第10話 第二の穴
東部戦線は、戦場というより災害の内側だった。
輸送艇の後部ハッチが開いた瞬間、熱風とも瘴気ともつかない風が機内へ雪崩れ込んできた。焦げた土の匂い、血の匂い、魔力が焼ける時にだけ生じる金属臭。それらが混ざり合って、肺の奥をひりつかせる。
ユリナは着地と同時に膝を沈め、前方を見た。
空が裂けている。
比喩ではなかった。東部旧農業圏の中央上空、曇天の一部が巨大な傷口みたいにねじれ、内側へ向かって黒く落ち込んでいる。縁は固定されておらず、今も軋みながら少しずつ形を変え続けていた。その奥には空ではない何かが見える。夜とも海とも違う、深さだけを持った暗黒。見上げていると、目ではなく胸の奥が引っ張られるような錯覚に襲われた。
これが二つ目の穴。
史上、二つ目の異界孔。
地上はもっとひどい。
穴の周囲数キロは、もはや地図の形を保っていなかった。畑も道路も集落跡もまとめて抉れ、地面は巨大な爪で引き裂かれたように段差だらけになっている。避難しきれなかった荷車が横倒しになり、簡易陣地は踏み潰され、東部防衛軍の装甲輸送車が半ば地面へ沈んだまま煙を上げていた。
その荒野のあちこちで、異獣が湧いている。
下級も中級も関係ない。ただ穴の周辺に押し出されてきた塊が、そのまま人類圏へ雪崩れ込んでいるようだった。数だけでも吐き気がするのに、問題はそれだけじゃない。
この戦場には、明らかに別格のものが三体いる。
観測映像で見た時点でも異常だったが、現地で相対すると、その異常はもっとはっきりしていた。大きいとか強いとか、そういう尺度の外にいる。存在しているだけで、戦場の前提を変えてしまう類の怪物だ。
「少佐、先遣指揮所から状況更新!」
副官のエミルが駆け寄ってくる。防塵布の上からでも顔色の悪さが分かった。
「北西避難路、さっき閉鎖されました。穴の南側から下級群が回り込んでます。東部防衛軍は第二線まで後退、第三砲兵大隊は半壊」
「民間の取り残しは」
「確認中です。ただ、救助班がまともに入れません」
当然だ、とユリナは思った。今この場で人の流れを作るには、まず特級の圧を少しでもずらさなければならない。
その三体は、穴の周囲にばらばらに陣取っていた。
一体目は、空だ。
穴の北東側上空を旋回する巨大な翼獣。薄膜ではなく、幾重もの骨棘に半透明の膜が張りついたような異形の翼を持ち、そのたびに空気の遠近そのものが軋む。観測局の暫定呼称は天哭翼。天哭翼が翼を打つたび、距離が嘘になる。百メートル先が急に十歩先まで近づいたかと思えば、逆に目の前の敵が突然遠ざかる。砲撃は軌道の途中で位置を失い、照準術式は基準を狂わされる。空間認識そのものが歪められているのだ。
二体目は、地だ。
穴の西側に半身を出した甲殻巨獣。仮称地母殻。地母殻の周囲では地面が地面として機能しない。踏み込んだ場所が泥のように沈んだ直後、次の瞬間には鋼板より硬く凝結する。重さのかかり方も狂っていて、同じ装甲車がある場所では軽々と進み、別の場所では車軸ごと地中へ呑まれていた。防壁も塹壕も工兵術式も、地盤が前提にある限り意味を失う。
三体目は、目視しづらい。
穴の南側、熱霞みみたいな歪みの中にいる仮称幽虚膜。幽虚膜の近くでは、認識と通信が壊れる。そこに何かがいると分かっているのに、輪郭を捉えた瞬間に脳が像を取りこぼす。名前をつけてもすぐに滑る。映像記録も乱れ、音声通信は一拍ごとに別の時間へずれて届く。兵は命令を正しく受けたつもりで、まるで違う方向へ動き出す。戦場の「共有」が成立しなくなる相手だ。
三体とも、存在するだけで法則を歪めている。
そして、その全部を同時に相手取らなければならない。
先遣指揮所の簡易テントで行われた作戦共有は、会議と呼ぶには短すぎた。中央の上級指揮官、東部防衛軍の残存司令、ウルティマの現地指揮官。それぞれが地図の前に立ち、ほとんど怒鳴るみたいな速さで必要事項だけを交換する。
