小さな返事
また、降り出した冷たい雨が、フロントガラスを細かく叩いていた。
ワイパーが一定のリズムで水滴を掻き分けていく。
灰色の空。
濡れた国道。
古びた軽自動車は、故郷の街を静かに走っていた。
運転席には父親。
疲れた横顔のまま、前だけを見つめている。
後部座席では、佳菜子が毛布へ包まったまま眠っていた。
助手席の悠人は、ぼんやり窓の外を眺めていた。
懐かしい街だった。
小さい頃、母とよく遊んだ公園。
雨に濡れたブランコが、誰もいないまま揺れている。
あの頃の母は、頭に白髪もなかった。
笑っていた。
転んだ悠人の膝へ絆創膏を貼りながら、困ったみたいに笑っていた。
車はゆっくり交差点を曲がる。
今度は、スーパーの看板が見えた。
子供の頃、母と買い物へ来た場所だった。
お菓子売り場で駄々をこねて。
安いスナック菓子を一つだけ買ってもらって。
帰り道、嬉しくて袋を抱えたまま歩いた記憶。
そんな小さな景色ばかりが、雨の向こうに浮かんでは消えていく。
やがて車は、中学校の前を通り過ぎた。
濡れた校門。
卒業式の日。
母と並んで撮った写真。
少し照れ臭そうに笑う自分。
その隣で、泣きそうな顔をしていた母。
悠人は静かに目を伏せる。
胸の奥が、重かった。
病院へ向かっている。
再手術。
本当は怖かった。
もし、このまま――。
そこまで考えた瞬間。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。
悠人の肩が反射的に揺れる。
急いで取り出して画面を見る。
表示された名前を見て、悠人は息を止めた。
澪。
震える指で、メッセージを開く。
短い文章。
『わかりました』
それだけだった。
それだけなのに。
悠人はしばらく画面を見つめていた。
力が抜けそうになる。
ユキは、一人じゃない。
誰かが見てくれる。
それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
悠人はスマートフォンを両手で握り締める。
まるで、祈るみたいに。
窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。
冷たい雨が、古い住宅街を静かに濡らしていた。
細い路地。
ひび割れたブロック塀。
薄暗い街灯の下を、澪はスマートフォンを握り締めたまま歩いていた。
画面には、悠人から送られて来た住所。
何度も地図を見返しながら、濡れた坂道を進んでいく。
息が白かった。
ダウンジャケットの肩は、もう雨で重くなっている。
澪はこの街で生まれ育ったが、この地区に来るの初めてだった。
古いアパート。
閉まったクリーニング屋。
赤提灯だけが灯る小さな居酒屋。
どこか、悠人の雰囲気に似ている街だと、澪はぼんやり思った。
静かで。
少し寂れていて。
やがて、細い路地の奥に、古びた二階建てのアパートが見えた。
青い外壁は色褪せている。
階段には雨水が流れていた。
澪は足を止める。
ここだ。
二階の端。
悠人の部屋番号。
ベランダには、小さな洗濯物干しが見えた。
澪は小さく息を吐く。
その時、ふとメッセージの最後を思い出した。
『大家さんが裏に住んでます』
澪はアパートの横へ回る。
裏手には、小さな平屋が建っていた。
黄色く古びた玄関灯。
植木鉢。
雨に濡れた軽トラック。
澪は少し迷ってから、呼び鈴を押す。
しばらくして、引き戸がゆっくり開いた。
出て来たのは、小柄な老人だった。
白い髪。
ベージュの厚いカーディガン。
眠そうな目のまま、澪を見る。
そして、穏やかに言った。
「……水島さんですか?」
澪は一瞬、言葉を失った。
どうして、自分の名前を知っているんだろう。
胸の奥が小さくざわつく。
老人はそんな澪の反応を気にした様子もなく、小さく頷いた。
「木崎さんから、連絡もらってます」
そう言って、壁へ掛けてあった鍵を手に取る。
