待ち続けた部屋
病院の外は、冬の朝が白く滲んでいる。
しばらくは、予断を許さないと、医者は淡々と言った。
それでも、“助かった”と、悠人は小さく息を吐いた。
家族の間で、張り詰めていたものが少しだけ切れる。
佳菜子も椅子に座ったまま、力が抜けたように俯いていた。
眠っている母親の顔を少しだけ見てから、三人は一度、家へ戻ることにした。
久しぶりに実家に帰った悠人は、重たい足取りのまま階段を上がった。
古い木の階段が、小さく軋む。
二階の廊下。
薄暗い窓の向こうでは、冬の空が静かに暮れ始めていた。
悠人は、自分の部屋の前で立ち止まる。
しばらく動かなかった。
ドアノブへ伸ばした指先が、少しだけ止まる。
この部屋へ入るのは、いつぶりだったのか。
もう思い出せなかった。
ゆっくり扉を開ける。
微かな洗剤の匂いがした。
部屋の中は、驚くほど綺麗だった。
埃一つない机。
整えられたベッド。
本棚には、昔読んでいた漫画が順番通りに並んでいる。
棚の上には、学生の頃に集めていた古いフィギュア。
窓際には、少し色褪せたクッション。
何も変わっていなかった。
まるで。
時間だけが、この部屋から止まってしまったみたいに。
悠人はゆっくり部屋へ入る。
床が小さく軋んだ。
机の前で立ち止まる。
そこに置かれていた写真立てへ、視線が吸い寄せられた。
ユキだった。
この家に来たばかりの子ウサギの頃。
海沿いで撮った、昔の写真。
悠人の指先が、そっと写真立てへ触れる。
胸の奥が、小さく痛む。
「……そのままやろ」
後ろから声がした。
振り返ると、廊下に佳菜子が立っていた。
病院に駆けつけてた時に着ていた高校の制服姿のまま、壁へ肩を預けている。
「お母さんな」
佳菜子は静かに部屋を見渡した。
「兄ちゃん、いつ帰って来てもええようにって」
小さく笑う。
「毎日、掃除しとったんよ」
悠人は何も言えなかった。
佳菜子はゆっくり部屋へ入って来る。
ベッドの皺を軽く手で伸ばしながら、小さく息を吐いた。
「ほんま頑固やから」
少し困ったような笑いだった。
「もう帰ってこんかもしれんのにって言っても、“あの子は帰って来るから”って」
悠人は俯いたまま、ユキの写真を見ていた。
言葉が出なかった。
ずっと逃げていた。
この家からも。
家族からも。
自分の事だけしか考えていなかった。
それでも。
母は自分のことを信じてくれていた。
静かな部屋に、外を走る車の音だけが遠く聞こえる。
佳菜子がぽつりと言う。
「……お母さん、昨日の朝も掃除しとったで」
悠人の肩が小さく動く。
「窓開けて、“寒っ”とか言いながら」
佳菜子は少しだけ笑った。
けれど、その目は赤かった。
「アホやろ」
掠れた声だった。
悠人はゆっくり椅子へ腰を下ろす。
机の上には、小さな埃一つなかった。
その綺麗さが、逆に苦しかった。
悠人は両手で顔を覆う。
俯いたまま、小さく息を吐いた。
夕暮れの光が、静かな部屋へゆっくり伸びていた。
居間には、スーパーの弁当の匂いが広がっていた。
テーブルの上には、半額シールの貼られた唐揚げ弁当と焼き魚弁当。
味噌汁だけは、父親が作ったらしかった。
誰もあまり喋らなかった。
テレビもついていない。
箸の当たる小さな音だけが、静かな居間へ響いていた。
悠人が実家で食事をするのは、久しぶりだった。
味なんて、ほとんどわからない。
それでも、温かかった。
佳菜子は疲れ切った顔のまま、黙々と弁当を食べている。
父親だけが時折、無理に普通を装うように口を開いた。
「病院の売店、高いんよな」
小さく笑う。
誰も笑わなかった。
気まずそうに、父親は麦茶を飲む。
窓からは、冬の弱い日差しが薄いレースのカーテンを照らしている。
悠人は箸を止めた。
ふと、頭に浮かぶ。
アパート。
冷たい部屋。
一人残されたユキ。
朝から何も食べていないかもしれない。
トイレもそのままのはずだった。
悠人は小さく息を吐く。
「……俺、一回アパート戻るわ」
父親と佳菜子が顔を上げた。
「ユキ、置いたままやし」
悠人は視線を落としたまま続ける。
「餌も……トイレも、そのままやから」
父親はしばらく黙っていた。
疲れた顔のまま、味噌汁の湯気を見つめている。
「……そうか」
小さく頷いた、その時だった。
テーブルの上のスマートフォンが震える。
父親が画面を見る。
病院。
空気が変わった。
父親がすぐ電話へ出る。
「はい……木崎です」
悠人と佳菜子は、黙ったまま父親を見ていた。
父親の表情が、少しずつ固まっていく。
「……はい」
低い声。
「そう……ですか」
佳菜子の顔色が変わる。
悠人の胸の奥がざわついた。
父親はしばらく無言で話を聞いたあと、小さく頭を下げるように言った。
「お願いします……」
通話が切れる。
居間が静まり返った。
父親はスマートフォンをゆっくり置く。
「……検査で、また出血しとるらしい」
掠れた声だった。
「これから、もう一回手術するって」
佳菜子が小さく息を呑む。
悠人は何も言えなかった。
窓の外を、遠く救急車の音が走って行く。
誰も動けなかった。
テーブルの上の弁当だけが、少しずつ冷えていく。
しばらくして。
悠人はゆっくりスマートフォンを手に取った。
指が止まる。
澪の名前。
音信不通になってから、もう連絡してはいけないと思っていた。
それでも。
悠人は小さく息を吐き、メッセージ画面を開く。
震える指で、ゆっくり文字を打ち込んでいく。
アパートの住所。
裏の大家が合鍵を持っていること。
ユキの餌の場所。
トイレの砂。
それから。
迷ったあと、自分の電話番号を書いた。
最後に、短く。
『突然、ごめんなさい。急に母が入院して、今、実家に帰ってます。暫く帰れないので、ユキのこと、お願いできますか』
送信ボタンを押す。
小さな送信音だけが、静かな居間に響いた。
悠人はスマートフォンを伏せる。
返事なんて、来ないかもしれない。
その時は、ユキの生命力に頼るしかない。
冬の午後は、短かった。