「六賢人のうち二名が北主穴から転進中。ただし到着最速でも四時間後」
「四時間後では東部が消える」
「分かっている。だからそれまで持たせる」
「どうやって」
誰もその問いに綺麗には答えられない。
現実的な選択肢は一つだった。ウルティマが三隊に分かれ、それぞれの特級へ食らいついて被害の広がりを遅らせる。倒すのではない。少なくとも現時点で、それを言い出す人間はいなかった。遅らせる。押しとどめる。避難と再配置の時間を稼ぐ。
ただ、それだけでも常軌を逸している。
「第一隊、地母殻へ。工兵残存と重砲兵をまとめて預ける」
現地指揮官が光板へ三本の線を引いた。
「第二隊、幽虚膜の抑制。認識阻害がひどい。通信術師を多めにつけるが、接敵後は各自で判断しろ」
「第三隊」
そこだけ、一瞬の間があった。
ユリナは顔を上げる。
「天哭翼。空間歪曲が最も広域だ。避難路と砲線の両方を殺している。ユリナ少佐、お前が主力を率いろ」
頷くしかない。
天哭翼を放置すれば、他二隊への砲支援も避難民の輸送も全部詰む。今の東部で最も広く、最も多くを壊しているのがあいつだ。
「了解しました」
答えると、東部防衛軍の司令官が低く続ける。
「正面から倒そうとは考えるな。あれは距離を食う。近づけるときだけ近づき、押し返すことだけを考えろ」
「押し返せるなら苦労はしませんよ」
ウルティマ第一隊の隊長が吐き捨てるように言った。誰も反論しない。苦笑すら起きなかった。それだけ追い込まれている。
分散前、ユリナは一度だけ全隊の顔を見た。
皆、平静を装っている。けれど目の奥は硬い。ウルティマは精鋭だ。死地へ出る覚悟も、人より早く飲み込む訓練も積んでいる。それでも、今から向かう先が普通の死地ではないことくらいは分かる。
「生きて帰ることを前提に動いて」
ユリナは短く言った。
「格好はいいから、無駄死にはしないで。目標は討伐じゃない。保たせること」
その言葉に、何人かが小さくうなずいた。
散開する。
土煙の向こうへ第一隊が走り、南側の歪みへ第二隊が消える。ユリナは自隊とともに北東側の高台を目指した。そこが天哭翼へ最も射線を通しやすい位置だ。
走りながらも、戦場の異常は肌で分かる。
前へ進んでいるのに、景色の近づき方が一定じゃない。二十歩分駆けたはずなのに、視界の中の瓦礫がほとんど大きくならない。次の瞬間には逆に、ずっと遠いと思っていた裂け目の縁が急に目の前まで跳んでくる。空間そのものが伸びたり縮んだりしている。
「距離計、全部切って!」
ユリナは叫んだ。
「自動補正は使わない。目視と部隊間の目印だけ!」
返答の声が後ろから飛ぶ。天哭翼の圏内で照準補助を信じれば、自分から狙いを外すことになる。
高台へたどり着いた瞬間、空が動いた。
天哭翼がこちらを向いたのだと理解する前に、翼の一振りで空間がきしみ、ユリナの足元の地面が一歩ぶんだけ横に滑った。いや、滑ったように見えただけかもしれない。感覚と視界が噛み合わない。
「伏せて!」
叫ぶと同時に、上空から何かが落ちてきた。
羽ばたきそのものが刃になっている。空気の圧が圧縮され、見えない断層となって地表を切り裂くのだ。高台の先端が一撃で削れ、後方にいた防衛軍の一班がまとめて吹き飛ぶ。
血飛沫が、ずいぶん遠いところで舞った気がした。
次の瞬間には、その赤が目の前へ飛んでくる。
「砲線、撃つな! まだだ!」
ユリナは片手を上げ、強引に指示を止めた。この距離で撃てば、自軍の頭上に落ちる可能性が高い。
自分でやるしかない。
炎雷の主環を展開する。紅紫の環が二重三重に開き、熱が一気に集束する。天哭翼は高い。だが高低差すら当てにならない戦場で、高さを恐れていたら何もできない。
「そこ、止まれ!」
全力の一撃を放つ。
雷を芯に通した火槍が一直線に空を裂き、天哭翼の胸郭を狙う。狙った、はずだった。
途中で軌道が折れた。
いや、折れたように見えた。火槍は何もない位置で一瞬遅れ、そのまま天哭翼の少し脇をかすめて消える。距離が喰われたのだ。こちらが把握していた「そこ」に、敵はもういなかった。
