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雨の中の訪問者

達也が行方不明になって、三日が経っていた。

澪が最後に見たのは、部屋で、もごもごと独り言を言っている姿だった。

何を言ってるのか、わからなかったが、それは何時ものことだった。

精神が不安定だった達也は、突然、部屋を飛び出す事が何度かあった。

だが、今回は違った。

スマートフォンも繋がらない。

行きそうな場所にもいない。

警察には捜索願を出している。

それでも、まだ何の連絡もなかった。

夜の港町は、冷たい雨が降っていた。

駅から続く濡れた道路を、澪は俯いたまま歩いている。

白い息。

濡れたスニーカー。

もう何時間、達也を探して歩いたのか、自分でもわからなかった。

電車に乗って隣街にも行った。

達也が行きそうな場所は、もう全部回った。

アパートの古い階段を上がる。

二階の廊下には、湿った潮風が吹き込んでいた。

澪が鍵を回す。

狭い部屋の中は暗かった。

「……ただいま」

返事はない。

その代わり、シロが尻尾を振って寄って来た。

「ごめんね。お腹すいてるよね。」

少しして、美咲が姿を見せる。

コンビニの袋をぶら下げていた。

髪は雨で濡れている。

「……見つからなかった」

美咲は小さく首を横に振った。

澪も何も言えない。

部屋の空気だけが重く沈んでいる。

テーブルの上には、飲みかけのカップ麺が置かれたままだった。

達也が最後にいた夜から、そのまま。

暖房の切れた部屋は冷え切っている。

モカはゲージの中で丸まっている。

お腹が減っていたチャコはコタツの中から出て来た。

美咲がコンビニ袋から缶コーヒーを取り出した。

「警察……何かあったら連絡するって」

「……そっか」

澪は上着も脱がず、その場へ座り込む。

美咲が缶コーヒーを一本、澪の前へ置く。

冷えたテーブルの上で、小さく音がした。

「……あいつには言ったの?」

澪はしばらく黙ったまま、俯いていた。

シロが足元へ身体を擦り寄せて来る。

「……一応」

掠れた声。

美咲は黙って続きを待った。

「達ちゃん……あいつの所に行くかもしれないって思ったから」

部屋の空気が、少しだけ重くなる。

コタツから出て来たチャコが、ゆっくり澪の膝へ飛び乗った。

澪はその背中をぼんやり撫でる。

「殺しに行くかもしれないって?」

美咲が静かに言った。

澪は答えない。

けれど、その沈黙だけで十分だった。

雨の音だけが、古い窓を細かく叩いている。

「で……なんて?」

「黙って、切られた」

澪は小さく笑った。

乾いた、疲れた笑いだった。

美咲が目を伏せる。

暖房の切れた部屋で、缶コーヒーの湯気だけがゆっくり揺れている。

澪はスマートフォンを握りしめたまま、小さく呟いた。

「……達ちゃん、どこ行ったんだろ」

その時だった。

コンコン――。

突然、部屋のドアが小さく叩かれる。

澪と美咲の動きが止まった。

シロが低く鼻を鳴らす。

雨の音に混じって、もう一度だけノックが響く。

コンコン――。

美咲が顔を上げた。

「……どなたですか?」

返事はない。

ただ、廊下の向こうで雨音だけが続いている。

澪はゆっくり立ち上がった。

胸の奥が、少しだけざわつく。

もしかしたら。

達也かもしれない。

何も言えないまま帰って来たのかもしれない。

澪は急ぐように玄関へ向かう。

ドアノブを握る手が冷たかった。

鍵を外す。

古い扉を開ける。

そこに立っていたのは、母親だった。

濡れた髪。

崩れた化粧。

薄いコートは雨を吸って黒くなっている。

タバコの匂いが、湿った空気と一緒に流れ込んだ。

母親は澪を見る。

その目だけが妙に赤かった。

「……達也、帰っとる?」

掠れた声だった。

澪は何も言えない。

背後では、美咲も黙ったまま立ち尽くしていた。

美咲がゆっくり立ち上がる。

その目だけが冷えていた。

