第9話 三年の月日
警報は、もう特別な音ではなかった。
中央東寄り第三防衛帯。夜明け前の荒野に赤い警光が走り、観測塔から短い符号が連続で打ち下ろされる。下級群接近。中型混在。局地防衛線、持続時間十五分想定。
数字にすると軽い。現場に立てば、十五分で十分人は死ぬ。
「右翼二班、前へ。砲線は一段下げて、撃つのは合図のあと。焦って前を焼かないで」
ユリナは胸元の通信結晶へそう告げ、外套の裾を払った。夜気は冷たい。だが空気の底には、もう異獣の臭いが混じっている。鉄と湿った土と、腐った魔力を煮詰めたみたいな匂いだ。
足元の足場板を蹴る。
その一歩で、身体は迷いなく前へ出た。三年で染みついた動きだった。考えるより先に、今どの角度で入り、どの高さで術式を開けば被害を最小にできるかが浮かぶ。
人は、戦争にも慣れる。
慣れたくなくても、慣れないと保たない。
防壁外縁へ躍り出た瞬間、最初の群れが視界に入った。四足の裂爪犬型が十数、節足型がその後ろを這い、さらに奥には中型の甲殻種が二体。三年前なら地方隊の数個班が神経を尖らせて受ける規模だ。今のユリナには、脅威というより処理の順番として見える。
「開いて」
右手を上げる。
展開した術式環が、夜の中で紅紫に咲いた。炎と雷が互いを励起し、熱量と速度を同時に増す。炎雷魔術は昔から破格だったが、三年の実戦でユリナの方も変わった。ただ出力が高いだけではない。どこへ落とせば戦場全体が最も楽になるか、その判断が早くなった。
第一撃で前列を焼く。
第二撃で後列の足を止める。
第三撃で中型の進路ごと切り裂く。
轟音。爆ぜた泥が夜へ舞う。節足型の群れが丸ごと蒸発し、甲殻種の片方が脚を失って転倒する。もう片方は反射的に退こうとしたが、そこへ地を走る雷を這わせ、体内の魔力循環を一瞬だけ狂わせた。
「今!」
後方の砲線が一斉に唸る。調整済みの術式弾が、中型の胸殻へ正確に叩き込まれた。三年前ならユリナが単独で終わらせていたところだ。今は違う。自分一人の圧倒で片づけるより、周囲の火力と嚙み合わせる方が前線は長く保つ。
兵たちが前へ出る。
残敵掃討は、若い班が手際よくやった。悲鳴。短い詠唱。魔刃の閃き。十五分想定だった接敵は、八分で終わる。
それでも、担架は二つ出た。
死者はゼロ。重傷一、軽傷一。上出来だと誰もが言う戦果で、ユリナもそう判断する。けれど担架へ運ばれる若い兵士の顔を見るたび、胸の奥に細い棘が刺さる感覚は残ったままだ。
救えた。全部ではないが、救えた。
その安堵と同じだけ、救えなかった時の記憶も消えない。
「少佐、右翼処理完了です」
副官の報告で我に返る。
「了解。観測塔へ連絡、位相揺れの再測をお願い。今の群れ、湧出間隔が少し短かった」
「はい」
少佐。
三年前にはまだ馴染まなかった呼ばれ方だ。今ではもう、周囲の誰も違和感なく使う。
ユリナ・アークライト、中央直属特務戦闘部隊ウルティマ所属、少佐。二十代半ばでそこまで上がるのは異例だった。だが異例で済ませるには、戦況が悪すぎた。
人が足りない。
力のある人間はもっと足りない。
そして今の人類には、例外を驚いている余裕がなかった。
帰投した基地は、まだ朝だというのに忙しなかった。補給班は次の出撃準備を進め、情報班は北部から飛び込む報告を捌き、治療棟の前には眠っていない顔の軍医が立っている。どこを見ても、少しずつ余裕が削られていた。
食堂で冷えかけた黒茶を受け取り、壁際の席へ腰を下ろす。
ようやく一息ついたところで、卓上端末へ新しい報告が流れた。北方主防衛線、局地崩落。中部西域、避難民流入増大。南端物資港、異獣反応により入港制限。
悪い知らせばかりだ。
二百年前に最初の異界孔が開いてから、人類はずっと負け続けている。負けの速度を遅らせ、致命傷を避け、どうにか今日まで生き延びてきただけだ。近年は特にひどかった。北方の湧出密度は明らかに上がり、以前なら数年に一度の規模だった侵攻波が、今では季節の巡りみたいに来る。
だからこそ、六賢人までが最前線に貼りついている。
魔術体系の頂点と呼ばれ、人類圏の象徴だった六人の大魔術師。そのうち複数が本来の研究領域をほとんど捨てて、北と西の防衛線へ張りついている現状は、希望であると同時に余裕のなさそのものでもあった。
象徴が後方にいられない時点で、世界はかなり悪い。
黒茶は少し苦かった。昔は砂糖を入れていたのに、いつからかそのまま飲むようになった。甘さが嫌いになったわけじゃない。ただ、戦場を往復するうちに、いちいち味を整える感覚が薄れてしまっただけだ。
