第11話 絶体絶命
孤立が確定してから、戦場は一段と静かになった。
静かになったように感じただけかもしれない。実際には砲声も咆哮も絶えず響いているし、避難民の列は泣き声と怒号で揺れている。けれど、援軍が来るという前提が消えた瞬間、人の心のどこかが余計な音を聞かなくなるのだと、ユリナは知っていた。
東部北東斜面、仮設撤退回廊第三節点。
ユリナたち第三隊は、崩れた丘陵と旧灌漑路の間に残る細い高地へ再集結していた。背後には避難民の列がある。荷車、装甲輸送車、担架、家畜、幼い子どもを抱いたまま走る母親、顔を灰まみれにした老人。東部農村圏と周辺集落から引き上げてきた人々が、唯一まだ繋がっている南東の輸送回廊へ詰まりながら流れていた。
退けない理由が、目に見える形でそこにある。
ここを割られれば、後ろの列はそのまま飲まれる。
「避難列、現在何割」
ユリナは通信結晶を耳元へ押し当てたまま訊いた。
返ってきたのは、疲労で喉を潰した兵站士官の声だった。
『六割弱です。ですが南東の旧鉄橋が渋滞しています。車両二台が横転して、完全な一列通行です』
「撤去班は
『行かせていますが、地母殻側の震動で作業が止まりがちです。最速でもあと二十分』
二十分。
平時なら短い。今の東部では永遠に等しい。
ユリナは高台の縁から後方を見た。細い灌漑路沿いに避難列が蛇みたいに伸びている。列の先頭は見えない。最後尾も見えない。あれだけの人数を抱えたまま下がれば、機動力という言葉そのものが意味を失う。
しかも今の後退は、秩序だった転進ではない。東部防衛軍の残存、後方整備班、民間護衛、砲兵崩れ、治療搬送。いろいろな役割の人間がひとつの細い道へ押し込まれている。ここで天哭翼が一度でも進路を通せば、列は将棋倒しに崩れ、その上から下級群が雪崩れ込むだろう。
退却はできる。
だがそれは、背後を見捨てるという意味でしか成立しない。
「少佐」
エミルが走ってくる。頬に細い裂傷。呼吸が荒い。
「砲兵残存は七門まで減りました。弾薬も高密度弾はあと三斉射分。通常弾はありますが、あの空間歪曲下だとほぼ当たりません」
「分かった。通常弾は地上群へ回して。高密度だけ私の合図で使う」
「了解です」
エミルは一度だけ息を整え、それから声を落とした。
「……南側から、第二隊の再接続はありません」
やはり、と思うのと同時に、胃の底が冷える。
第一隊も同じだ。途絶えたまま、戻らない。まだ全滅と断じるには早い。天哭翼の圏域でさえ通信は不安定なのだ。幽虚膜と地母殻の圏内ならなおさらだろう。けれど希望的な言い換えで現場が変わるわけでもない。
「記録だけは継続して。どこかで繋がる可能性は残しておく」
「はい」
エミルが去ったあと、ユリナは空を見上げた。
天哭翼は高い位置で旋回を続けている。傷ついた左翼根元から、黒い体液みたいなものが細く散っていた。確かに通っている。自分の炎雷魔術は届いている。だが届くことと、押し切れることは別だ。
化け物は、まだ本気で降りてきていない。
むしろこちらの射線と火力、避難列の流れ、地形の残り方を測っているように見えた。あれほど巨大で、あれほど異質なのに、戦場の嗅覚だけは獣じみて正確だ。
背後の避難列から子どもの泣き声が届く。
振り返ると、荷台の端で小さな男の子が震えていた。煤で汚れた頬に涙の筋がついている。隣に座る母親らしい女が、必死に背を撫でていた。
胸の奥が、嫌な形で軋んだ。