「嘘……」
後方で誰かが呻く。
ユリナの奥歯がきしむ。
炎雷魔術は速度と貫通力で押し切る魔術だ。空間認識をごまかされる相手と、こんなに相性が悪いとは思っていなかった。出力は足りている。殺傷力も足りている。なのに届かない。
天哭翼がもう一度羽ばたく。
今度は高台の後ろ側にいた砲兵陣地がまとめて歪んだ。砲が外へ吹き飛ぶのではなく、場所ごと遠ざかったように見えて、次の瞬間には別の角度から崩れ落ちる。空間を切り裂くのではない。位置の関係性そのものを壊している。
「少佐、避難列が北から流れてきます!」
エミルが叫ぶ。
振り向くと、東部農村地帯から逃げてきた民間車列が、護衛兵に挟まれて細い街道を必死に上っていた。泣き声。家畜の鳴き声。荷台の軋み。そこへ天哭翼の圏域が重なれば、一瞬で終わる。
ユリナは舌打ちを飲み込んだ。
倒せなくても、せめて向きを変えなければならない。
「前へ出る」
「少佐!」
制止を無視して高台から飛び降りる。落下中に術式環を五重まで展開し、足元の衝撃を雷で散らす。着地と同時に全身へ補助術式を流し、距離感の狂う戦場を正面から踏み抜いた。
近づけるかどうかは分からない。
それでも、自分が天哭翼の認識を引き受ける位置まで出るしかない。
空が裂ける。
翼の一振り。今度は正面だ。ユリナは右へ跳ぶ。しかし右へ跳んだはずの身体が、一瞬だけ前に滑った。空間の基準がずれている。頬をかすめた見えない刃が、後方の土塊を十メートル単位で抉った。
熱い。
傷は浅い。だが背筋が冷える。
これが「距離を食う」特級。
物理法則が通じないのではない。通じているのに、前提にしていい尺度を一つずつ抜かれていく。そういう類の怪物だ。
「まだ届く!」
自分へ言い聞かせるみたいに呟いて、ユリナは第二撃を撃った。今度は直線ではなく、広域扇状の雷炎。点では外される。なら面で覆う。天哭翼の進路そのものを焼き、避難列との間へ熱の壁を作る。
轟音が空を満たす。
半分は空を焼いた。半分は明後日の位置へ散った。それでも一部は当たった。天哭翼の右翼膜がわずかに焦げ、巨体が初めて不快そうに高度を変える。
「……効く」
なら、押せる。
倒せるかは別だ。けれど、向きを逸らすことはできる。
「全隊、私を基準に扇形展開! 目標は撃墜じゃない、避難路から引き剥がす!」
命令を飛ばしながら、ユリナはさらに前へ出た。背後では護衛兵が民間列を押し込み、輸送班が急ごしらえの結界路を展開する。時間を作れ。数分でいい。数分あれば、救える人数が変わる。
その数分を、天哭翼は簡単にはくれなかった。
翼が鳴るたび、味方の陣形がずれる。十歩先にいたはずの兵が視界から消え、次の瞬間には横合いへ現れる。弾が途中で失速したり、逆に加速して味方の上を掠めたりする。戦場の共有座標が乱れ、声だけでは足りなくなる。
「右翼、今の位置で固定! 動かないで!」
「少佐、どっちが右翼ですか!」
「私から見て右!」
叫んだ直後、その「右」すら一拍後には怪しくなる。
エミルが通信結晶を抑えたまま叫ぶ。
「第一隊より入電! 地母殻、地盤変動域を半径一キロまで拡大! 重砲兵の展開不能、工兵術式が全部呑まれています!」
悪化報告の一つ目。
呼吸が浅くなる。だが意識をそちらへ持っていく余裕はない。
「第二隊は!」
「継続接敵中、ただし――」
言いかけた瞬間、通信が砂を噛んだような雑音へ変わる。エミルが顔をしかめる。幽虚膜の圏域だ。もとより通信が成立しにくい相手だが、この乱れ方は尋常じゃない。
「内容不明! 再取得します!」
天哭翼が高度を落とした。
来る。
ユリナは直感で前へ踏み込んだ。待てば間に合わない。空間が歪む前に、自分から距離を踏み潰す。足元へ雷を這わせ、視覚と身体感覚のずれを力ずくで繋ぎ止める。
「落ちて!」
最大出力。
