帰りたくない夜
ユキが、牧草を小さく噛む音だけが聞こえていた。
澪はゲージの前へしゃがみ込んだまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
さっき撮った動画。
ペットシート。
牧草。
水。
最後に、自分の声。
『ユキちゃん……元気だよ』
澪はスマートフォンをゆっくり伏せる。
部屋は静かだった。
古い冷蔵庫の低い音。
暖房の弱い風。
窓を叩く冬の雨。
それだけしか聞こえない。
ふと、澪は自分が男の部屋にいると言うことに気づいた。
澪にとってそれは初めての経験だった。
学生の頃も、誰かと付き合ったことはなかった。
そんな余裕が、ずっと無かった。
母親のこと。
荒れていく兄。
ぐれていく妹。
家へ帰れば、いつも誰かの問題があった。
生活保護の手続き。
病院。
薬。
怒鳴り声。
パトカーのサイレン。
気づけば、自分の人生より、家族が壊れないように支えることで精一杯だった。
友達が恋愛の話をしていても、どこか別の世界のことみたいだった。
好きな人を作るとか。
誰かと出掛けるとか。
そういう普通の時間が、自分には最初から存在していない気がしていた。
だから今、自分がこうして一人で男の部屋にいることが、不思議だった。
少し前の自分なら、きっと落ち着かなかったと思う。
怖かったかもしれない。
変に意識して、すぐ帰ろうとしていたかもしれない。
でも今は、不思議とそういう感情がなかった。
悠人の部屋には、どこか安心する静けさがあった。
生活の匂い。
小さな暖房。
積まれた薬。
ユキが牧草を食べる音。
誰かが無理をしながら、それでもちゃんと暮らしていた痕跡。
それは、自分と一緒。
澪はぼんやり天井を見上げる。
この部屋には、誰かを傷つける空気がなかった。
それが、少しだけ救いみたいに感じた。
澪はぼんやり部屋を見渡した。
小さなテーブル。
畳の隅へ置かれたスーパーの袋。
飲みかけのペットボトル。
机の上には、お薬手帳の上に病院の領収書が重なっている。
それは、ちゃんと生きようとしていた跡だった。
澪は静かに目を伏せる。
悠人からのメッセージは、いつも穏やかだった。
でも、それは余裕があったからじゃない。
苦しくても、壊れそうでも、誰かへ優しくしようとしていただけだった。
そのことが、今になって少しわかる。
ユキが、鼻をひくひく動かしながら澪を見る。
澪は小さく笑った。
「……ちゃんと食べてるね」
その声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
部屋の中には、誰もいない。
なのに、不思議と息苦しくなかった。
怒鳴り声もない。
突然、物音が響くこともない。
澪はゆっくりコタツへ近づく。
電源は切れていたが、毛布だけが掛かったままになっていた。
少し迷ってから、澪はそこへ座る。
じわりと、身体の力が抜けていく。
疲れていた。
思っていた以上に。
達也が消えて。
母親が転がり込んで来て。
眠れなくて。
呼吸も苦しくて。
ずっと、気を張っていた。
澪は壁へ背中を預ける。
窓の外では、まだ雨が降っている。
その音を聞いているうちに、少しずつ瞼が重くなっていった。
安心すると、人は眠くなるんだ。
澪はぼんやり、そんなことを思った。
夜の雨は、まだ静かに降り続いていた。
実家へ戻る頃には、もう日付が変わりかけていた。
木造の古い一軒家。
濡れた玄関灯。
父親は車を降りると、小さく咳をした。
その背中は、少し前より小さく見えた。
佳菜子は黙ったまま、その背中を見つめている。
母親の入院。
会社への報告。
病院の往復。
ずっと気を張り続けているのだろう。
父親は疲れ切っていた。
玄関の鍵を開けながら、父親がぽつりと言う。
「……明日も朝から病院行って来る」
掠れた声だった。
悠人は何も言えず、小さく頷く。
居間へ入ると、暖房の弱い匂いがした。
誰もテレビをつけない。
静かな家だった。
父親はそのまま椅子へ腰を下ろす。