あの日の村でも、似たような声を聞いた。火の向こう、家が崩れる音にまぎれて、誰かが泣いていた。ユリナはリンドウの腕を掴んで、必死に引っ張った。逃げよう、と何度も言った気がする。けれどどこまで届いたのか、今でもはっきりしない。
頭を振る。
今は過去に沈む時間じゃない。
「全隊、聞いて」
胸元の通信結晶へ声を流す。響きは穏やかに、内容は短く。
「ここが最後の足場です。背後に避難民が残っている以上、私たちはここを捨てられない。無理に前へ出なくていいけど、崩れ方だけは選んで。死ぬためじゃなく、生かすために立つよ」
返答がいくつも重なった。短く、硬く、しかし乱れてはいない。まだ部隊は崩れていない。それだけでも十分だった。
天哭翼が、ゆっくりと高度を下げ始めた。
来る。
翼の輪郭がさっきまでと違う。傷ついた左翼だけではない。左右の翼膜そのものが、内側から脈打つように膨らんでいる。半透明だった膜が濁り、骨棘の間に黒い筋が何本も浮かび上がった。巨体全体が、空中でじわじわと組み替わっていく。
「形態変化……?」
誰かが呟く。
その言葉を聞いた瞬間、ユリナの背に冷たいものが走った。
特級異獣が「一つの形」で固定されている保証はない。理屈としては分かっていた。だが実際に目の前で始まると、理解と実感の間に深い溝がある。
天哭翼は翼を大きく広げた。
裂けた左翼根元が、逆に開く。傷口ではない。そこに最初から二枚目の構造が仕込まれていたみたいに、内側から細い膜の束が何十、何百とせり出してくる。羽ではない。鰓にも似ている。薄く、灰銀色に光る、霧の器官だ。
「総員、防護――」
言い終わる前に、それは放たれた。
翼の内側から、灰銀色の霧が吹き出す。
煙のように軽く見えた。だが空へ散るのではなく、意思を持つみたいに低く広がり、戦場の地形へ沿って這ってくる。風向きなど無視する動きだった。灌漑路の縁をなぞり、瓦礫を舐め、砲兵陣地と避難回廊のあいだへ薄く流れ込む。
霧が最初に触れたのは、砲兵が展開していた照準補助陣だった。
光っていた術式文字が、一瞬でくしゃりと崩れる。燃えるのではない。ほどけて、意味を失う。線と環がぐにゃりと歪み、そのまま黒い煤みたいな残滓へ変わった。
次に、前衛兵の障壁術式が落ちた。
「え――」
若い兵が、信じられないものを見る顔をした。手元に展開していた小型障壁が、触れた途端に砂みたいに崩れ、逆流した魔力で指先を焼く。悲鳴。別の場所では治療班の止血陣がほどけ、押さえていた傷口から血が噴き出した。
魔術が、壊れる。
消されるのではない。成立したはずの術式が、そのまま構造を保てず崩壊する。
「魔術崩壊の霧……!」
エミルが息を呑む。
その命名が妥当かどうかは分からない。だが現象としては、それ以外に言いようがなかった。
霧に入った術式は、精度を失う。脆い魔法から順に崩れ、維持型の陣はことごとく死ぬ。しかも厄介なのは、ただ無効化するだけではないことだった。崩れた術式は逆流する。かけ手の魔力回路へ、設計の途中で壊れた構造がそのまま跳ね返るのだ。
前衛の一人が、その場で膝をついた。鼻から血が落ち、目の焦点が合っていない。
「回路焼損! こっち一人、戦線離脱!」
「担架、早く!」
怒号が飛ぶ。
別の地点では、飛行補助を使っていた砲兵が霧へ触れた瞬間、術式を失って高台から転げ落ちた。治療班の光も、通信中継も、距離測定も、支援補助も、片端から怪しくなる。
ユリナは舌打ちを押し殺した。
広域火力と連携で押していた今の戦い方が、まとめて殺された。