炎雷魔術の根幹環を七重まで開き、圧縮した熱と雷を一点へ撃ち上げる。視界が白熱する。空気そのものが燃えたような轟き。今度は当たった。確かな手応えがある。天哭翼の腹部側から火花のような黒い液体が散り、巨大な身体が一瞬だけ傾ぐ。
だが、落ちない。
落ちるどころか、その傾ぎ一つで周囲の空間がさらに狂った。地平が持ち上がり、空が近づき、背後の避難列が突然遠くなる。何が近くて何が遠いのか、頭が追いつかない。
「っ……!」
激しい頭痛が走る。術式で無理やり感覚を繋いでいるせいだ。炎雷魔術は本来、こんな使い方をするためのものじゃない。火力を保ちながら、同時に自己の座標感覚まで補助する。出力も神経も削り方がひどい。
それでも止まれない。
後退したら、背後の列が死ぬ。
ユリナは奥歯を噛み、さらに一歩踏み込んだ。
その時、南側から短い悲鳴のような通信が入る。
『――こちら第二、認識固定が……待て、そっちは誰だ、違う、来るな、来るな!』
そこで音が途切れた。
全員の表情が変わる。
ユリナは天哭翼から目を離せなかったまま、胸の奥だけが冷えるのを感じた。第二隊。幽虚膜対応の南側だ。認識が壊れる相手に、今の声色は良くない。
「再接続!」
エミルが叫ぶ。
しかし返るのは雑音ばかりだった。
天哭翼が、今度は真上へ来る。
上を取られた。
まずい、と理解した瞬間にはもう遅い。翼の影が広がり、空間断層の落下角が読めなくなる。ユリナは咄嗟に地へ雷を流し、広域の防護環を持ち上げた。
直後、世界がずれた。
上から来たはずの一撃が、横から胸を殴りつける。防護環が三枚砕け、ユリナの身体は地面を滑った。背中から転がり、止まった時には肺の空気が全部抜けている。右腕が痺れる。視界が少し遅れて戻る。
「少佐!」
誰かの声。遠い。
立つ。立たないと終わる。膝が笑う。だが踏ん張る。血の味がした。口の端を手袋の甲で拭い、無理やり息を吸う。
強い。
分かっていた。けれど、ここまでとは思わなかった。
炎雷魔術でも押し切れない。
当てても足りない。押しても沈まない。むしろこちらの消耗だけが積み上がっていく。戦術の問題ではない。格の問題だ。人類がこれまでの戦争で積み上げてきた「強い魔術師なら届く」という感覚そのものが、ここでは通用しない。
それでも、諦める選択肢はない。
「少佐、北東避難列、ほぼ通過完了!」
その報告だけが、かろうじて救いだった。
なら、次は砲線だ。天哭翼をもう少し東へ押せれば、後方の長距離砲が使える。
「砲兵に伝えて」
息を整えながら言う。
「座標固定は私が合わせる。三射だけでいい。撃てる形を作る」
「了解!」
エミルが走る。
ユリナは両手を広げた。炎雷の術式環がこれまでより低く、幅広く開く。今度は攻撃ではない。空間の歪みを正すことはできなくても、ここ一帯に「自分の認識する基準」を焼き付ける。目印の強制だ。乱れた世界に、炎と雷で無理やり定規を差し込む。
負荷は大きい。頭の奥がずきずきと痛む。
でも通る。
雷の柱を三本、地へ打ち込む。炎の帯でその間を結ぶ。簡易座標結界。完璧ではないが、数秒なら保つ。
「今、撃って!」
後方の砲線が吠えた。
一射目。外れた。天哭翼の翼端をかすめる。
二射目。近い。
三射目。
砲弾は、今度こそ天哭翼の左翼根元へ直撃した。巨大な身体が大きくぐらつき、空を裂くような咆哮が初めてはっきり聞こえた。声だけで兵の膝が震えるほど重い。
「押せる! 続け――」
言いかけたところで、別系統の警報が通信網に割り込んだ。
『東部第二砲兵帯、崩壊! 地母殻が砲列を呑み込みます! 第一隊、後退不能! 繰り返す、後退不能!』
第一隊。
西側だ。
地盤を支配する特級相手に、砲兵帯ごと呑まれたのなら洒落にならない。ユリナの喉が詰まる。だが視線を切れない。天哭翼はまだ生きていて、まだこちらを見ている。
さらに悪化報告は続いた。
『東部防衛軍第三連隊、指揮系統喪失!』
『民間避難区画南端、下級群侵入!』
『北部転進中の援軍、湧出群に阻止され進度三割低下!』