向かいの席に、副官のエミルがそっと書類束を置く。
「午前の処理です。あと、中央会議が十時から」
「主題は」
「北部の増援再配分と、東部観測網の異常反応について」
東部、という単語に少しだけ眉が動く。
「異常反応?」
「詳細は会議で、とのことです。観測局が昨夜から騒いでます」
ユリナは短くうなずいた。
エミルが去ったあと、しばらく書類へ目を通す。部隊再編、補給遅延、負傷者交代、休暇保留。どれも日常だ。三年で、戦争は日常になった。誰も明日世界が終わるとは騒がない。そのかわり、明日もまたどこかが削られる前提で暮らしている。
その日常の中に、ぽっかり空いた場所がある。
リンドウの不在だ。
時間が癒やすと、人は簡単に言う。実際、痛みの角が丸くなることはある。毎日同じ強度で傷むわけではない。任務が続けば考える暇のない日もあるし、眠りに落ちる直前まで彼の名前を思い出さない夜もある。
それでも、空白は埋まらなかった。
あの郊外の屋敷も、地下室の焼け跡も、未再生のまま消去期限を迎えた幾つかの通信も、全部が今もどこかに引っかかっている。怒りではない。悲しみだけでもない。罪悪感と未練が、形を変えながら残り続けている感じだった。
自分の選択は正しかったのか。
その問いは、三年経っても決着していない。
前線から外す進言をしなければ、彼は別の戦場で死んでいたかもしれない。そう考える日もある。逆に、自分が「もう戦わないで」と言わなければ、あの地下室で禁忌へ手を伸ばさずに済んだのではないかと思う日もある。
どちらにしても仮定だ。
仮定に答えはない。
ないのに、答えを探すのをやめられない。
会議室は朝から重かった。
中央観測局、軍総司令部、各戦線代表、ウルティマ、後方整備局。いつもの面子が長机を囲むが、誰も雑談をしていない。壁面の大光板には大陸東部の地図が広げられ、その一角に赤い脈動点が断続的に灯っていた。
「昨夜二時十四分より、東部旧農業圏跡地において異常な位相反応を観測」
観測局長が杖で光板を指す。
「従来の湧出口反応とはパターンが異なる。深度が不明瞭で、周辺の魔力流束を逆向きに引いている」
別の技官が補足する。
「単純な高密度湧出ではありません。むしろ、局所空間そのものが固定点を失い始めているような挙動です」
会議室がざわつく。
ユリナは黙って光板を見つめた。東部は比較的、まだ余力のあった地域だ。北や西ほど恒常的な圧力はなく、避難民の再定住候補地としても名前が上がっていた。その東部で、観測局が「従来と異なる」とまで言う。
嫌な予感しかしない。
「穴の予兆だと言いたいのか」
誰かが低く言った。
その言葉で、ざわめきが一瞬だけ凍る。
穴。つまり、最初の異界孔と同種の現象。人類史を変えた、あの災厄。
観測局長はすぐには肯定しなかった。けれど否定もできない顔をしていた。
「現段階では断定不能です。ただし、最悪を想定した方がいい」
その会議の直後から、東部への観測資源と機動部隊の一部が回された。ユリナたちウルティマも待機命令を受ける。出撃ではない。待機だ。それがかえって落ち着かない。
何かが来る時、来る前の時間が一番長い。
三日間、東部の反応は膨張と収縮を繰り返した。大きくなったと思えば沈み、消えたかと思えば別の位相で浮かび上がる。通常の湧出口ならあり得ない挙動だ。観測記録は見るたびに悪くなっていった。
その間にも、前線任務は止まらない。
ユリナは北部補助線で二度出撃し、中継防衛帯の崩落を一つ立て直した。人を救い、異獣を焼き、帰還すればまた東部の新しい報告が積まれている。身体は動く。判断も鈍っていない。けれど心のどこかが常に少しだけ浮ついていた。
何かがおかしい。
世界の継ぎ目が、別のところで鳴っている。
四日目の夕方、警報は基地じゅうの術式灯を一斉に赤へ変えた。
普通の警報ではない。音が違う。長く、重く、胸骨へ直接響くような低音が続く。非常招集の中でも最上位、人類圏広域災害対応の符号だ。
ユリナは走った。待機室から指揮棟までの通路で、同じように駆ける兵士たちと何度も肩が触れそうになる。誰も声を上げない。叫ぶ暇がない。全員が自分の端末を見て、そこへ浮かんだ内容に顔色を変えている。
指揮棟の中央光板には、東部一帯の地図が映っていた。
そして、その中心に。
黒い円が、開いていた。
円と言っても、綺麗な形じゃない。空間そのものが破れ、縁を保てずに軋み続けている巨大な亀裂。その周囲の地形は飲み込まれ、空は昼だというのに夜より暗い色へ濁っている。映像越しでも分かるほど、常識から外れた光景だった。