しかも霧は止まらない。薄い灰銀の帯が、じわじわとこちらの線を侵食してくる。避難列の方へも伸びているのが見えて、背筋が冷えた。あれに民間人が包まれたら、魔道具も輸送補助も、傷病者の維持術式もまとめて死ぬ。
「全隊、維持術式を捨てて! 常時展開は全部切って!」
ユリナはすぐに指示を飛ばす。
「瞬間起動だけに絞る! 長く保つな、崩れる前に使い切って!」
実戦経験のある隊員たちはすぐに切り替えた。障壁を張りっぱなしにせず、一撃の瞬間だけ立ち上げる。強化を流し続けず、踏み込みの一歩だけへ圧縮する。それでも普通の兵にはきつい。維持術式に頼っていた者から順に、動きが落ちていく。
「三班、二名回路損傷!」
「砲兵五番、両手の制御不能!」
「治療班、後退要請です! ここでは治療術が保ちません!」
離脱報告が立て続けに入る。
戦線離脱は臆病だからではない。立っているだけで術式が腐っていく霧の中では、前へ出られる人間の方が少数になる。魔力量の多寡より、崩れた術式の反動に耐えられるかどうかが先に問題になる。
ユリナは前へ出た。
霧が頬を舐めた瞬間、展開していた炎雷の補助環が一枚だけざらりと削れる感覚があった。普通の術者ならそれで崩壊する。だが彼女の炎雷魔術は出力が高すぎる。術式が壊れる前に、力でねじ伏せて通せる範囲がまだある。
「少佐、前は危険です!」
「分かってる。でも私が出ないと押し返せない」
ユリナは低く答え、霧の薄い層へ突っ込んだ。
肺が焼けるようだった。霧そのものが毒なのではない。けれど魔力と接触するたびに、術式構造の壊れる感触が神経へ直接触れる。自分の中の魔術回路を、ざらざらした布で逆撫でされているみたいな不快感だった。
その不快感を力づくで押し潰し、右手へ雷を集める。
「焼き切って!」
炎と雷を束ね、霧の前縁へ薙ぎ払う。灰銀の層が一瞬だけ吹き飛んだ。完全には消えない。それでも穴は開く。その隙に前衛が下級群を処理し、砲兵が高密度弾を叩き込む。
天哭翼はさらに低くなった。霧を撒きながら、自分自身は高所から安全に戦場を腐らせる。狡猾だ。苛立つほど合理的だった。
ユリナは三度、四度と霧を焼いた。焼くたびに、自分の炎雷環も削れる。内側で術式がきしみ、視界の端に赤い残像が差す。
押し返せる。
けれど、保たない。
「少佐!」
エミルが再び駆け寄った。今度は焦りを隠せていない。
「背後の避難回廊、南端で詰まりました! 負傷者車列が進めなくなってます。しかも下級群が西側斜面を回り始めてる」
「護衛班は」
「出しています。ただ、人が足りません!」
足りない。
その言葉が今日だけで何度目か分からない。足りることの方が珍しい時代だ。だが今は、その足りなさが直接、背後の命の数に変わる。
ユリナは後ろを振り返った。
避難列の一角で、車輪の外れた荷車が道を塞いでいるのが見えた。その周囲で人が詰まり、押され、転びかけている。さらに後方には担架列。今あそこへ霧が届けば、維持術式の切れた重傷者から先に死ぬ。
退却はできない。
理由はもう十分すぎるほど明確だった。ここを空けた瞬間、避難民も負傷兵も護衛も全部が一つの塊になって潰れる。しかも南と西は他特級の圏域に近く、回り込みも利かない。後退は経路喪失と同義だ。
なら、ここで止めるしかない。
ユリナは一瞬だけ目を閉じ、息を吸った。
怖くないわけじゃない。怖い。自分がここで削り切られる未来が、だいぶはっきり見える。でも、怖さより先に出てくる感情がある。
責任だ。
自分はここで最も強い。ウルティマの主力で、東部へ真っ先に投入された戦力で、背後の全員が今は自分たちの線に命を預けている。だから立つ。それだけは迷いようがない。