深く息を吐いたまま、しばらく動かなかった。
佳菜子が小さく視線を落とす。
それから、悠人の方を見る。
「……ねえ」
悠人は顔を上げる。
佳菜子は少し迷ったあと、小さく言った。
「暫く、家にいてよ」
悠人は黙ったまま妹を見る。
佳菜子は無理に明るく笑おうとした。
「私も学校あるし、父さん、一人だと無理しそうだし」
言いながら、父親の方を見る。
父親は俯いたまま、眠ってしまいそうな顔をしていた。
佳菜子は少し声を落とす。
「……ちょっと怖い」
その言葉だけは、本音だった。
悠人はしばらく何も言わなかった。
窓の外では、雨の音が続いている。
病院。
母親。
実家。
そして、港町のアパート。
ユキ。
澪。
色んなものが胸の中で静かに揺れていた。
悠人はゆっくり目を伏せる。
それから、小さく頷いた。
「……わかった」
佳菜子は少しだけ安心したみたいに息を吐いた。
その横で、父親は椅子へ座ったまま、小さく寝息を立て始めていた。
父親を起こさないように、悠人は静かに立ち上がった。
居間の隅。
白いレースのカーテンの向こうでは、まだ雨が降っている。
悠人はスマートフォンを取り出す。
澪から送られて来た動画を、もう一度再生した。
ピョンピョンと部屋の中を動き回るユキ。
少し揺れる画面。
『ユキちゃん……元気だよ』
その短い声を聞くだけで、胸の奥が少し温かくなる。
悠人は小さく息を吐く。
それから、ゆっくり文字を打ち始めた。
『ありがとう。動画、すごく安心しました』
少し迷う。
指が止まる。
本当は、これ以上頼ってはいけない気もした。
澪だって、今は大変なはずだから。
でも。
ユキを一人にしたくなかった。
それに――。
悠人は静かに目を伏せる。
もう少しだけ、澪と繋がっていたかった。
震える指で、続きを打つ。
『母の入院が長引きそうなので、もし大丈夫なら、もう少しの間、ユキのことお願いできますか』
送信ボタンを押す。
既読は、すぐにつかなかった。
悠人はスマートフォンを握ったまま、暗い窓の外を見る。
雨の音だけが聞こえていた。
その頃。
澪は悠人の部屋のコタツへ寄り掛かったまま、ぼんやりとゲージの中で丸まっているユキを眺めていた。なぜか、まだ帰る気になれなかった。帰りたくなかったかもしれない。
静かな部屋。
それが、不思議と心地良かった。
その時。
スマートフォンが小さく震える。
澪はゆっくり画面を見る。
悠人からだった。
メッセージを開く。
『ありがとう。動画、すごく安心しました』
その一文だけで、胸の奥が少し熱くなる。
澪は続きを読む。
『母の入院が長引きそうなので、もし大丈夫なら、もう少しの間、ユキのことお願いできますか』
澪はしばらく画面を見つめていた。
小さく息を吐く。
それから。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
他人から頼られている。
必要とされている。
そんなこと、いつ以来だったのか、自分でもわからなかった。
窓の外では、まだ冷たい雨が降っていた。
でも澪の胸の奥には、小さな灯りみたいなものが、静かに残っていた。
澪はスマートフォンを両手で持ったまま、しばらく画面を見つめていた。
不思議だった。
本当なら、自分にもそんな余裕はないはずなのに。
達也はまだ戻らない。
母親も、美咲も不安定なまま。
自分だって、いつまた呼吸が苦しくなるかわからない。
それでも。
この部屋へ来て。
ユキの世話をして。
悠人からのメッセージを読んでいると。
少しだけ、自分がちゃんと誰かの役に立てている気がした。
ユキが、カサカサと牧草を噛む。
澪はその音を聞きながら、小さく目を伏せる。
それから、ゆっくり文字を打ち込んだ。
『わかりました』
短い文章。
でも今度は、少しだけ気持ちが違っていた。
澪は送信ボタンを押す。
画面の中に、小さく「送信しました」と表示される。
澪はスマートフォンを胸の上へ置いた。
窓の外では、まだ雨が降っている。
けれど、この静かな部屋の中だけは、ほんの少しだけ温かかった。