「……嘘でしょ」
誰かの呟きが漏れる。
ユリナも否定できなかった。
史上二つ目の異次元の穴。
そんな言葉は、教本の中の「最悪の仮説」としてしか見たことがなかった。最初の穴が開いた時、人類は四割を失い、生存圏の六割を失った。その災厄が、今度は東部で再現されたのだとしたら。
考えたくなかった。
だが現実は、考えたくない方から平然と来る。
「現地先遣観測班、通信断絶!」
「周辺三都市に即時避難命令!」
「東部防衛軍、線形成前に湧出確認!」
怒号のような報告が飛び交う。
壁の別画面に、拡大観測映像が出た。穴の縁から、何かが這い出てくる。
一体目は、翼だった。鳥でも竜でもない、薄膜と骨棘で構成された巨大な翅が、空を裂くように広がる。その下の本体は霞んで見えないのに、輪郭だけで分かる。大きすぎる。
二体目は、地を踏み抜いて現れた。山のような体躯。甲殻と肉塊が何層にも重なり、頭部に相当する場所だけが異様に細い。歩くだけで周辺地形が沈む。
三体目は、最初どこにいるのか分からなかった。観測画面の空間そのものが、そいつの周囲だけ歪んでいたからだ。輪郭が定まらず、見た瞬間に視線が滑る。存在しているのに、認識が拒まれる。
会議室ではなく、もはや戦時中央指揮所と呼ぶべき空間が、完全な沈黙に落ちた。
全員が理解したからだ。
特級。
しかも三体。
これまで人類が確認した特級異獣は、北の主穴から散発的に一体現れるだけでも国家規模の損耗を伴った。それが新たに開いた穴から、同時に三体。
絶望という言葉が、初めて具体的な重さを持って胸へ落ちる。
「全軍非常招集」
総司令の声が響いた。
「東部を主戦域と認定する。北部・西部の必要最低線を残し、機動戦力をすべて東へ回せ。六賢人へも即時連絡。ウルティマは先行投入」
命令は明快だった。
迷う余地がないほど、状況が悪い。
ユリナは端末へ送られてきた出撃命令を確認し、手袋を締め直した。頭は冷えている。冷えていないと前へ出られない。恐怖や動揺がないわけではない。ただ、それを後ろへ追いやる訓練を三年続けてきた。
周囲では、誰もが急いでいた。補給、輸送、砲戦準備、術式座標の再計算。基地全体が一つの生き物みたいにうなり始める。非常時には、人はかえって静かになるものだと、ユリナはもう知っている。
待機庫へ向かう通路の途中、窓の外が見えた。
夕焼けが始まっている。こんな日にも空は綺麗な色をするのかと、場違いなことを思った。三年前、リンドウと橋の上で召集を受けた夕暮れも、たしかこんな色だった気がする。
不意に、胸の空白がまた疼く。
こんな時に、と思う。
今やるべきことは東部へ飛ぶことだ。人類圏そのものが裂けかけている今、私情に沈んでいる余地はない。けれど、こういう規模の災厄を見ると、かえって彼のことを思い出してしまう。あの地下室で何を捨て、何になろうとしたのか。もし生きているのなら、この異常な世界のどこかで何を見ているのか。
答えはない。
それでも、空白だけは消えない。
「少佐、輸送艇の準備ができています」
エミルの声で現実に戻る。
「はい」
短く返し、ユリナは歩を速めた。
待機庫の中、黒い輸送艇が既に魔力炉を唸らせている。搭乗口の前にはウルティマの隊員たちが揃っていた。皆、顔つきが硬い。無理もない。誰もが、今から向かう先がこれまでの戦場とは別物だと分かっている。
ユリナは機体の前で一度だけ振り返った。
基地の灯り、走る兵たち、上空の赤い警光。そのすべてが慌ただしく、それでも不思議なほど鮮明だった。ここから先で、どれだけのものが変わるのか、まだ誰にも分からない。
ただ一つだけは分かる。
東部で開いた二つ目の穴は、一巻中盤最大の災厄という言葉でも足りない。人類の今そのものを、根元から揺らす事件だ。
ユリナは輸送艇へ踏み込んだ。
床が低く震え、固定具が閉まる。ハッチの向こうで、整備員が最後の確認信号を上げた。
「東部先行戦域、進路クリア!」
「ウルティマ第一群、発進許可!」
重い駆動音とともに、機体が浮く。
窓の外で基地の灯が遠ざかっていく。代わりに、東の空だけが不自然な暗さを帯びていた。まだここから穴は見えない。それでも分かる。あの方角で、世界がもう一度裂けている。
ユリナは膝の上で手を組み、静かに息を吐いた。
戦争は、とっくに日常だった。
けれど、今日から始まるのは、たぶんその先だ。
東部へ向かう輸送艇は、夜の空を一直線に切り裂いていった。