「エミル」
「はい!」
「離脱基準を下げる。回路が怪しい者、補助術が二回以上崩れた者、即後退」
「しかし――」
「戦える人数を残す方が先。ここで全員焼けたら、後ろも終わる」
エミルは悔しそうに唇を噛み、それでも敬礼した。
「了解です」
命令が回る。
それから十五分ほどで、味方は目に見えて減った。立っていられる人間が、次々に戦線離脱していく。顔面蒼白の術師。腕の痙攣が止まらない砲兵。崩壊した障壁の反動で鼓膜を焼かれた前衛。皆、後ろ髪を引かれる顔で下がっていくが、恥ではない。むしろ今ここで立ち続ける方が、ある種の無茶だ。
ユリナはその無茶の中心に立っていた。
前へ出て霧を焼き、戻って避難列の崩れを抑え、また前へ出る。炎雷魔術は彼女の周囲だけ、まだ法則を保っていた。炎の熱で霧を押し、雷の瞬発で空間歪曲の一拍をねじ伏せる。完璧な対抗ではない。だが戦場に局所的な「まともさ」を作れるのは、今のところ彼女だけだった。
「三列目、詰まらないで! 子どもを先に!」
「荷を捨ててください、命の方が先です!」
「担架、そのまま左へ! 結界路はまだ保ってる!」
戦場の真ん中で、ユリナの声だけは不思議とよく通った。柔らかさは消えていない。けれど迷いのない声だった。その声を聞くだけで、転びかけた民間人がもう一歩進める。護衛兵が顔を上げる。砲兵が最後の一射を合わせる。
英雄とは、たぶんこういう時の呼び名なのだと、自分で皮肉に思う。
褒められるために立っているわけじゃない。けれど誰かが立たなければ、もっと多くが死ぬ場所で、立てる人間が立つ。それだけで人は英雄と呼ぶ。
天哭翼が、また鳴いた。
今度の咆哮は低く、長かった。翼の内側から吹き出す霧がさらに濃くなる。灰銀色だったものが、ところどころ黒く濁り始める。嫌な兆候だと分かる間もなく、その霧へ触れた古い対魔柵がまとめて崩れた。
術式杭が一本ずつ黒い砂みたいにほどけ、地へ落ちる。
「密度が上がってる……!」
誰かの声が震えた。
霧は進化していた。いや、こちらの対処に合わせて、より壊しやすい形へ組み替わっているのかもしれない。考えたくない推測だが、特級ならあり得る。
ユリナは舌の裏で血の味を感じた。さっきから小さな内出血が止まらない。炎雷魔術を過剰励起し続けたせいで、自分の身体の方もだいぶ危ない。
「少佐!」
エミルが今度は近くまで来て、声を潜めた。
「隊の残存、まともに前に出られるのが十九です。砲兵は実質四門。これ以上は……」
言葉の先を、二人とも分かっていた。
これ以上は保たない。
普通に戦えば、だ。
ユリナは数秒だけ黙った。霧の向こうで天哭翼が翼を傾け、こちらの疲弊を待っている。背後では避難民がまだ途切れない。最終列が抜けるまで、最低でもあと十分はかかる。十分。今の自分たちには、重すぎる時間だ。
そこで、決めた。
「エミル」
「はい」
「私が前へ出る。残りは避難回廊の直衛に回して」
「少佐、それは――」
「最後まで聞いて」
ユリナは真っ直ぐ彼を見た。
「ここから先は、隊で押す戦いじゃない。私が霧の中心を焼いて、天哭翼の意識を全部こっちへ引く。その間に、避難列を抜けさせる」
エミルの顔色が変わる。反対の言葉が喉元まで来ているのが分かる。けれど彼は、ただ感情で止める人間ではない。だからこそ、ユリナもちゃんと言わなければならなかった。
「退却できない理由は見えてるでしょ。後ろにあれだけ人がいる。今の隊火力じゃ、全体を守りながらは無理」
