いて。
でも最近は、もうそんな気力も残っていなかった。
美咲が小さく肩をすくめる。
「また、新しい男できたのかな?」
どこか投げやりな声だった。
澪は何も言わない。
台所へ向かい、水を一杯飲む。
冷たい水が喉を通っていく。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
天気予報では、明け方には雪へ変わると言っていた。
澪はぼんやり暗い窓を見る。
それから、静かに目を伏せた。
翌朝。
雨は、静かに雪へ変わっていた。
港町の道路には、まだ薄く水気が残っている。
その上へ、細かな雪がゆっくり落ち続けていた。
澪はマフラーへ顔を埋めながら、アパートの階段を上がる。
吐く息が白い。
昨日より、ずっと寒かった。
澪は、大家から鍵を借りて、悠人の部屋に入った。
中はしんと静まり返っていた。
暖房の切れた空気は冷たい。
「おはよう、ユキちゃん」
澪が声を掛けると、ケージの中のユキが耳を動かした。
すぐに立ち上がり、柵の近くまで寄って来る。
澪は少しだけ笑った。
「覚えてくれてるんだ」
色褪せた黒いダウンジャケットを脱ぎ、部屋へ入る。
カーテンの向こうでは、雪が静かに降っている。
澪は、スマートフォンで動画を撮りながら、手慣れた様子で、ペットシートを替え、牧草を足し、水を入れ替えた。
ユキはその足元を落ち着かない様子でぴょんぴょん動き回っている。
部屋の中には、牧草を噛む小さな音だけが響いていた。
澪はコタツの横へ座る。
昨日、自分が寄り掛かって眠くなっていた場所。
不思議だった。
この部屋へ来ると、少しだけ呼吸が楽になる。
誰も怒鳴らない。
物を投げる音もしない。
ただ静かに時間が流れている。
澪はぼんやり雪を見つめる。
その時。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
それは、警察からだった。
澪は少し眉を寄せる。
「……はい」
電話の向こうで、落ち着いた男の声がする。
『港北警察署の者ですが、水島澪さんの携帯でお間違いないでしょうか』
澪の身体が、少しだけ強張った。
「はい……そうです」
『達也さんについて、お話したいことがありまして』
その名前を聞いた瞬間、部屋の空気が少し冷たくなった気がした。
ユキは何も知らず、牧草を噛んでいる。
澪は無意識にスマートフォンを握り直した。
『本日早朝、達也さんとお母様を保護しました』
澪は息を止める。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
「はい……で、母も?」
『はい。お二人とも、一緒におられました』
澪はしばらく言葉が出なかった。
警察官の声が続く。
『現在、城山中央公園で保護しています』
城山中央公園。
澪は小さく目を見開く。
子供の頃、家族で何度も行った場所だった。
春は桜が咲いて。
小さい頃の達也が走り回って。
母親が作った弁当を、四人で食べた。
もうずっと、行っていない場所。
澪はゆっくり目を伏せる。
どうしてそこにいたのか。
少しだけ、わかる気がした。
電話の向こうで、警察官が静かに続ける。
『お二人ともお疲れの様子ですので、ご家族の方に来ていただけますか。難しい場合は警察で保護いたします。』
澪は唇を小さく噛む。
コタツ。
静かな部屋。
ユキ。
白い雪。
その穏やかな空気へ、現実がゆっくり入り込んで来る。
澪は小さく息を吸った。
「いいえ……すぐ、行きます。」
その声は、自分でも驚くほど元気だった。
澪は一度、深く息を吸った。
ユキのいる部屋。
静かなコタツ。
雪の降る窓。
その全部を背中に残したまま、スマートフォンを握り直す。
画面には「美咲」の名前。
指が、一瞬だけ止まる。
こういう電話は、いつも少し遅れてしまう。
言葉を選ぶ余裕がないまま、現実だけが先に来る。
澪は通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、少しだるそうな声が返ってくる。
「……なに」
テレビの音がうっすら混ざっていた。
まだ、家にいるらしい。
澪は一度だけ言葉を飲み込んでから、口を開いた。
「今、警察から電話あった」
「……警察?」
美咲の声が、ほんの少しだけ変わる。
それでも、驚ききってはいない声だった。
澪は続ける。
「達ちゃん……見つかったって」
一瞬、間が空いた。
テレビの音だけが、その隙間を埋めている。
「そう」
その声には、安堵とも驚きとも言えない、曖昧な疲れが混じっていた。
「それが、あいつも一緒にいるらしい。」
「えっ?」
澪は黙る。
美咲は少しだけ間を置いてから、続けた。
「それで、どこで?」
「城山中央公園」
澪はスマートフォンを握り直す。
「警察、来てほしいって」
美咲は少しだけ沈黙してから、あくび混じりに言った。
「……わかった。自転車で行く」
「うん。あんたの方が早いかもしれんけど、私もこれから行く。」
短く返して、通話を切る。
画面が暗くなる。
澪はスマートフォンをポケットにしまい、しばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋の中は、変わらず静かだった。
ユキはケージの中で丸くなりかけていたが、澪の気配に気づくと、また小さく動き始める。
牧草を噛む音だけが、やわらかく響いている。
澪はその前にしゃがみ込んだ。
少しだけ迷ってから、ケージ越しにユキを見る。
「……ごめんね」
小さな声だった。
何に対しての謝罪なのか、自分でもはっきりしていない。
でも、今この部屋を離れることだけは、確かに“途中”のように感じられた。
ユキは何も気にせず、鼻をひくつかせている。
澪は少しだけ息を吐いた。
そして、かすかに笑う。
「また明日も来るね」
その言葉は、約束というより、自分に言い聞かせるような響きだった。
ユキは小さく跳ねるように動いて、また牧草へ顔を戻す。
澪は立ち上がって、ドアの前で一度だけ振り返る。
雪の光に包まれた部屋の中は、さっきと同じように静かだった。
ユキが動く小さな音だけが、生きている証みたいに残っている。
澪はドアを開けた。
冷たい空気が頬を刺す。
そして、階段を駆け降りていった。




