この街のどこか
冬の曇り空だった。
海から吹く風は冷たく、砂浜へ打ち寄せる波が鈍い音を繰り返している。
悠人は軍手をはめたまま、黙々と漂着したペットボトルを拾っていた。
二回目の海岸清掃。
前より少しだけ、作業には慣れていた。
ゴミ袋の持ち方。
濡れた流木の重さ。
潮風で冷えた指先。
それでも、胸の奥に空いた穴だけは、そのままだった。
スマートフォンは、今日も静かなまま。
既読のつかない画面を思い出し、悠人は小さく息を吐く。
その時だった。
砂浜の向こうから、子供たちの声が近づいてきた。
黄色い帽子。
小さなリュック。
遠足らしい小学生たちが、教師に引率されながら海岸へ降りて来る。
「わー! 海や!」
「いっぱい貝殻ある!」
子供たちは波打ち際へ駆け出していく。
その中の一人が、ゴミを拾う悠人へ気づいた。
「なあ、あの人、何してるん?」
別の子供が答える。
「ゴミ拾っとるんやろ?」
「仕事なんかな」
「怒られたからやってるんちゃう?」
悪意のない声だった。
だからこそ、悠人の胸へ静かに刺さる。
悠人は俯いたまま、空き缶を拾う。
潮風が強く吹き抜けた。
「こら、失礼なこと言わんの 海を綺麗にしてくれてるんでしょ」
と、若い女の教師が苦笑しながら言う。
子供たちは、悪気なく悠人を見ている。
その中の一人が、ふと思い出したように言った。
「うちのお兄ちゃんも、あの人くらいの歳やで」
「へぇー」
「今、東京で働いてる。車の部品作る会社」
少し誇らしげな声だった。
「うちの兄ちゃんは結婚するらしい この前、彼女連れて来てん」
子供たちの笑い声が、潮風の中へ広がっていく。
悠人は俯いたまま、足元の空き缶を拾った。
濡れた軍手が冷たい。
「兄ちゃん、休みの日でも会社に行きよる。仕事忙しいって」
「大人って大変なんやなー」
「でも、お金いっぱい貰えるんちゃう?」
「この前、外国の車買ったらしいで」
「へー すご!」
無邪気な声。
誰も悠人を傷つけようとしているわけじゃない。
だからこそ、言葉が静かに胸へ沈んでいく。
悠人は小さく息を吐いた。
潮風の向こうで、白い波が鈍く砕ける。
その時、小さな女の子が悠人を見上げた。
「……ありがとう」
そう言うと、照れたように友達の方へ走って行く。
悠人はしばらく動けなかった。
白い波が、防波堤へ鈍く砕ける。
悠人は俯いたまま、小さく苦笑した。
「……何やってんだろうな、俺」
呟いた声は、潮風にさらわれて消えていった。
「お疲れさまです」
不意に後ろから声がした。
悠人が振り返る。
紺色のウインドブレーカーを着た女性スタッフだった。
一回目の清掃の時にもいた、あの女性。
肩までの髪を風で揺らしながら、苦笑するように悠人を見る。
「今日は結構、人多かったですね」
悠人は曖昧に頷いた。
女性は悠人の持つゴミ袋へ視線を落とす。
「前より慣れてきました?」
「……まあ、少し」
「ちゃんと分別できてますし」
女性はそう言って、小さく笑う。
悠人は何となく視線を逸らした。
褒められるようなことじゃない。
こんなこと、あの子供たちだって出来る。
そんな気がした。
潮風が、防波堤の向こうから吹き込んで来る。
女性は海を見ながら言った。
「不思議と冬になると、海に何か捨てていく人、増えるんです」
そして、女性は少しだけ笑って。
「拾っても拾っても、また流れ着くのに」
女性は軍手をはめた手で、小さな貝殻を拾い上げる。
「それでもまた、拾いたくなるんです。」
潮風の音。
遠くで、子供たちの笑い声が聞こえる。
女性は貝殻を海へ投げず、そっとポケットへ入れた。
「……だから、まあ、意味はあるのかなって」
悠人は何も答えなかった。
けれど、胸の奥に引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ静かになる気がした。
海岸清掃が終わる頃には、空は薄く曇っていた。
冬の弱い陽射しが、灰色の海へぼんやり滲んでいる。
冷たい潮風が、防波堤の向こうから吹き抜けてきた。
悠人はゴミ袋を集積場所へ置くと、小さく息を吐いた。
軍手を外した指先が冷たい。
帰ろうと思った。
けれど、足は何となく海沿いの道へ向いていた。
昼下がりの漁港は、どこか気怠そうな空気に包まれている。
防波堤の向こうで、波が鈍い音を繰り返していた。
悠人はポケットへ手を入れたまま、漁港の市場の前を通り過ぎようとした。
白い作業灯。
濡れたコンクリート。
発泡スチロールの箱を運ぶ人影。
魚の匂いと、遠くのエンジン音が混ざっている。
その時だった。
「澪ちゃん、今日も休みなん?」
不意に聞こえた言葉に、悠人の足が止まる。
市場の奥。
エプロン姿の女性たちが、発泡スチロールの箱を片付けながら話していた。
「うん……また連絡つかんらしいよ」
「大丈夫なんかねぇ、あの子」
「この前も、顔色悪そうやったし」
潮風が強く吹き抜ける。
悠人の心臓が、小さく跳ねた。
今、確かに名前が聞こえた。
澪。
悠人はゆっくり市場の方を見る。
白い作業灯の下。
積み上げられた発泡スチロール。
濡れた床。
そこに、澪の姿はない。
けれど――
この街のどこかにいる。
その現実だけが、波の音のように静かに胸へ広がっていった。