「それでも、少佐一人で全部引き受けたら」
「全部は引き受けない。時間だけ稼ぐ」
ユリナは短く言い切った。
「それなら、私が一番向いてる」
エミルの指が震えた。彼は声を絞る。
「命を削る気ですね」
返事は一拍遅れた。否定しなかったから、それが答えになった。
炎雷魔術には、軍の教範に載らない過励起の手段がある。巨大な魔力量を持つ者だけが踏み込める禁則領域。魔力炉の出力を上げるのではない。生命活動そのものを術式循環へ噛ませ、心拍、血流、神経伝導、臓器の耐久までまとめて燃料へ変える。
使えばどうなるか、知らないわけがない。
短時間で爆発的な火力は出る。代わりに身体は壊れる。回路だけでなく、命そのものを削る。長く使えば、そのまま戻れなくなる。
「少佐……」
「命令」
柔らかく言った。けれど断ち切るような硬さを添えて。
「あなたは後ろを守って。ここで全員が前に残る方が、私は困る」
エミルは目を見開き、それからぎりぎりで頷いた。敬礼の動作が、少しだけ乱れていた。
「……了解です」
彼が去ったあと、ユリナは一人で高台の先端へ歩いた。
霧はもう足元まで来ている。灰銀の中に黒が混じる。魔術崩壊の気配が皮膚の表面をざらつかせる。普通の術者なら、それだけで吐き気を催すだろう。
ユリナは深く息を吸った。
肺が痛い。心臓が早い。なのに、頭は妙に澄んでいる。覚悟を決めたあとの冷たさだった。
故郷を失った日のことが、急に近くなる。
赤い夜。燃える家。崩れる屋根。手を伸ばしても全部には届かなかったあの日。ユリナは今でも、何人を置いてきたか数えられない。数えようとすると、息が止まりそうになるからだ。
だからもう、同じ景色をこれ以上増やしたくない。
守れなかった場所を抱えて、それでも守る側に立ち続けると決めた。その最前線が今ここだ。
「……今度は」
小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。
「今度は、逃がす」
両手を胸の前で重ねる。
炎雷の主環が、これまでよりずっと内側から立ち上がった。魔力を集めているのではない。自分の身体を、術式そのものへ近づける。鼓動が熱へ変わる。血の流れが雷へ変わる。痛い。けれどまだ始まったばかりだ。
髪の先がふわりと浮く。肌の上を紫電が這う。周囲の隊員たちが思わず息を呑む気配が、背中越しに分かった。
「少佐、退がってください!」と、後ろで誰かが避難民へ叫んでいる。
ユリナは前だけを見る。
天哭翼もまた、その異常な出力変化に気づいたらしい。旋回軌道がわずかに変わり、こちらへ完全に意識を向ける。望むところだった。
「来て」
呼ぶように言って、一歩踏み出す。
炎雷魔術・過励起。
術式名としては軍へ提出していない。提出する気もなかった。これは奥義ではなく、寿命を削る方便に近いからだ。けれど今、そんな建前は意味がない。
主環が十重まで開く。
熱で視界が揺らぐ。心臓の鼓動が一つごとに重い。腕の毛細血管がぶちぶちと切れる感覚。耳の奥で血が鳴る。全部が燃料へ変わる。
「――燃えて」
放った瞬間、世界が赤と紫に染まった。
霧が、焼けた。
今まで押し返すのがやっとだった魔術崩壊の霧が、中心から一気に蒸発する。灰銀の層が悲鳴みたいに捩れ、空間歪曲ごと一瞬だけ穴が開いた。天哭翼の本体が、初めてはっきり見える。
そこへ、雷炎の奔流を叩き込む。
翼膜が裂ける。骨棘が一本、二本と折れ、黒い液が空から降る。巨体が初めて苦悶に近い鳴き声を上げた。高台の上にいた兵士たちが、その声だけで足を止めるほどの圧だった。