「……何しに来たん?」

母親は答えない。

濡れた前髪の隙間から、虚ろな目だけが覗いている。

美咲は小さく舌打ちした。

「また、金か?」

「……」

「こんな大変な時に?」

母親は何も言わなかった。

ただ、俯いたまま玄関の外に立っている。

雨水がコートの裾からぽたぽた落ちていた。

美咲は呆れたように息を吐く。

「ほんと最低……」

澪は黙ったまま母親を見ていた。

暗い廊下。

震える肩。

濡れた指先。

昔から嫌いだった。

何度も振り回された。

何度も傷つけられた。

それでも。

今、目の前に立っているその姿は、どこか壊れかけて見えた。

「……そんなとこいたら寒いから」

澪が小さく言う。

「入って」

母親は動かない。

返事もしない。

まるで、自分がここへ来ていいのかさえわからないような顔だった。

雨音だけが静かに続いている。

澪はゆっくり玄関へ降りると、母親の冷えた手を掴んだ。

驚くほど冷たかった。

「ほら」

半ば無理矢理に、その身体を部屋の中へ引っ張る。

母親は抵抗しなかった。

ただ力の抜けた身体が、小さくよろける。

その瞬間、シロが不安そうに一声だけ鳴いた。

暖房の切れた部屋の空気が、少しだけ揺れた。

母親は、部屋へ入ってからもしばらく玄関の近くに立ったままだった。

澪はそんな母親を見て、小さく言う。

「……座れば?」

母親はゆっくり顔を上げた。

疲れ切った目だった。

それでも何も言わず、重たい足取りでコタツの端へ腰を下ろす。

シロが少し警戒するように母親を見ていた。

部屋には古い冷蔵庫の音だけが響いている。

誰も、しばらく何も話さなかった。

やがて、美咲が苛立ったように口を開く。

「……また、男に捨てられたんか?」

低い声だった。

母親の肩がわずかに動く。

けれど、何も言わない。

「ほんま、学習せぇへんな」

母親は俯いたままだった。

濡れた髪の隙間から、水滴がぽたりと落ちる。

反論もしない。

怒鳴り返しもしない。

それが逆に、美咲を苛立たせていた。

「何か言いなよ!」

掠れた声が、狭い部屋へ沈む。

澪は台所へ立っていた。

古い電気ケトルの湯気が白く揺れている。

戸棚から湯呑みを取り出し、静かにお茶を注ぐ。

その音だけが、小さく響いた。

澪は何も言わないまま、母親の前へ湯呑みを置く。

「……熱いから気をつけて」

母親はゆっくり顔を上げた。

赤く腫れた目。

疲れ切った顔。

その視線が、湯気の立つ湯呑みへ落ちる。

しばらくして。

「……ごめん……」

小さな声が漏れた。

次の瞬間、母親の肩が震え始める。

声を押し殺すように、シクシクと泣き出した。

まるで子供みたいな泣き方だった。

美咲は目を逸らす。

澪は何も言わず、ただ黙って座っていた。

母親の泣き声だけが、小さく部屋に響いていた。

シロは不安そうにコタツの横へ伏せている。

チャコは澪の膝の上で丸くなっていた。

ゲージの中のモカの耳がピクリと動いた。

古い窓の向こうでは、まだ雨が降り続いている。

美咲は何も言わず、缶コーヒーを両手で握ったまま俯いていた。

澪はしばらく黙って母親を見ていた。

濡れた髪。

震える肩。

小さくなった背中。

昔は、もっと大きく見えた気がした。

澪は静かに口を開く。

「……帰るとこないんやろ?」

母親の肩が小さく止まる。

「外、まだ雨降っとるし」

澪は達也の部屋の閉まった扉を見る。

三日前から、ずっとそのままの部屋。

「丁度、達ちゃんの部屋あいてるから……泊まっていったら?」

母親は何も答えなかった。

ただ俯いたまま、シクシクと泣き続けている。

その姿を見ながら、美咲はゆっくり目を閉じた。

誰も救われていない。

それでも今夜だけは、誰も外へ追い出せなかった。

冬の港町に降る雨は、まだ止みそうになかった。





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