まだ終わらない夜
冬のホームへ、冷たい風が吹き込んでいた。
悠人はスマートフォンを握ったまま、落ち着かない視線で線路の先を見る。
次の電車まで、あと一分。
遠くで、レールが小さく軋む音がした。
やがて、白いヘッドライトが暗くなり始めた空の向こうに現れる。
電車がゆっくりホームへ滑り込んできた。
ブレーキの金属音。
開くドア。
降りてくる人々。
仕事帰りらしい会社員。
買い物袋を持った女性。
制服姿の高校生。
悠人は俯いたまま、人波を避けるように一歩横へずれた。
早く乗らなければ。
それしか頭になかった。
その時だった。
悠人の前を、色褪せた黒いダウンジャケットが横切る。
長い髪。
悠人は何も気づかないまま、電車へ乗り込んだ。
閉まりかけたドアの向こう。
ホームへ降り立った澪が、ふと振り返る。
けれど、そこにはもう、無数の人影しかなかった。
発車ベル。
ドアが閉まる。
電車がゆっくり動き出す。
澪は白い息を吐きながら、その電車をぼんやり見送った。
電車が故郷の駅へ滑り込んだ頃には、外はすっかり夜になっていた。
黒い窓ガラスへ、疲れた顔がぼんやり映っている。
ドアが開く。
冷たい夜風が車内へ流れ込んできた。
悠人は足早にホームへ降りる。
改札を抜けると、駅前のロータリーには数台のタクシーが停まっていた。
その向こうで、赤いテールランプを揺らしながら、バスがゆっくり曲がっていく。
『市民病院前』
表示された文字が、遠ざかっていく。
悠人は立ち尽くした。
次のバスまで三十分以上ある。
ポケットへ手を入れる。
小銭の感触。
財布を開く。
千円札が一枚。
あとは、少しの硬貨だけだった。
タクシー代には足りない。
悠人は唇を噛み、スマートフォンを取り出した。
呼び出し音。
数回目で、佳菜子が出る。
『……もしもし』
病院のざわめきが、微かに聞こえた。
「今、駅着いた」
声が乾いている。
「でも……バス、行った」
少し間が空く。
悠人はロータリーに停まるタクシーを見つめたまま、小さく言った。
「金、あんまなくて……」
情けない声だった。
電話の向こうで、佳菜子が小さく息を吐く。
『……うん』
責めるでもなく、困ったような声。
『お父さん、さっき着いたよ』
遠くで、病院のアナウンスが流れる。
『お母さん、まだ手術中やし……』
その言葉に、悠人はゆっくり目を閉じた。
まだ終わっていない。
まだ、分からない。
『私、病院の前で待っとるから』
佳菜子の声だけが、妙に静かだった。
『ゆっくりでもいいから、来て』
「……わかった」
通話が切れる。
悠人はスマートフォンを握ったまま、タクシーに乗り込んだ。
市民病院の廊下には、消毒液の匂いが静かに漂っていた。
白い蛍光灯。
夜の病院特有の静けさ。
遠くで、何かの電子音が小さく響いている。
悠人と佳菜子は、足早に手術室の前まで来る。
扉の上には、赤いランプ。
『手術中』
その文字だけが、冷たく浮かんで見えた。
そして、その横。
壁へ寄りかかるようにして、父が立っていた。
作業着の上に羽織った黒い防寒着。
乱れた髪。
疲れ切った顔。
配送トラックを降りて、そのまま駆けつけたのだろう。
父は二人へ気づくと、小さく頷いた。
「……来たか」
震えた声だった。
悠人も小さく頷く。
久しぶりに見る父の顔。
本当なら、何か言うべきなのかもしれない。
病気が再発していないこと。
少しずつ働き出していること。
けれど、今はそんな話をする空気ではなかった。
佳菜子は俯いたまま、強くスマートフォンを握っている。
悠人は落ち着かないまま、手術室の前を何度も行ったり来たりした。
白い床。
規則正しく並ぶ長椅子。
静かな廊下。
時計の秒針だけが、妙に耳につく。
父は腕を組んだまま、じっと赤いランプを見つめていた。
誰も、ほとんど喋らなかった。
時間だけが、重く流れていく。
その時だった。
不意に、赤いランプが消える。
三人が同時に顔を上げた。
手術室の扉が開くと、中から看護師たちが現れ、ストレッチャーが静かに押し出されてきた。
白いシーツ。
酸素マスク。
閉じられた母の目。
佳菜子が小さく息を呑む。
悠人は動けなかった。
ストレッチャーは、そのまま廊下の奥へ消えていく。
その後ろ姿を、三人は黙って見送った。
やがて、一人の看護師が父へ近づく。
「先生からお話があります」
父はゆっくり頷いた。
疲れた背中のまま、診察室の方へ歩いていく。
廊下へ、再び静かな時間が戻る。
佳菜子は俯いたまま、何も言わない。
悠人は壁へ寄りかかり、冷たい天井を見上げた。
数分後。
診察室の扉が開く。
父が静かに戻って来る。
その顔を見た瞬間、悠人の胸がざわついた。
父は二人の前で立ち止まる。
そして、小さく息を吐いて言った。
「……命は助かったそうや」
父のその言葉を聞いた瞬間。
佳菜子が小さく息を吐いた。
張り詰めていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。
悠人も、止まっていた呼吸をゆっくり吐き出した。
助かった。
その言葉だけが、頭の中で何度も響く。
廊下の白い光が、ぼんやり滲んで見えた。
けれど――
父はそこで言葉を止めたまま、俯いている。
長い沈黙。
疲れ切った横顔。
佳菜子が不安そうに父を見る。
「……お父さん?」
父は乾いた唇をゆっくり開いた。
「ただ……」
その声で、悠人の胸が再びざわつく。
父は視線を落としたまま続けた。
「傷ついた脳の組織を取ったらしくてな……」
静かな廊下。
遠くで、看護師の足音が聞こえる。
「後遺症が残るかもしれんって……先生が」
佳菜子の表情が固まる。
父は言葉を探すように、小さく息を吐いた。
「最悪……」
そこで一度、言葉が途切れた。
「母さん、話せんなるかもしれん」
悠人は何も言えなかった。
父の声だけが、静かな廊下へ落ちていく。
「……片目も、見えんようになる可能性あるって」
佳菜子が小さく首を振る。
「……嘘やろ」
掠れた声だった。
父は何も答えない。
ただ、深く疲れた顔で床を見つめている。
悠人の頭へ、不意に母の声が浮かぶ。
『ちゃんと食べなさい』
『風邪ひくよ』
『あんた、また夜更かしして』
当たり前みたいに聞いていた声。
それが、なくなるかもしれない。
その現実だけが、重く胸へ沈んでいく。
誰も喋れなかった。
父は長椅子へ腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
佳菜子も俯き、黙ったまま涙を堪えている。
白い蛍光灯。
静かな廊下。
遠くで、ナースステーションの電話が鳴った。
悠人はゆっくり壁へ背中を預ける。
冷たい感触。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく当たった。
画面は暗いまま。
既読のつかない澪とのトーク画面が、頭を過る。
けれど今は、不思議とそれを開く気になれなかった。
悠人はただ、廊下の奥を見つめる。
母が運ばれていった白い通路。
その向こうで、誰かの足音が小さく響いている。
冬の夜は、まだ終わりそうになかった。