効いている。
だが、足りない。
天哭翼は墜ちない。むしろ傷ついたことで形を変える。左右の翼を半ば畳み、身体中央へ寄せて、落ちるのではなく「刺さる」ための形へ移行していく。空を泳ぐ獣から、空間ごと貫く槍へ。最悪の変化だった。
「うそだろ……」
誰かが掠れた声を漏らす。
ユリナは吐き気をこらえながら、もう一度術式を組んだ。過励起を重ねれば、戻れない可能性が一気に上がる。けれど一回で仕留め切れなかった以上、選択肢はない。
後ろでエミルの怒声が飛ぶ。
「最終列を急がせろ! 負傷者を置くな、押してでも通せ!」
避難民の流れがようやく再開し始めていた。荷車が一台、二台と抜ける。担架列も動く。あと少し。あと少し持てば、この場の価値はある。
だから立つ。
立って、止める。
天哭翼が急降下に入る。
空間歪曲が前より深い。景色が反転し、近景と遠景が何度も入れ替わる。高台の端が消えたと思えば真横に現れ、避難列の灯りが頭上へ跳ぶ。世界全体が、怪物の通り道に合わせて捩じ切られていく。
ユリナはその中心へ、自分から火を打ち込んだ。
「こっちだ!」
挑発に近い叫びだった。
天哭翼の視線が、確かにこちらへ固定される。ならいい。背後から目が逸れたなら、それでいい。
次の瞬間、空間断層がまともにぶつかった。
ユリナは左半身ごと吹き飛ばされ、高台の岩肌へ叩きつけられる。肺の中の空気が消える。肩が外れかけ、視界が白く弾けた。立て、と頭では命じるのに、身体が半拍動かない。
血が口から溢れる。
過励起の反動も重なっている。内臓がきしむ。心臓が痛い。手足の末端がもう痺れていて、指がどこまで動くか怪しい。
それでも、背後から子どもの泣き声がした。
それで十分だった。
ユリナは岩を掴んで立ち上がる。左腕は半分うまく上がらない。なら右だけでいい。炎雷の出力を片腕へ集中させ、壊れかけた身体を無理やり前に向ける。
高台の後ろでは、最後尾に近い避難列がまだ詰まっていた。老女を支える少女。担架を担ぐ二人の兵。足を引きずる砲兵。皆、こちらを見ている。見てしまっている。自分たちの命がどこに乗っているか、分かってしまっている目だった。
逃げられない。
逃げる気も、もうない。
「全員、低く!」
最後の指示を飛ばす。
返事は聞こえなかった。耳鳴りがひどいせいか、あるいは本当に音が潰れたのか分からない。ただ、人影だけは一斉に伏せるのが見えた。
天哭翼が、正面から来る。
槍のように折り畳まれた巨体。翼の内側からなおも滲む黒混じりの霧。空間そのものを裂き、周囲の距離を食いながら、一直線にユリナへ。
死ぬ、と分かった。
そこで初めて、不思議なくらい心が静かになる。
怖さは消えない。けれど、それ以上に納得があった。ここが自分の立つ場所なのだと、今はっきり分かる。故郷を失った日の続きを、ここで少しでも違う形にできるのなら、それでいい。
リンドウの顔が一瞬だけ浮かぶ。
幼い頃の、煤まみれの顔。三年前、橋の上で振り返った横顔。温室で傷ついたまま静かに拒んだ目。消えたまま戻らないその不在が、最後の最後で胸を掠める。
会いたかった、と思う。
でもその感情に沈む暇はなかった。
「……ごめん」
何に対する謝罪か、自分でも分からなかった。
ユリナは残った全てを右手へ集める。心臓が悲鳴を上げる。血管が焼ける。炎と雷が、自分の命を食べながら膨らんでいく。
これで足りるとは思えない。
それでも、ここで立つ以外の答えをユリナは持っていなかった。
天哭翼の一撃が、振り下ろされる。




