帰る場所
夕暮れ前の街は、薄い灰色に沈んでいた。
海から吹く風は冷たく、商店街の古いアーケードを抜けても、潮の匂いがどこかに残っている。
悠人はポケットへ手を入れたまま、あてもなく歩いていた。
市場の近く。
海沿いの道。
古い商店街。
気づけば、澪がどこかにいそうな場所ばかりを歩いている。
けれど、本当に会いたいのか、自分でもよく分からなかった。
もし会えたとして、何を話せばいいのかも分からない。
ただ、部屋へ戻る気になれなかった。
古びたパチンコ店。
シャッターの閉まった洋品店。
クリーニング屋の前には、「学生服早割」と書かれた張り紙が揺れている。
駅前へ近づくにつれ、人の姿が少しずつ増えていった。
制服姿の高校生。
笑いながら歩く大学生らしい男女。
黒いコートを着た会社員たちが、足早に改札へ吸い込まれていく。
悠人は無意識に視線を落とした。
自分だけが、この街から取り残されている気がした。
大学生くらいの男たちが、コンビニの前で缶コーヒーを飲みながら笑っている。
「マジで単位やばいって」
「バイト減らせよ」
「いや、また、今月、金欠」
他愛ない会話。
けれど悠人には、その時間さえ遠いものに思えた。
ちゃんと学校へ行って。
友達がいて。
将来の話をして。
当たり前みたいに、明日へ向かっている。
潮風が、駅前の広場を吹き抜けた。
悠人は小さく息を吐く。
その時、改札から出てきたスーツ姿の男が、電話を耳へ当てながら頭を下げていた。
「すみません、今日中に送ります」
疲れた声。
ネクタイも少し曲がっている。
それでも男は、足を止めずに歩いていく。
その後ろ姿を、悠人はぼんやり見つめた。
大変そうだと思った。
でも同時に、少し羨ましかった。
忙しくても。
疲れていても。
あの人には、行く場所がある。
必要とされる場所が。
コンビニの自動ドアが開き、暖房の風が一瞬だけ外へ漏れる。
中から出てきた若い女性店員が、同僚らしい男へ笑いながら言った。
「今日、終わったらラーメン行かん?」
「いいね。駅裏に出来た新しい店、気になっていたとこ」
二人は笑いながら、店先のゴミを片付けている。
悠人は、その二人の背中を何となく見ていた。
胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、それは前みたいな苦しさだけではなかった。
羨ましい。
ふと、そう思った。
あんな風に。
普通に働いて。
誰かと笑って。
疲れたと言いながら、ご飯を食べに行って。
そんな当たり前の毎日を、自分もどこかで欲しいと思っていた。
悠人は立ち止まったまま、薄暗くなり始めた空を見上げる。
冬の雲が、ゆっくり流れている。
「……戻れんのかな」
小さく漏れた声は、駅へ向かう人波の音に紛れて消えていった。
駅前のロータリーを、冷たい風が吹き抜けていた。
悠人はポケットへ手を入れたまま、ぼんやり人の流れを眺めていた。
その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震える。
悠人はゆっくり取り出した。
画面には、佳菜子。
一瞬、胸の奥がざわつく。
こんな時間に、妹から連絡が来ることはほとんどなかった。
悠人は通知を開く。
『お母さん事故った』
呼吸が止まった。
次の文章が、震える指の先で揺れる。
『今病院』
『頭打って手術してる』
悠人は反射的に通話ボタンを押した。
呼び出し音。
ざわつく駅前の音。
遠くでバスのブレーキ音が響く。
数回目で、電話が繋がった。
「……もしもし!?」
自分でも驚くくらい大きな声だった。
電話の向こうでは、佳菜子の荒い呼吸が聞こえる。
『お兄……』
周囲の騒がしい音。
病院のアナウンスらしい声。
『お母さん、パート帰りに車にはねられて……』
「え……」
『頭打ったって……今、手術中……』
佳菜子の声が少し震えている。
悠人は言葉を失ったまま、人の流れの中へ立ち尽くした。
駅前の光が滲んで見える。
『お父さん、今、仕事抜けて向かってる』
父の顔が浮かぶ。
配送トラックの運転席。
疲れた横顔。
きっと今も、焦りながらハンドルを握っている。
『……お兄、帰ってこれる?』
その言葉で、悠人はようやく息をした。
「今から帰る」
声が掠れていた。
「すぐ行く」
通話が切れる。
悠人はしばらく動けなかった。
駅へ向かう人波だけが、横を流れていく。
白い息。
発車ベル。
遠くで電車がホームへ滑り込む音。
悠人は我に返ったように駅へ駆け出した。
自動改札を抜け、階段を上がる。
息が乱れる。
ホームへ着くと、冷たい風が強く吹き抜けていた。
電車を待つ人たちが、無言で並んでいる。
学生。
会社員。
買い物袋を持った老人。
その中へ混ざりながら、悠人は落ち着かないまま時刻表を見上げた。
次の電車まで、あと七分。
たった七分が、妙に長く感じる。
悠人はポケットのスマートフォンを強く握った。
何かしていないと、不安で押し潰されそうだった。
冬のホームへ、冷たい風が吹き込む。
線路の向こうに広がる灰色の空を見ながら、悠人は小さく唇を噛んだ。
「……頼むから」
その言葉の続きを、最後まで口には出来なかった。