銀色の古い合鍵。
「ウサギの世話、お願いされたんでしょう」
澪は少し遅れて、小さく頭を下げた。
「……はい」
老人は静かに鍵を差し出す。
「何かお母さんが交通事故で入院したとか」
ぽつりと呟く。
澪は何も答えられなかった。
ただ、濡れた指で鍵を受け取る。
冷たかった。
「階段、滑るから気をつけてな」
「……ありがとうございます」
澪はもう一度頭を下げる。
それから鍵を握り締めたまま、雨の中の古いアパートへ向かって歩き出した。
診察が終わって閑散とした待合室。
看護師の足音が、やけに大きく聞こえる。
長椅子へ並んで座ったまま、悠人は俯いていた。
両手を組み、親指だけが落ち着きなく動いている。
隣では父親が無言で前を見つめていた。
佳菜子は、じっと膝だけを見つめている。
誰も喋らなかった。
何を話せばいいのか、わからなかった。
長い時間だけが過ぎていく。
やがて。
足音が近づいて来た。
悠人の肩が小さく揺れる。
少しして、看護師が静かに近づいて来た。
「木崎さんのご家族の方ですか?」
父親が立ち上がる。
「手術が終わりました。先生からお話がありますので、こちらへお願いします」
その言葉だけで、胸が苦しくなる。
悠人は立ち上がりかけたが、足が止まった。
怖かった。
もし、悪い話だったら。
隣を見ると、佳菜子も青ざめた顔のまま俯いている。
父親は二人を見て、小さく言った。
「……俺だけ行って来る」
悠人は何も言えなかった。
ただ、小さく頷く。
父親はそのまま診察室へ入って行った。
静かな廊下。
悠人と佳菜子は、その背中を見つめることしか出来なかった。
佳菜子はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言う。
「……あたしね」
悠人は顔を上げる。
佳菜子は俯いたまま続けた。
「来年、看護学校、受けようと思ってる」
悠人は少し驚いた顔をした。
佳菜子は自嘲気味に笑う。
「別に、立派な理由とかじゃないけど、何か人の役に立つ仕事がしたくなって」
細い声だった。
でも、その言葉はちゃんと前を向いていた。
悠人はしばらく何も言えなかった。
やがて、小さく頷く。
「……佳菜子なら、向いてると思う」
佳菜子は少しだけ目を丸くする。
「それどう言う意味?」
「気が強いから。」
「何それ!」
佳菜子は怒った顔で悠人を見た。
「お母さん、良く言ってた、佳菜子の血の半分、悠人にあげてって。」
「何それ!」
その時。
廊下の先から父親が歩いて来た。
疲れ切った顔だった。
でも。
さっきより少しだけ、表情が緩んでいた。
悠人と佳菜子が立ち上がる。
父親は二人を見る。
そして、小さく息を吐いた。
「……一応、出血は止まったらしい」
悠人の肩から、力が抜ける。
「手術は成功だってよ」
佳菜子がその場へ座り込んで、口元を押さえる。
悠人も俯いたまま、深く息を吐いた。
張り詰めていたものが、少しだけほどけていく。
窓の外では、まだ冬の雨が降っていた。
その帰り道。
車は、濡れた夜道を静かに走っていた。
後部座席では、佳菜子が眠っている。
助手席の悠人は、ぼんやり窓の外を見ていた。
街灯が雨粒へ滲んで流れていく。
その時。
スマートフォンが、小さく震えた。
悠人はゆっくり画面を見る。
澪からだった。
動画が一件。
悠人は少し迷ってから再生する。
薄暗いアパートの部屋。
ユキのゲージ。
澪がペットシートを交換している。
慣れた手つきだった。
牧草を新しく入れて。
水を替えて。
ユキが鼻をひくひく動かしている。
最後に、画面が少し揺れる。
澪がスマートフォンを持ち直したのだろう。
小さく、掠れた声が入る。
「ユキちゃん……元気だよ」
短い動画だった。
それだけだった。
でも。
悠人はスマートフォンを握ったまま俯く。
気づけば、涙が落ちていた。
声は出なかった。
ただ静かに、涙だけが止まらなかった。