戦場全体が崩れていく音が、通信の向こうからする。
ウルティマが三隊に分かれ、各方面を食い止めている。その前提でようやく東部が数時間持つかどうかという戦場で、その三隊のうち二つがもうまともに機能していない。
それでも天哭翼は止まらない。
むしろ傷ついたことで、さらに暴れ始めた。翼の軌道が荒れ、歪曲の範囲が読めなくなる。こちらが目印に打ち込んだ雷柱の一本が一瞬で遠ざかり、次の瞬間には真横へ出現して爆ぜた。味方が二人巻き込まれる。悲鳴。焦げた匂い。担架。全部が早すぎる。
ユリナは唇を噛み、前へ出た。
もう一度、天哭翼の懐に入るしかない。外からでは押しきれない。近いほど距離の歪みはましだ、とここまで戦って分かった。目の前にある「死」を踏み抜くしか、届く手段がない。
「少佐!」
「ここを維持して。私が翼を落とす」
言い切った瞬間、エミルの顔が変わる。止めたいのだと分かる。それでも彼は止めない。止められないと知っているからだ。
天哭翼が降りてくる。
今度こそ、真っ向から。
ユリナは走った。足元へ雷を纏わせ、炎を背へ噴かせる。風圧で視界が揺れる。近づくほど世界の奥行きが壊れる。目の前の巨体が遠のき、次の瞬間には頬へ触れそうな近さまで来る。酔いに似た吐き気を噛み潰し、ただ前へ。
胸の中で、妙に静かな声がした。
ここで負ければ、人が死ぬ。
自分が強くなった意味も、三年戦い続けた意味も、全部そこで切れる。
だから落とす。
倒しきれなくてもいい。今だけ、ここだけ、東部から引き剥がせればそれでいい。
両手を重ね、炎雷の核を一点へ圧縮する。これ以上は危ないと身体が警告してくる出力を、無視してさらに上げる。腕の血管が熱い。視界の端が赤く染まる。
「――落ちろ!」
その瞬間、通信結晶が耳元で裂けた。
『第一隊、応答途絶!』
『第二隊も……駄目です、通信断絶!』
世界が一拍止まる。
第一隊と第二隊。
二つとも。
ウルティマ三隊のうち、自分たち以外の全部が沈黙した。
その事実が胸へ突き刺さるのと、天哭翼へ放った一撃が空を貫くのは、ほとんど同時だった。雷炎の槍が翼膜を深く裂き、巨大な影が大きく傾ぐ。だが落ちない。落ちないまま、化け物は怨嗟みたいな声を上げて高度を取り直す。
ユリナはその場で膝をつきかけて、ぎりぎりでこらえた。
息が荒い。頭が割れそうに痛い。魔力炉みたいに身体の中心が熱を持ち、指先が痺れている。こんな状態で、まだ終わっていない。
エミルが駆け寄ってくる。顔が真っ青だった。
「少佐……」
その呼びかけの続きは要らなかった。
もう分かっている。
第一隊と第二隊の通信が落ちた以上、東部戦線の広域指揮は事実上分断された。後方砲線も半壊。避難は一部しか終わっていない。六賢人の到着はまだ遠い。援軍も詰まっている。
残っているのは、自分たち第三隊だけだ。
そして目の前には、まだ天哭翼が生きている。
遠くでは穴が不気味に脈打ち続けている。西では地面が唸り、南では認識を狂わせる歪みが広がっているはずだ。見えなくても分かる。もう東部全域が、ばらばらに裂け始めている。
「……全隊、再集結」
ユリナはどうにか声を絞り出した。
「砲線残存と合流。負傷者を捨てないで。移動は目印を切らさないように、二人一組で」
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
震える余裕がないだけだ。
「孤立を前提に組み直す」
その一言で、周囲の空気が変わる。兵たちの表情から最後の希望が一枚剥がれ、代わりにもっと硬い決意が張りつく。孤立。つまり、助けはすぐには来ないということだ。
誰も異論を言わない。
言える状況じゃない。
ユリナはもう一度だけ、裂けた空を見上げた。天哭翼はまだそこにいて、穴の向こうの闇は少しも揺るがない。
通信断絶の報が静かに重く残る中、東部戦線におけるユリナたちの孤立は、もう誰の目にも明らかだった。




